英雄を目指した男 ー1ー
ふぅ、と虚しい気持ちを吐き出すように空を見上げれば、明かりひとつ無い暗闇がこちらを見下ろしていた。
先の見通すことのできない暗闇。絶望感がそのまま塗りたくられたような闇に、自然と目を閉ざしたくなる。
間違いではない。
自分で選んで決断した道なのだ。
そこに躊躇いも無ければ後悔もあるはずがない。
それでも、少しだけ、ほんの少しだけ感情に揺られてしまうのは、まだ道半ばだからなのだろうか、それとも似た様な男と近付き過ぎたせいか。
そういえば半年前のあの日もこんな暗い夜の下だった。
『おやぁ。何やら落ち込んでいられる様子。良ければ、私めにお聞かせ願えませんかぁ?』
礼服に身を包み、シルクハットを手に取りながら笑う男は、怪しいなんてモノじゃなかった。
肩口まで届く白髪が年相応のものかと思えば違う。顔は随分と若くて正気に満ち足りている。
細い目を更に薄くするその表情は、如何にもな笑顔を作っていることが丸わかりだ。
こちらを覗く紅い瞳からは言い様の無い狂気が溢れていて、何処か力の抜けた喋り方も妙に気持ちが悪い。
普通なら無視をしていた。それか、適当にあしらっていただろう。
ただその日はつい言葉を返してしまった。
いつに無く心が弱っていたせいだったのだろう。
『なぁ〜るほど、それはそれは大変な思いをされましたねぇ。』
変わらぬ様で答える男を見て、直ぐに、失敗した、と思った。
たった一瞬の様子でこの男が上っ面だけの言葉と同情をしていたのが良く分かったからだ。
『それで、貴方はどうしたいんですか?』
無駄な時間を費やしたなと思い踵を返そうとした時、男から妙に真剣味のある声がかかった。
威圧感があるわけでは無かった。不思議と感じたのは情愛とか、友愛とか、そんな悪い気のしないもの。先から感じていた気味の悪さが嘘のような、どこまでも柔らかい感触。
馬鹿な話だ。つい先程、この男が自分の事などどうでもいい、と思っていることは見抜いたばかりだというのに。
『私はね、貴方達がだーい好きなんですよぉ。この世の誰よりも愛していると、自信を持って言い切れますねぇ。』
そう語る男の顔は感じていた狂気や胡散臭さが消えて、宝の山を見ているかのように歓びを携えて無邪気に輝いていた。
悍ましい。無意識に剣へと手がのびてしまう。
生ける者の一員として、この男を今ここで殺しておいた方が良いと、理性とは裏腹に本能が告げてきている。
『足掻いて、足掻いて、足掻いて。みっともなく泥水を啜って、地べたに這いつくばって。』
弾ませるような声音で男は言葉を紡ぎ続けた。
実に不愉快な言葉の羅列だ。 身振り手振りで表現する様も一段と不愉快さを煽っている。
言葉の意味と、聴こえてくる音で違和感が膨れ、脳みそが麻痺してしまいそうになる。
『それでも、夢を見続ける。そぉーんな、貴方達が愛しくて堪らないんですよぉ。』
ギョロりこちらを見抜く紅い瞳に、反射的に剣が抜かれる。
抜いた刃は驚くほど正確に男を袈裟斬りに捉えて、やってしまった、と思った時には男の身体から多量の血が飛び散った後だった。
気持ちが悪い。呼吸が落ち着かない。
あの瞳に見られた時に、心の奥底まで無理矢理に覗かれた様な、そんな恐怖感が全身を襲った。
今直ぐにでも治療して、精一杯の謝罪をするべきなのに、血が赤い事に何処か安心感を覚えて、そんな事は頭から消え去っていた。
『あぁ、可哀想にぃ。きっと辛かったのでしょうねぇ。』
身体から多量の血を流しながも、男の態度は変わらない。なぞるように傷口に指を添わしながら、慈しむような声は途絶えさせない。
異質な光景に自分が傷つけた事すら忘れて呆然としてしまう。
『是非。お力添えさせて頂けませんかぁ?貴方の夢を現実にする為にぃ。』
耳障りの良いだけの甘言だ。
この男の瞳はこちらを捉えているのに、見ていない。もっと奥のナニカを見つめている。
何が目的なのかは見抜けないが、この男の根底にあるのは善意などでは無い。
味方でもなければ、無償の優しさからでもない事はどうしようも無く理解している。
だが、そう理解出来ていても。
これは悪魔との契約だと分かっているのに。
その手を振り払う事が出来なかった。
そんなこちらの様子を見て、男は張り付いた笑みをより一層濃くしてみせた。
『では、契約成立ですねぇ。』
押し寄せた感情はなんだったか。
綺麗な色をしていなかった事だけは覚えている。
ただ一つ確かなのは、この日を境に全てが変わったという事だろう。
そして、この男のおかげで閉じかけていた扉の鍵を手に出来たのは間違いがない。
『貴方の望ましいモノが手に入る事を祈っていますよぉ。』
ただ、その扉の先が同じだったのかどうかは、今もまだ分かっていない。
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頭によぎるのは、何か出来ただろうか、という甘い思考。とうの昔にそんな次元の話は終わっているというのに、可笑しな話だ。
念入りな下準備があった事がわかって、犠牲になった人間の数は把握していた人数よりも多かった。深く関わっていながら、そんな事は知らなかったはずだと思えるほど頭は緩んではいない。
実際、剣を交わせば一時で消え去る思考なのは違いない。それでも、今だけはこのやるせない感傷を手放したくはなかった。中身は悲しさ半分、残り半分が同情と怒り。ほんと、違う答えなら嬉しいのになぁ……。
夜のエイデン学園。校舎に背を預けながら、未だ姿を見せない待ち人に想いを馳せる。頭上には、心情を映したかのような真っ暗い夜空だけが広がっている。星は乏しく、月は雲に隠されいて。少しぐらいは照らしてくれればいいものを。これでは、より一層気分が滅入ってしまう。
「…………はぁ……。」
溢した溜息には胸中を渦巻く感情を乗せて。消えるわけでは無いが、少し和らぐような感じがしたのは気のせいなんだろう。
グリード卿から貰ったのリスト。内に潜む毒を洗い出す為のそれを目にした時に、何と無く嫌な予感はしていた。
ノイン、師匠、グリード卿と、名だたる実力者が手を尽くして絞った候補者達。そこに間違いがある可能性など知れているから。
……大丈夫だ。あぁ、大丈夫。剣は迷い無く振れる。
決意を表すかのように拳に力を込めていると、静かに歩を進める音を耳が拾う。足音からは迷い無くこちらへと近づいて来ている事がわかる。深夜の学園に明確な目的を持って近づいて来ている。…………感傷はもう充分だ。
思考を切り替える。甘ったるい考えを捨てて、近づいて来た足音の主を見据える。もう、残された手段は一つしかないんだ。……きっと、相手も同じ気持ちなんだろうな。
「こんな夜中に危ないですよ。」
「それは君も同じじゃないかな?」
金髪を夜風になびかせて、彼はいつもと変わらない優しげな笑みを浮かべていた。思っていた通りだ。今夜この場に姿を現した彼も決着をつけるつもりらしい。
「俺はやるべき事があるんですよ。」
「僕も同じだ。やらなきゃいけない事がある。」
「……出来れば、今すぐに帰ってくれると嬉しいんですけど。」
「僕も同感だね。」
エイデン学園の先輩にして首席の男は肩を竦めると、わざとらしい様子でそう答えた。最終勧告のつもりだったが……残念ながら聞き入れてはくれないみたいだ。
カイル・ヴェルモンド。魔力喰らい事件に初期から関わり、誰よりも解決に意欲的でありながら、魔力喰らいと争ったのはたったの一度。そして、何故か、全ての調査において単独行動をしながら、疑問に持たれる事のなかった男。
……感情だけで言えば間違っていて欲しかった。何かの勘違いであってほしかった。後日、そんな風に思われていたのかい、と笑う彼が見たかった。だが、此処にカイルが来た時点でその未来は消えてしまった。
「…………随分と肝が座った事をしましたね。まさか、学園の地下に秘密基地を作ってたなんて。」
「凄いだろう?…おかげ様で長い時間を誤魔化せたよ。」
「…………本当にその通りで。良い仲間が多いみたいっすね。」
「仲間、ではないけど、優秀な助っ人なのは違いないね。なんせ、賢者を出し抜いていたんだし。」
「………………。」
否定は無し、かよ。クソッタレ。ギリッと噛み締めた奥歯から音が鳴る。
回収した魔力喰らいの核。そこから魔力の痕跡を辿り見つけた拠点。エイデン学園の地下で見つかった其処は、血と臓物の匂いで満たされた最低な場所だった。
見つかったのは、魔力喰らいを開発していた後と、積み重ねられた亡骸の山。死体からは生徒や騎士に加えて、未確認だった一般人も多数。
…………思い出しても反吐が出る。あの場所を見つけた時、怒りと虚しさがごっちゃ混ぜになった感情を今すぐにでもぶつけてしまいたい。あんな光景を自分の意思で良しとしていた、この最低な先輩に。
「………一応聞いておきますけど、何故こんな事を?」
「さて、何故、と言われてもね。君なら分かるんじゃないかな?……英雄になる、なんて大言を掲げている君なら特に、ね。」
「…………。」
「そう怖い顔をしないでくれ、リオン君。それに、騙したのはお互い様じゃないか。」
「……気付いてたんだな。」
「そりゃ気付くよ。特に拠点が割れた辺りからは隠す気も感じなかったしね。」
その通りだ。あの場所を見つけた時から、既に俺は相容れない事を理解してしまった。だからこそ、自分の役割を知りながらも、我慢する事が出来なかった。
師匠達から頼まれた、候補者――カイル・ヴェルモンドの監視という任を疎かにしてしまうぐらいには。…………ただ、それでも、剣を習い、街を歩き、共に食をしたカイルが否定してくれる事を願っていたのも本心だ。今となってはそんな気は塵一つ残ってはいないが。
「…………リオン君と過ごした日々は例え監視が目的だとしても悪くない、どころか、本当に楽しい日々だったよ。」
「……嬉しくない言葉をどうも。」
「ふふっ。覚えているかい?……僕は君と話したかったんだ。そういう意味でこの数日は本当に良かった。」
何処までも普段通り。優しげな笑みを浮かべ穏やかな口調でカイルは言葉を続けていく。
「だって、確信できたんだから。」
「…………。」
「君と僕は同じだって、ね。」
「…………人殺しのろくでなしと一緒にされたくはねぇよ。」
「いいや、一緒さ。"特別"になりたくてもなれない、ただの凡人。…………それが僕らだ。」
ハッキリとした口調でカイルがそう締め括った。言いたい事は理解できるとも。カイルの評価は確かに俺と似ている。特別な一人ではなくて、優秀な数人の内の一人。あぁ、確かに俺達は似ている。それは間違いない。けど、違う。
「もう一回言うぞ。一緒にされたくねぇよ。俺とアンタは違う。」
「…………どうだろうね?」
「どうもこうもねぇよ。アンタのようなやり方は俺はとらねぇ。」
「………………それも、どうだろうね。」
何をそこまで一緒だと思いたいのか。そんな事はわからんし、どうでもいいが、断言できる。俺とカイルは違う。似ているだけで、中身は別物だ。
目指しているものも、その在り方も。同じされちゃ困る。
俺が目指しているのは、英雄。その道に他人を犠牲にするなんて選択肢は存在してはいけないのだから。
「………………僕はね、頑張ったんだ。頑張ったんだよ。」
俺から目を逸らし、真っ暗な空を見上げ出したカイルの口から、か細く微かに震える声が溢れだす。表情は読み取れないが、いつもの飄々さは消え去っていて。触れてしまえば途端に砕けてしまうような、そんな硝子のような繊細さがカイルから漂っていた。
「これでも由緒ある家系なんだ。他の人よりも恵まれていた自覚はあった。…………だから、相応しい人間になろうとした。……なりたかった。」
再び向けられた瞳は全てを諦めたような濁った色を映していて、素直に見ていられないと、そう思ってしまえるほどには澱んでいた。同時に、この諦観の色こそが、飄々とした優男然なカイルが、ひた隠しにしてきた本音なのだとわかってしまう。
「けれど、違った。努力を重ねても、我慢を続けても、それは無意味だと知ったんだ。リオン君、君ならわかるだろ?」
――なんせ、レオ・アレクシアとお友達なんだから。
「…………彼には感謝しているよ。お陰で、世界の仕組みに気づけたからね。凡人は踏み台で、上に行くのは彼のような人間のだけだと。」
全くもって嫌になる。こんな話を続けるカイルにも、それが戯言だと否定をしない自分にも。
覚えが無いと言えば当然嘘になる。――その苦しみは俺の隣にいつだっているのだから。
きっと、カイルは呑まれてしまったんだろう。自分より優秀な、才能のある人間の輝きに。そして、諦めることにしたんだ。自分という人間を信じる事を。
「僕が何年もかけて磨いてきたものを、彼らは数日で飛び越えていくんだ。本当に笑えるよ。」
そう言いながら浮かべる笑みは自虐的でどこまでも痛々しい。……確かに似ている。凡人の可能性の一つには、な。
きっとレオだけが原因ではないはずだ。最後のひと押しになっただけで、多くの現実がカイルを苛んで、その度に蓋をしてきた負の感情。それが溢れただけ。
嫉妬、羨望、諦観、絶望。一度、認めてしまえば、こびり着いて拭う事は出来ない感情達。
自分は理想に成り得ないと、そう自覚した時から人は誰しもが正常ではいられなくなる。…………抱いていた想いが強ければ強いほどに。幼少期から、いや、生まれた時から抱いていた理想に届かないと、理解しきってしまったカイルは、言うまでもない。
そこまで分かっていながら、間違いだと糾弾してやれないのは、言われたように俺も同じ所にはいるから。
「だから、手を貸したのか。他の大勢が犠牲になるとわかっていながら。」
脳裏によぎるのは、死の匂いに満ちた彼等の工房。知らないわけじゃないだろう。
「…………少し違う。僕が借りたんだよ。自分の為に。」
「……そうかよ。」
別に良くある話だ。
貧困に喘げば窃盗をする者がいるように。自分では手に入らないから、欲しい物を持ってる人から奪った。ただ、それだけの悲しい話。
何かが違えば俺にも訪れたであろう結末。違ったのは目指した先か、それとも抱いていた感情か。それは、俺達二人にだって分からないだろう。
少なくとも、俺は彼には成るつもりも無いし、その選択を認めるつもりも無い 寄り添ってやれるのは、歩んだ道のりまでだ。何もなければ、良き友人になれただろうに残念だ。
「抜けよ、カイル。せめて俺の手で葬ってやる。」
剣を抜き、切先をカイルに向ける。もう言葉を交わす時間は充分だ。分かり合う事は出来ないし、互いにするつもりも無い。
なら、俺達の良く知る現実で教えてやるしかない。……それに、俺じゃないとカイルは認められないだろう。
「…………優しいね。念の為聞いておくけど、仲間になるつもりは無いかい?」
分かっているくせに、良くもまぁ。言葉で返す必要もない。柄を握り、鳴らした鉄の音が俺からの答えだ。
「残念だよ、本当に。」
「お互いなっ!!!」
暗闇の中、鉄がぶつかる音を響かせ二つの銀閃が交差し始めた。