第3章 わたしの気持ちは、わたしのもの
Scene:教室の昼休み/犬占い
「なあ、早矢。これ見てみ、犬占い」
昼休み、凌がスマホを片手に笑いながら早矢に話しかける。
「犬占い?」
「誕生日入れると、自分がどの犬種っぽいか出るんだって。ほら、俺シベリアンハスキーだった」
「うわ、めっちゃそれっぽい!あっけらかんとしてて、でも正義感強くて、突っ走り系」
「いや、お前が言うと説得力あるな……お前は?」
「私は……柴犬!“一途で忠誠心が強いけど、マイペース”って書いてた」
「それ、めちゃくちゃ合ってるな」
「でしょ?」
ふたりでくすくす笑い合う姿に、真帆は少し離れた席から視線を向けていた。笑っているはずなのに、胸の奥がじんわり熱くなる。
Scene:放課後・100円ショップ
パーティーコーナーの棚の前で、真帆はひとり立ち尽くしていた。犬耳カチューシャがずらりと並ぶ。
(……なんで、こんなとこ来てんの私)
そう思いながらも、手は勝手に茶色、白、黒の犬耳を取っては戻し、迷い続けていた。
(柴犬風……は、被る。黒耳はツンツンすぎ?でも、白のふわふわ……ありかも?)
どう見ても普段の自分とは違う“ふわふわ系”。でも、早矢がくすっと笑ってくれるなら――
(……それだけで、嬉しいのかも)
そう思った瞬間、背後から声がかかった。
「お探しのもの、お決まりでしたか?」
「っ……!!」
跳ねるように驚き、咄嗟に手に取った犬耳を握りしめたまま、
「これ、お願いします!」とレジへダッシュした。
Scene:夜・真帆の部屋
買ってきた白いふわふわ犬耳が、机の上で静かに主張していた。鏡の前に立ち、そっとつけてみる。
(……似合うとかじゃなくて、ネタで。ネタで行くやつ)
そう心で言い訳しながらも、鏡の中の自分と目が合う。
「……あんた、なにやってんの」
思わず自分に突っ込んでから、少しだけ笑った。
(でも……これで、早矢と話せたら)
ほんの小さなきっかけでも、自分から何かを動かしたいと思った。
「……明日、持って行ってみるか」
犬耳カチューシャをそっとポーチに入れながら、真帆は静かに頷いた。
Scene:夏祭りの夜/人混みの中で
人であふれる参道の一角。浴衣姿の中学生たちが、屋台を巡り、笑い声を響かせていた。
その中で、真帆はそっと髪にカチューシャをのせる。
白くてふわふわの犬耳。浴衣にも違和感がないように、ヘアピンで固定しながら、自分の姿をスマホのインカメで確認する。
(……やりすぎ?いや、ネタだし。これはあくまで話のきっかけ)
でも、その頬はほんのり赤く染まっていた。
周囲の視線が少し気になるけれど、それでも――**「話しかけられないままで終わるより、ずっとマシ」**だと思った。屋台の景品?くらいに思うかもしれないし。
Scene:夏祭りの裏通り/犬耳とプリッツ
屋台の賑わいから少し離れた、裏通りの木陰。提灯の明かりが揺れている。人の声も遠のき、空気はひんやりとしていた。
「……ここ、涼しいね」
早矢が、飲み物のストローをくるくると回しながらつぶやく。
その横に並んで腰かけた真帆は、少し緊張したように浴衣の袖を直し――そして、
頭の犬耳カチューシャをそっと直した。
早矢が、それに気づいて目を丸くする。
「……それ、何?」
「ん?犬耳。流行ってんじゃん、犬占い。……一応、話のネタに」
そう言いながらも、真帆は視線を逸らす。
早矢は一瞬の沈黙のあと、ふっと笑った。
「似合ってる。……でも、柴犬っていうより、シベリアンハスキーかな」
「え、なんでよ」
「目が真剣すぎて、ちょっと怖い。でも放っておけない。……そんな感じ」
「……それ、褒めてる?」
「もちろん」
真帆はふいに照れて、犬耳に手をやった。
(……買ってきてよかった、かも)
そんな沈黙を破るように、早矢がバッグをごそごそと探り、何かを取り出した。
「はい、プリッツ。くじで当たったの。さっき、あげそびれてた」
「……ん、ありがと」
「てかさ、これ渡すときに一度やってみたかったことあって」
そう言って、早矢は――ためらいもなく、プリッツを1本口にくわえた。
「ほら、真帆。取ってみて」
「……は?」
「早い者勝ち~、ってやつ。こういうの、やってみたくなるじゃん、なんとなく」
いたずらっぽく笑う早矢の目。プリッツの先が、まっすぐこちらを向いている。
真帆の胸が、一瞬で騒ぎ出した。
(……え、マジで?これって……)
早矢は本気でふざけてるだけかもしれない。深い意図なんて、ない。
ただ――
真帆の胸の中で、何かがはっきりと囁いた。
(これ、近づけるチャンスじゃん)
顔が熱くなる。喉が渇く。でも、それでも――
「……いくよ」
真帆はそっと前かがみになった。
プリッツの先端が、自分の唇に触れる。ほんの数センチ向こうに、早矢の顔。体温と息遣いが感じられる距離。
けれど、ほんの一瞬――
ぱきっ。
プリッツが途中で折れた。
目の前で、早矢がふふっと笑った。
「……なに、その顔。めっちゃ緊張してたでしょ」
「べ、別にしてないし」
「うそ。真っ赤だったもん」
「……あんたが変な渡し方するからでしょ……」
そう言いながらも、真帆は目の前の早矢から、視線を外せなかった。
(……あ)
その時ふと気づいた。
いつも部活で走っている時の、あのまっすぐで凛とした横顔じゃない。陸上に打ち込む、真剣でキリッとした眼差しでもない。
今の早矢は――ただの、普通の中学3年生の女の子の顔をしていた。どこか照れて、でも嬉しそうで、無防備な笑顔。その目を見た瞬間、真帆の胸の奥が、静かにざわついた。
(……ずるいよ、そういう顔)
たった数秒の出来事だったのに、
あの時の表情だけが、なぜか焼きついて離れなかった。
Scene:その夜/真帆の部屋・ノートに綴る想い
シャワーを浴びて、髪を乾かし終えたあと。真帆は机に向かい、ノートを静かに開いた。
ページのすみには、今日の日付。その下に、しばらく手が止まる。
(……なにを書けばいいの、こんなの)
言葉にならない。でも、書かずにはいられなかった。
ペン先が、ゆっくりと動き始める。
>「早矢は、ただ笑っていただけだった。
なのに、私はずっと息が詰まりそうだった。」
>「プリッツの距離。口元。息遣い。目の奥。全部が、ちょっと近すぎて、頭が真っ白になった。」
>「あの時の早矢は、陸上に打ち込むときの“強い顔”じゃなかった。ただの、普通の中学生の女の子の顔だった。」
>「ちょっと照れてて、無防備で――その目が、ずるいって思った。」
真帆は、書いた文字をじっと見つめた。
(あの子の“普通の顔”を見て、私は、たぶん……安心したかったのかもしれない)
どこか遠くの存在じゃなくて、追いかけてばかりじゃなくて――ちゃんと、私と同じ場所にいるんだって、思いたかった。
>「私は、やっぱり……この子の“女の子としての顔”に惹かれてる。」
>「それって、どういう意味?」
>「まだ、わからない。でも――あの目を見た瞬間、たぶん私は、何かを確かに掴みかけてた。」
ペンを置く。ノートのページを静かに閉じた。顔は火照っていたけれど、心の中のざわつきは、少しだけ整理されていた。
(明日、また会えるかな)
そんなことを思いながら、真帆は、ベッドに身体を預けた。天井を見上げて、もう一度だけ、あの笑顔を思い出した。
Scene:SNSの通知/夜の真帆の部屋
「ピロン」
スマホが小さく鳴った。真帆は寝転がったまま、何気なく画面を開いた。
(……グループLINE?)
《これやばくない?》
《女子でプリッツとかさすがにw》
《真帆、顔赤すぎて草》
《百合カップル爆誕~!》
祭りの裏通り。
あの瞬間を誰かが撮っていた動画が、冗談交じりのコメント付きで拡散されていた。
盗撮されてた?
目の前が真っ白になる。
スロー再生、ハートスタンプ、顔のアップ――
(やだ、これ……)
誰にも知られたくなかった。自分だけの中にしまっておきたかった“揺れ”が、笑いのネタとして晒されている。
どんどん息が苦しくなる。布団をかぶって、スマホを伏せた。でも、目を閉じても、通知音が耳の奥で鳴り続けていた。
Scene:図書室・翌日/ノートを開く真帆
昼休み。
教室にいられず、真帆は図書室のすみの席にいた。
スマホは機内モードにしたまま。誰からも話しかけられたくなかった。
そっとノートを開く。
(昨日の夜、あんなに前向きなこと書いてたのに)
ページに綴られた「ずるい目」「惹かれてる」という言葉が、今は遠い世界のもののように思えた。
>「あの時の気持ち、本物だったのに」「どうして、それを笑われなきゃいけないの?」
>「“好き”って、こんなに無防備なんだ」「守られなかったら、すぐに壊れてしまうくらいに」
文字が、少しだけ滲んだ。でも涙は流さなかった。
(平気なふりをするの、もう疲れた)
ノートをそっと閉じたとき――廊下から、誰かの怒鳴り声がかすかに聞こえてきた。
Scene:廊下/凌の声
「おい、それ今すぐ削除しろって言ってんだろ!」
男子数人がスマホを持って、顔を見合わせる。
「え、でも別に真帆も嫌がってなかったじゃん……」
「見りゃわかるだろ、茶化されていい顔じゃなかったってことくらい」
凌の声は、低くて真剣だった。
「誰かの“気持ち”を、勝手にネタにすんな。それって、ズルいし、卑怯だよ」
男子たちは、押し黙ってスマホをしまった。
Scene:図書室・再び/真帆の視点
音がやんで、静けさが戻った図書室。真帆は、ゆっくりと顔を上げた。
(……凌)
彼が、あんなふうに怒るなんて思ってなかった。
誰より鈍感で、ちょっと苦手だったはずなのに。でも――
「誰かの気持ちを守ろう」としてくれた。
>「私は、平気なふりをしようとしてたのに」
「あの人は、代わりに怒ってくれた」
「私より、私の気持ちを真剣に扱ってくれた」
ノートの余白に、そっと書き足す。
>「凌は、少しだけ見直した」
「正直、悔しいくらいに、まっすぐだった」
ページを閉じたとき、胸の奥のざわつきは、少しだけ静かになっていた。
屋上、夜
星が少しだけ見える夜空。誰もいない屋上。
また、鍵をこっそり開けて入る。
トランペットを唇にあてたとき、自分の中にあったもやもやが、少しずつほどけていくのが分かった。
音が空に溶けていく。それだけでいい。
理屈じゃなくて、意味なんてなくて、「私は、私のままでいい」って、思える瞬間。
あの時に感じた気持ちは、本物だった。でもそれを他人に茶化される筋合いはない。
あの時、私が“キスしてもいい”って思ったことに――恥じる理由なんて、ひとつもなかったんだ。
目を閉じて、もう一度音を響かせる。今度は、心の奥から出てくる音だった。