プロローグ ー0ー
鬱蒼とした森の中、獣の唸り声がこだまする。浅黒い狼の姿をした魔物の口から漏れ出たものだ。ギラついた瞳が、目の前にいる俺という餌を喰らいたく仕方無いと雄弁に語っている。
魔物。
人類に害をもたらす化け物達の総称。
獣の姿をとるものもあれば、液状の姿まで。
共通するのは知性が乏しく、本能で生きる怪物だと言う事。一説では獣や物体が魔素に適合すれば変異するのだとか何とか。まぁ、簡単にいうと俺達の稼ぎ相手なわけだ。
今回の依頼は、村の近くで繁殖した魔狼の討伐。
比較的、難易度の低い、これまでもこなしてきたような依頼。……だった。
「ギャウ!」
「っ、らぁ!」
鋭い爪が首元を狙い迫る。身体を捻り爪を交わしながら、お返しに剣を魔狼の首にくれてやる。
躱しきれず首元を爪に浅く裂かれるが、魔狼は沈黙したのだから交換としては悪くない。
もう、何匹目だろうか。
二十は確実に斬った。多いとは聞いていたが、予想以上に多い。聞いていた話では十やそこらのはずだったが。困ったことになっている。
身体の至る所に傷ができて出血も止まらない。全身の感覚も鈍くなってきている。
「はぁ、はぁ、はぁ…………。すぅ……ふぅ……。」
「グルルルルル」
荒い息を整えるように大きく息を吸って吐き出す。唸り声は止まず、獣の目は俺だけを映してギラついている。
身体は万全、とは言い難く、油断すれば直ぐにやられる。だが、まだ腕は振れる。剣は握れている。
何千何万と繰り返してきた動作が染みついたこの身体はまだ動けると言っている。
少しぼやけた視界で辺りを見回すと、同じ狼のような奴が数匹、その奥に、藍色の毛をした熊のような魔物が一匹。
繁殖した魔狼の討伐だったはずだが、匂いか音かで釣られてきたのだろう。
自分の血と、獣の血で全身に塗れてしまっている以上、戦わずに逃げれるような道はないのだろう。
『リオン、知ってるか?英雄ユウリは剣も魔法も最強だったらしい!』
少しだけクリアになった思考。
何故か脳裏をよぎったのは、幼き頃の親友との会話。
人助けが好きで、誰からも好かれる太陽のような少年。よくやるな、なんて思いながらも共にした輝かしい日々の思い出の一幕。
夕焼けを背に輝く笑顔と一緒に親友はそう言った。
遡ること四百年ほど前。
魔族とその王が残る十一の種族を狂わせ、この世界を混沌の中に落とし入れた。
種族の違い、国の違い、思想の違い。魔法を、剣を、謀略を使い激化する世界に突如として現れた英雄。
それが、他ならぬ英雄ユウリという男だった。
武勇と叡智、そしてその善性をもって、瞬く間に他種族を纏め上げた彼は魔族とその王を討ち果たした。
それ以降、諍いはあれど平和へと進むこの世で英雄ユウリは誰もが憧れる存在になった。
そしてそれは。
親友も例外ではなく、ユウリのような英雄になってみせると焦がれていた。
『リオンと俺の二人ならさ、越えれると思わないか?』
親友の無邪気な言葉に、何も知らない過去の俺は二つ返事で言葉を返した。
孤児院で共に過ごしてきた親友、彼の言葉を断る道理なんて無くて、何よりも彼の語る英雄、その姿がとても眩しく感じて。
『だから、英雄なろうぜリオン。俺達二人で英雄に!』
赤毛を風に揺らした親友は幼さが残った端正な顔立ちを綻ばせ朗らかに笑っていた。余りにも楽しそうな彼の顔は、何年経っても脳裏に焼きついてる。
今思うと何て馬鹿な約束をしてしまったのだろうと頭を抱えてしまう。英雄になる、その道がどれほど険しいかも知らず、俺にしては杜撰な約束をしてしまった事だ。
ただ、憂う事はあっても後悔はただの一つも無い。確かに馬鹿な約束だとは思うが、それでも、この日から空っぽだった俺に理想が出来たの確かで、その輝きに惹かれたのは事実だから。
ともあれ、その日から俺たちは二人で鍛え続けた。剣を、魔法を、技術を、知識を。
剣聖も、大賢者も、騎士王も、英雄も越えて俺達二人が頂きに立つと幼いながら息巻いて。
英雄になる条件なんて知らないし、もう魔王も魔族もこの世界にはいないだろうけど。それでも、登り続ければきっと、二人で英雄と呼ばれるような存在になれるのだと、瞳を輝かせていた。
だが、現実はそう甘くなかった。
血の滲むような修練を重ねようとも、どれだけ知識を蓄えようとも、手に入れることの出来ないものがあった。
人は須く生まれてもって決まっていると知った。知ってしまった。二種類の存在、才に選ばれた者と、それ以外と。
どこにでも良くある話だ。
単に親友には圧倒的な才があって、俺には何も無かったというだけの話。
いつも隣にいたはずの男はいつの間にか背中だけを見せて来て。目指していた景色は靄がかかり、焦がれた憧憬は現実に侵食されされていく。
この身は決して英雄の器にはなり得ない。
残酷な現実が嫌という程に教えてくれた。
諦める、そうした方が楽なんだと、自分自身で理解出来た。
だけど、それでも俺は、あの日抱いた憧憬が捨てる事が出来なかった。
「ギャウッ!」
「―っ!」
牙を、爪を鋭く光らせながら獣が迫る。やらかした。思い出に浸っていたせいで反応が遅れた。この身体では避けきれない。仕方ない……多少の傷は貰ってやる。その代わり―、
「―命を貰うぞ、犬っころっ!」
「ギャン!」
斬って、斬って、斬って。
抉られて、削られて、噛みつかれて。
繰り返す事に傷が増え、身体中を痛みが駆け回るが、その感覚すらも鈍くなってきていた。
視界は曇る一方で、足元すら覚束ない。
なのに、妙に身体の感覚が冴えていく。
全くもって妙な気分だ。動きが最適化されていくような感覚で、身体がどこまでも軽い。
死に体だというのに、不思議と心地が良い。
大丈夫、腕は振れている。
振った刃は迫る獣の命を刈り取れている。
なら、まだ、俺は戦える。動けるのなら、諦める理由にはならない。
「ガァァァァァア!」
「はぁっ、はぁっ、」
一際、大きな咆哮が響きわたる。あの藍色の毛をした熊のものだ。主役は遅れて、とでも言いたいのか魔物の癖に生意気だ。
魔熊の足元、そして口元には残っていた魔狼達の死骸。軽く首を振ってみたが、他に生き残りは見当たらない。
「ガァァァァア」
「そう焦らなくても相手してやるよ……。」
後はあのデカいのを殺れば依頼は完了。なんなら、学園に追加報酬でもせびってやるとしよう。
あぁーあ、こんな体たらくバレたら大目玉だろうなぁ。
全身傷だらけ、白かった服は自分と獣の血で真っ赤っか。流石に無理をし過ぎた。
血を流しすぎて体から熱が冷めていってるのが嫌でもわかる。生と死の境目に立っているような気分だ。なのに、いつに無く調子が良いのが笑えてしまう。
剣は馴染み、手足のように振るうことが出来て。
身体は思った通りに動いてくれる。
「グルガァァ!!」
「ははっ!ぬりぃ攻めだな!――「ガァ
!!!」――ぐっ、ぁ、」
死に体で格好の餌食に見えたのだろうか、何の躊躇いもなく突っ込んできた魔熊の左腕を切り落とす。残る右腕での一撃をもらってしまい、庇った左腕が嫌な音を立てて潰れた。
不思議とそれほど痛みは襲ってこない。
大丈夫だ。
まだ、右腕が生きている。
研ぎ澄まされていく感覚が目の前の獣を刈り取る方法を教えてくれている。
腕が斬られて、漸く餌が敵に見えたか、魔熊からの圧がより一層強くなった。
吠えて、唸って、こちらを見据えた熊の眼からは、殺意が余す事なく伝わってくる。
「―――――――――――――あぁ…こいよ」
どれだけの苦難があろうとも。
どれだけの試練があろうとも。
どれだけの絶望があろうとも。
例え不可能だと知っていても、無謀だと気づいていても。
俺は、英雄になるまでは止まれない。