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第1章 雨と背中と、あの日の約束

「好き」って、なんだろう。

「強さ」って、なんだろう。

そして、「誰かの中に火をともす」って、どういうこと?


陸上部の少年・りょう、音楽に生きる少女・真帆まほ、そして強さにまっすぐな早矢はや

交わした言葉も、言えなかった想いも、走ることも、音を鳴らすことも、全部、光のかけらだった。

不器用で、まっすぐで、ちょっと笑えて、でも胸がぎゅっとなるような、そんな夏の日々。


これは、ただの「青春」じゃない。

ただの「友情」でも、「恋」でもない。


誰かの一言で、誰かの背中で、

ほんの小さな“火”がともり、

それがやがて、“生きている”という実感に変わっていく――


そんな物語を、ここに綴ります。










 森の中のランニングコースには、まだ朝の静けさが残っていた。

 雨の気配を孕んだ湿った空気のなかを、二人の足音だけが軽快に響いていく。

 ひあき野市立坂町中学校陸上競技部部長の二人である。

「あと一周、いけるよな?」

 前を走る滝川(りょう)が、振り返りながら言う。

 その背中に、佐々木早矢(はや)は息を整えながら笑って応えた。

「当たり前。あんたこそ、バテてない?」

「まさか」

 言いながらも、凌は軽くペースを落とした。

 無意識に、隣に並びたくなる。

 並んで走るリズムが心地いい――いつの間にか、それが当たり前になっていた。


 木々の間を抜ける道。

 虫の声、鳥のさえずり、そして――ぽつりと、頬に冷たいものが触れた。

「……あ、降ってきた」

 ぽつ、ぽつと大粒の雨が葉に跳ねる。

「やば、急げ!東屋、あっち!」

 二人は足を速める。

 が、その瞬間――

「こっち近道――!」

 早矢が芝生の坂をショートカットしようと駆け出した、刹那。

 ズルッ――

「っ……あっ!!」

 ずるりと滑った足、ねじれる足首。ずきりと鋭い痛みが、全身に駆け抜けた。

「早矢!?大丈夫か――!」

 地面に倒れ込んだ早矢の元へ、凌が駆け寄る。

 顔をしかめ、足を押さえる早矢。雨脚はすでに強まってきている。

 森の木々は頼りにならない。すぐ近くの東屋まで、せいぜい200メートル。

 凌は一瞬だけ迷い――そして、言った。

「乗れ」

「……え?」

「背負う。文句はあとで聞くから、今は急ぐぞ」

 ためらう早矢に構わず、凌は体をかがめた。

「まじで……!?」

「まじだ。俺を誰だと思ってんだ。ほら、早く」

 早矢は一瞬躊躇したあと、黙って背中に身体を預けた。

「……重くない?」

「これくらい余裕。筋トレにもならねえ」

 言ったそばから、顔が熱くなるのを感じたのは、自分でもわかっていた。

 でも、それは雨のせいだと、思い込むことにした。

 背中から伝わる早矢の熱。

 しがみつく腕の力。

 体の重さよりも、意識の方がずっと重く感じられた。

「……ありがとう、凌」

 その一言に、鼓動が跳ねた。言葉を返す余裕なんてなかった。

 ただ、雨の中を黙って東屋まで走った。

 足元のぬかるみと、背中の重みと、そして胸の中に、確かに灯った“何か”を抱えたまま――。


 東屋の屋根の下にたどり着くと、二人とも肩で息をしていた。

 背中から降ろした早矢が、濡れた髪を払いながら苦笑する。

「……おんぶ、ありがと。でも、けっこうキツかったっしょ?」

「別に。お前細いし」

「それフォローになってないよ」

 そう言いながら、早矢はリュックの中を探る。淡いグレーのタオルを2枚取り出し、1枚を凌に差し出した。

「はい。これ、お礼。使いな。びしょ濡れじゃん」

「うわ、用意いいな」

「当たり前。一応、こう見えても女子だから」

 その言葉に、ふと記憶の奥がひらいた。


 回想・幼稚園のころ

 裏山の細道。

 二人で「どっちが速いか競争だ!」と走り回っていた時のこと。

 勢い余った凌が、木の根につまずいて派手に転んだ。

「ぎゃあああああん!!」

 すぐに顔が真っ赤になって、涙と鼻水でぐしゃぐしゃ。

「ちょ、ちょっと!泣かないで!」

 焦った早矢は、ポケットからクシャクシャの絆創膏を取り出し、不器用に凌の膝に貼った。でも、泣きやまない。

「もう、しょうがないな……」

 小さな背中に手を回して、ぐいっと凌をおんぶした。

 ぐずぐずのまま乗せられる凌。

「ほら、歩けないなら私が運ぶ」

 ――が、その2秒後、凌の重さに耐え切れず、早矢転倒。

「いたっ……ぎゃああああん!!!」

 今度は2人で大号泣。

 抱き合って、わんわん泣きながら、泥だらけになったあの帰り道――

 思い出すと、ちょっと笑えるような、でもあたたかい記憶だった。


「そういえば、あの時もお前、絆創膏出してきたな」

 凌はタオルを受け取り、濡れた髪に押し当てる。

 ふと、鼻をくすぐる香りに気づいた。柔らかい、少し甘い、洗剤ともシャンプーとも違う匂い。

(……あれ?これ、早矢が使ってるやつ?)

 意識するつもりはなかった。でも、ほんの少し気になってしまった。

 このタオル、たぶん普段から使ってるやつだ。ってことは――

(え、これで……早矢も、顔や腕拭いてたり……)

 良からぬ想像が脳裏をよぎり、気づけば、凌は無意識にタオルに顔を深く埋めていた。

「……は?」

「……んっ……」

「……ちょ、え、なにしてんのアンタ……」

「……いや、あの、ちょっと、あったかくて……その、匂い?」

「……え、えええ、キモッ……!おまえ、犬か!?」

 早矢は引きつった顔で一歩引いた。

「え、うそ……今、完全に変態の入り口だったけど?」

「ち、違う違う!ちがっ……いや、変な意味じゃなくて!」

 凌は真っ赤になってぶんぶん手を振る。でも――

 その瞬間、初めて気づいた。

(……あれ?)

 タオルの匂いが、女の子の匂いだった。そのタオルを当たり前に持っていて、サッと差し出してくる早矢のことを、“女の子”として見たこと、なかったかもしれない。いや、見ようとしてなかっただけじゃないか?

「…………」

 なんとも言えない沈黙が流れる。

 早矢はまだ呆れた顔をしていたけれど、

 凌の中では、なにかが確実に変わりはじめていた。


 Scene:早矢の自室

 自宅に戻った早矢は、足首に冷たい保冷剤を当てながらソファに座っていた。

 靴も服もびしょ濡れ。でも、今はただじんじんと熱を持つ足首に集中している。

「……おい、早矢。聞いたぞ、足やったって?」

 リビングに父の声が響いた。

「大したことないよ。ちょっと捻っただけ」

「……病院は?」

「行かなくていい。明日も普通に学校行けるし」

 ほんのわずかに沈黙。でも、父はそれ以上何も言わなかった。

「……ならいい。無理すんなよ」

「うん。ありがとう」

 ドアを閉めて、自分の部屋に戻る。

 そして――ベッドの端に座り、そっと膝を抱える。

(……ごめん。ほんとは、ちょっと痛い)

 でも、それを言ってしまったら、父に心配をかけてしまう気がして、言えなかった。


 ふと、脳裏にあの夜の記憶が蘇る。

 小さなラジオから、何度も繰り返される「津波」「余震」「行方不明」という言葉。自衛官である父は災害派遣に行っていた。

 テレビも消えた。部屋は真っ暗で、母が懐中電灯で家中を歩き回っていた。

「お父さん、帰ってこられるかな」

 母のぽつりとした言葉に、幼い早矢が咄嗟に口した言葉、

「だいじょうぶだよ。なにがあっても、はやがママをまもるから」

 電気もガスも止まり、寒くて、心細くて。でもそのときは、そう言わなきゃいけない気がした。

 わがままを言ってはいけない。泣いてもいいことはない。

 だから――「大丈夫」って、ずっと言ってた。

 でも。

 帰ってきたのは、震災から何日目だったろう。正確には、もう覚えていない。

 でも――その日のことだけは、忘れられない。

 父が、泥だらけの制服で玄関を開けた瞬間。張りつめていた何かが、一気に崩れた。

 「……おかえりっ!!」

 叫んだ。父の脚にしがみついた。泣いた。

 言葉なんて出てこなかった。ただ、ただ――声をあげて泣いた。

 早矢は父を尊敬している。毎朝5時に起床し、ランニングに出かける。

 自衛官として体力は資本。切磋琢磨を怠らない父の姿にあこがれ、いつしか自分も父の隣を走るようになった。父の足音が聞こえると、眠い目をこすりながら靴を履いた。

 あの日々が、早矢の“強さの原点”だった。

 そして中学校入学。

 迷わず陸上部の道を選んだーー。

 アイシングの冷たさが、足首をじんわりと包む。早矢は天井を見上げながら、静かに思う。

「……私が強くなりたかったのって、誰かに心配かけたくなかったからなんだよね」

 でも――

「強さって、“平気なふり”じゃない」

 泣いてもいい。頼ってもいい。

 そのうえで、自分の足で立つことが、本当の意味での“強さ”なんじゃないか。

 それはたぶん、誇っていいことなんだ。


 Scene:凌/父とのすれ違い 

 雨上がりの夜、凌は自室のベッドに寝転がりながら、スマホで撮った早矢との練習動画を見返していた。

 小さな画面の中で、笑いながら走る早矢。その姿を見ていると、ふと中学入学の春に、気持ちが引き戻された。


 回想:中学入学前夜

「陸上部……?」

 父の眉がぴくりと動いた。食卓の空気が、一瞬にして張りつめた。

「小学校で6年間剣道を続けてきて、中学でいきなり別の部活?甘えるな」

 そう言い放たれたとき、凌は言い返せなかった。言葉にすれば、全部否定されそうな気がして。

 でも、本当はもう決めていた。

「早矢と走りたい」――それが、たった一つの理由だった。

 彼女が運動会で走る背中を見ていたとき、自分の心臓が高鳴った。その瞬間のことを、ずっと忘れられなかった。

「部活なんて、将来の役に立つことをやれ。ただ走るだけの陸上に何の意味がある」

 その夜、父の声は怒鳴り声に変わった。

 母は黙っていた。

 でも、翌朝――

「これ、ハンコ押したよ」

 母が言った。手には、印鑑が押された入部届。

「……いいの?」

「うん。悔いのないようにやりな。私みたいに、“やれなかった”ことをいつまでも引きずるよりは、ずっといい」

 それを聞いたとき、凌は初めて母が背負ってきたものの重さに気づいた。

 母はビル清掃の仕事をしていた。「人様の喜ぶ顔が見たいから」と言って、清掃の機材をそろえて、独立開業まで考えていた母。でも、無理がたたって腰を痛め、それが原因で立てないくらい体調を崩し、仕事を休むようになった。

 それから、母はときどき暗い部屋にこもるようになった。

 でも――そんな母が、自分の未来を応援してくれるなんて思ってなかった。


 今、ベッドの中で思う。

 たしかに、剣道の6年間は苦しかった。

 素振り、かかり稽古、打ち込み、そして父の厳しさ。

 何度も逃げ出したくなった。

 でも、体幹、集中力、踏み込み。そのすべてが、今の走りに生きている。

(無駄じゃなかったんだ、たぶん)

 たとえ、逃げるように始めた陸上だったとしても――早矢と切磋琢磨し、仲間ができ、今の自分がある。そして、あの時ハンコを押してくれた母がいたから。

 だから、「あの時選んだ道は正しかった」と、胸を張って言えるようになりたい。

 ベッドの脇に置かれた剣道の面とトロフィーが、静かにそこにあった。

 あの時の全てが、自分を走らせている。

 それだけは、確かだった。


 雨の音が止んだ夜。

 リビングには、小さな灯りがひとつだけ灯っていた。

 母が座っているのは、いつものソファ。

 湯気の立つハーブティーを静かに見つめていた。

 凌は、珍しく自分から隣に腰を下ろす。

「……眠れなかったの?」

 母は驚いたように顔を上げ、柔らかく笑った。

「うん。ちょっと腰が重くてね。この時期、寒暖差で痛みやすいのよ」

「そっか……無理すんなよ」

 ぽつりと交わす言葉は、どこかぎこちなくて、でも優しかった。

 しばらくの沈黙のあと、凌が口を開いた。

「さ……中一のときさ、俺が陸上やりたいって言った時、母さん、黙ってハンコ押してくれたじゃん」

「うん。覚えてるよ。あれ、父さん怒鳴り込んできたもんね」

 母はくすりと笑った。凌も思わず苦笑する。

「……ありがとな、あれ。正直、あの時、誰か一人でも味方してくれなかったら、

 たぶん俺、あきらめてた」

 母は何も言わず、ティーカップをゆっくり置いた。

 そして、穏やかな声で言った。

「私はね、自分の人生で後悔したこと、あるの。やりたいことがあったのに、“それが家族のためにならない”って言われて、全部飲み込んできた」

「……ビル清掃のこと?」

「うん。仕事自体は嫌いじゃなかったよ。でもね、“身体がもたなかった”っていう悔しさは、いつまでも残るの」

 母の声が、少しだけ遠くを見ていた。

「だから、あんたが何かを“選びたい”って思った時、それがどんなに反対されても――私は背中を押したかったの。その瞬間だけでも、“自分の人生を選んだ”って思ってほしかった」

 凌は、初めて聞く言葉に、喉が詰まった。

「母さん……」

「……でも、よかったなって思ってるよ。あんた、楽しそうだったから。今も、ちゃんと前に進んでる」

 しばらく黙っていた凌が、ぽつりとつぶやく。

「……俺、将来のこと、ちょっとだけ考え始めてんだ」

「うん」

「誰かの夢を支える立場になれたらいいなって。先生とか、コーチとか……そういうの」

 母は目を細めた。

「そっか。……それ、いいと思う」

 カップの中のハーブティーは、もう冷めかけていた。けれど、その言葉はあたたかかった。

 凌はそっと立ち上がり、台所から母の分のブランケットを取ってくる。

「今日は、ちゃんと寝なよ」

「うん、ありがと」

 ブランケットを肩にかけてくれた息子に、母は静かに頭を下げた。

 それは、ひとつのバトンが渡された瞬間だった。


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