波と潮風、狐の呼ぶ方へ ー1ー
「ミューズに、ですか?」
「そうだ。貴様とノインの二人で向かってほしい。」
王都を騒がした魔力喰らい事件。その影響も薄れてきた今日この頃。
師匠の研究室に呼び出され、部屋の主にそう言われた。それも、なぜだが随分と機嫌の悪い様子で。
「それは、別に構いませんけど……。また、急な話ですね……?」
海洋貿易国家ミューズ。
西の隣国であるグラトニアとは反対方向へと位置する国家であり、アイゼル国からは海路で四日ほど。
人間と魚人族が共存する海に囲まれた美しい国だ。
その名が示す通り、海洋品を中心とした貿易が盛んな国家で、芸術にも造脂が深い、別名、水と芸術の国。
個人的には好感が持てる国である事は間違いないが、師匠が興味を持つような国ではないはずだ。
この人は芸術に興味が無ければ、食にも無頓着だったと思うのだが。
「……これを読め。」
「へっ?って、あっぶな!」
勢い良く投げつけられたのは筒状の書簡。
巻き物、と呼ばれる緑色の物が、顔面を叩く前に何とか手で受け止める。
危うく余計な怪我を負うところだった。
この距離感では全く必要無い行動だろ、今の。
抗議の目を向けるが、残念、師匠には届かない。
それどころか、鬱陶しげに、読め、と催促が返ってくるばかり。
慣れた傍若無人ぶりに辟易するが、逆らう事は出来ないので、言われた通りに、紐を解いて巻き物に目を通す。
…………ふむ。……うん?
「……師匠、なんですか、これ?」
「……知るか。書かれている通りだ。」
「はぁ。」
それが理解出来なかったから聞いたと言うのに。
甘い匂いが漂う茶を口に運ぶ師匠は、苛立ちを隠そうとしていない事が良くわかる。
再び手元に目を落としても、やっぱり理解が追いつかない。いや、書かれている内容はこの上なく理解出来ているのだが。
文字は綺麗で、簡潔な内容なのは違いない。
問題なのは、簡潔すぎる、という一点。
「『ミューズにて、貴重な魔法見つけたり。』って……いや、やっぱり、わからないのですが。」
紐解いて一番最初にでかでかと書かれた内容がこれ。その他には何もなくて、大きな余白が残るのみ。差出人の名前も無ければ、もちろん詳細も記載されていない。
はっきり言って、巻き物の無駄遣いだ。
何だこれ。
「差出人はわかっている。そんな阿呆な物を送りつけてくる奴を一人知っている。」
まぁ、それは予想通り。でないと、こんなものは捨てているだろうし。少なくとも、俺ならそうする。
とはいえ、なるほど多少の納得はいった。
魔法の情報が送られてきたから、俺達に見て来い、という事なのだろう。
ただ、師匠の機嫌が悪いのがわからない。
普通なら自分で行きたがるだろうし、もっと嬉々としているだろうに。
「問題は、だな。その内容が信頼できないところだ。」
「はい?」
吐き捨てられたような言葉に、良く理解出来ず聞き返してしまった。
知り合いから嘘の情報が送られてきた、と?
そんなこと有り得るのだろうか。
わざわざ、巻き物まで送ってきるというのに。
「経験上、五回に四回は嘘だ。久々に会いたくなった、とか、そんな理由だった。」
「……それは、何というか……。」
こめかみを抑えて話す師匠に、初めて同情の念を覚えてしまった。
面倒くさ過ぎないだろうか、その知り合いの方。
厄介なのは、五回に一回は本当に貴重な魔法の情報というところだ。
そんな情報を師匠としては、逃す訳にはいかないだろう。……師匠の性格を良くわかってるから、余計に厄介だな、この送り主。
「貴様が思うように、本当の場合がある以上、反応せざるを得ん。だが、違った場合に今は理性を保てる気がせん。」
「それで代わりに行って来い、と。」
そうだ、と肯定する師匠は、ゆっくりと茶を口に運んだ。
優雅な装いなのに、苛立ちが見てとれるのは、今までの経験を思い出したからなのだろう。
しかし、なるほど。大体は理解した。
師匠は魔力喰らい事件の後も、騎士団に助力を請われ渋々ながらも力を貸している。
その疲労に加えて、あの一件で魔族の男を捉え損ね、不機嫌が続いている師匠の理性の枷は今すごく脆い。
その解消の為の実験に何度も付き合わされた俺が証人である。
師匠の理性が失われた結果など、考え無くともわかる。最悪、ミューズが消える可能性すらある。
その為、どう転んでもいいように俺達に白羽の矢がだったのだろう。
まぁ、妥当な経緯だと思う。
師匠の代わりにノインがいれば何とかなるだろうし。俺は護衛として、ついでにといった感じだけど、悪くはない選択肢だ。
ただ、俺が行きたくない事を除けば。
何故って、決まっている。
送り主が碌でも無さそうな奴だから。
師匠の知り合い、加えて、話を聞く限りで抱いた感想。嫌な予感がしてならない。
「…………ノインは何と?」
「行く、と言っていたぞ?………………貴重な魔法が見つかるといいな。」
スッと顔を背ける師匠。
沈黙の中、茶を啜る音だけが木霊する。
だ、騙してやがる。
自分の弟子を騙しやがった、この女。
ハズレの可能性を伝えず、アタリの経験だけを教えやがる。
冷静が常なノインだが、魔法が絡めば割とアホの子になる。恐らく、話を聞いて快諾した事だろう。
今も、うきうきで準備を整えているはずだ。
そんな彼女がハズレに出会せばどうなるか。
決まっている、機嫌は急降下、氷河期の到来だ。
そして、被害を被るのは勿論、近くにいるであろう俺。
よし。拒否しよう。
そうだ、ノイン一人で行ってもらえばいいじゃないか。そうすれば、俺には被害が無くて済む。
「師匠、非常に残念なのですが――」
「おっと、よく考えてから口を開けよ、馬鹿弟子?」
そう言って師匠が手にしたのは、一枚の乗船券。
行き先は当然ながらミューズ。
しかし、だから何だという話だ。券が用意されていようが、知った事では無い
そう思って、再び口を開こうとした時、師匠がにやりと悪どい笑みを浮かべた。
「既にノインには貴様が同行する事は伝えてある。コレを手配した事も。なのに、貴様が不在となればアイツはどう思うだろうなぁ?」
「き、汚いですよっ!」
当然、バレる。
俺が状況を知って、ノインを生贄にした事が。
そうなれば、彼女が怒髪天なのは避けようが無い。例え、貴重な魔法が見つかったとしても、小言を言われるのは違いない。
「貴様が考えそうな事などお見通しだ。大人しく行って来い。」
「ぐっ。」
そうして受け渡されようとする乗船券。
ただの紙切れが、何故か禍々しいものに見えてきた。
受け取りたくねぇ…………。
そんな思いが頭を埋め尽くすが、既に師匠の手によって退路を断たれている。
この券を手に取る以外の手段が無いのだ。
…………いや、待てよ。
「それで良い。では、しっかり頼んだぞ。」
震える手で券を受け取った俺を見て、諦めたと思った師匠が勝ち誇った顔で茶を啜り出した。
だが、甘い。俺がそう簡単に折れると思っているなら大間違いだ。
そう。
今からノインに事情を伝えにいけば良いのだ。
万が一、それでも行く、と言うのであれば、そこからは俺の管轄外。一人で船旅を楽しんで来て貰えば良い。
逸ったな、師匠。
何でもかんでも、思い通りに行くと思ったら大間違いだと教えてやろう。
「……?何をにやにやしている。早く用意してこい。遅れるぞ。」
「あぁ、いや、ちょっと、これからの事を考えると――――って、遅れる?」
「何の事だか知らんが、手元の券をよく見ればどうだ?」
まさか。
「師匠、コレの日付って。」
「今日だが?」
「だと、思ったよ!こんちくしょう!」
再び券を確認すれば、そこに記載されているのは、間違いなく今日の日付。
最悪だ。
最初から逃げ道なんて用意されていなかった。
この部屋に来た時点で、敗北が確定していた。
「ほら、急げよ。ノインはもう発着場にいるだろうよ。」
弾むような声音で師匠が言ってきた。
言っていたように、俺の考える事はすべて見通されていたのだろう。
こうなっては、どうしようもない。
俺も急いで船場へと向かうしか無い。
くっそぅ。覚えていろよっ!
「良き船旅をな、馬鹿弟子。」
足速と研究室を出ていく俺の背からは、そんな言葉が聞こえてきた。
……土産は絶対買ってきてやらないからなっ!




