第? 15話 ある小説家の気晴らし
今夜もいつもの酒場で友人と待ち合わせ。
今日はいつもよりも早く酒場に到着してしまった。普段は友人を待たせてしまう側であり、友人を待つ状況に慣れない私は様場の入り口の前で、ここで待つか、中で待つか、うろうろしながら考えていた。
少し強い風が吹いた。その風と共に周辺の木々が騒めく。
「……寒っ」
風は思ったよりも冷たく、私は体をブルっと震わせた。それが理由となり、私は酒場の中で待とうと決心した。
酒場の入り口の扉を開けると、中は酒飲み野郎達が騒ぐ声や、乾杯の音頭でガラス製のグラスがガチンとカチ鳴らす音が聞こえて来た。酒場内は外よりも薄暗く、光源と言えば、テーブルがあるところの真上にある洒落た電球が放つ、黄色だか橙色だかわからない色の光だけだった。目を悪くしそうな明るさの空間だが、私は何故だかそんな環境が気に入っていた。
私はいつもの友人と座っている席へ行く。この酒場には一階と二階があるが、私と友人が座る席は、一階と二階それぞれに一箇所ずつある。友人と話し合い、お互いのその時の気分で上か下かを決める。これが私と友人のこの酒場に於ける席決めだ。
とはいえ、今は友人がいないが故に、今できることといえば、その席に誰かが座っているかの確認ぐらいだろうか。私は一階のいつもの席を見る。その席は空席だった。次に二階へと向かう。壁伝いの階段を上がり、一階よりも狭い二階に着く。二階は一階よりも静かな雰囲気だ。この酒場では一階は騒ぎ散らかす人、二階では静かな人と、酒の嗜み方でくっきりと分かれている。私や友達が気分によって階を選ぶ理由はこれだ。
二階のいつもの席に目を遣る。すると、そこに一人座っていた。机の半分を占める程の大きさの本を広げていて、その人はペンを片手に持ちながら、その本を見つめていた。
「……」
私は無性にもその人のことが気になった。というのも、その人が酒場で一度も見かけたことがなかったからだ。机にでかい本を広げている光景なんて、この酒場に初めて来た時以降一度も見たことが無い。
私はその人が座る席に行く。近付いた事で、その人が女性である事が分かった。私はその人が座っている席の反対側の席に座った。
「……お嬢さん、こんばんは」
「ぇ! ぁ……こんばんは……」
その女性はか細い声で話す。後ろに優しく結われている黒髪、濃い紫色の双眸、健康的な肌。思った以上の別嬪さんだ。
「見かけない顔だったんでつい……あと、その本も」
「そう……ですか」
話し方や目をキョロキョロとさせる様子から、その女性は内気であることがわかる。
「何を書いてるんです?」
「これは、その……小説……です」
少し恥ずかしそうにしながら答えた。小説かぁ……。私はあまり読まないなぁ。
「どんなの書いてるんです? ジャンルとか」
「ファンタジー……です」
ファンタジー小説。さらに読まない部類だった。
机に本を広げている理由がわかったところで、もう一つ気になったことを訊いてみる。
「本、まだ何も書かれてないですが、もしかして今考えてたりしてます?」
「ぁ……その……」
広げている本には文字一つ書かれていなかった。ページも、恐らく表紙から数ページ捲ったところだろうか。もしや構想を考えている時に割り込んでしまったのかもしれない。だとすると、邪魔をしてしまったかもしれない。
「もしかして、今集中してた感じですか? だとしたら、急に割り込んで申し訳ないっす」
「ぇ? あ、いえ、そうでは、なく……」
「?」
「今書いてるのは……続きのお話なんです。ですが……前のお話からだいぶ日が経ってしまって……それで、登場人物達のこれまでの経緯を読み返した上で、今書こうと思ったんです。ですが……」
女性の口が止まる。
「……ですが?」
私がそう復唱すると、女性は言い辛そうな呻き声を小さく上げる。
「その……なぜか、これだって思うものが、書けなくて……構想はできてるんですが……」
「はー」
なるほど。それで本が真っ白なわけだ。
私は頭の中で女性が小説を書けない原因を考えてみる。小説のストーリー自体に問題があるか、それとも登場人物とかに問題があるか。それとも。
……。
色々考えてみる。
「ぁあ、すみません……。私がいけないんです。私が日を空けちゃったのがダメなんです。……登場人物達のことも放ってしまって……これでは作家として失格ですね……」
女性は自分の行いに自責する。
ところが、女性が話したことの中に一つ引っかかる所があった。
「えっと、登場人物を放っておくというのは……」
まるで登場人物を我が子同然のような言い回し。その特殊な表現にいまいち理解できなかった。
「小説を書かなかったから……そこに出て来る登場人物達……その世界の時間を止めてしまっている状態を何日もしてるようなものです……」
「……」
その女性の瞳は真っ白な本をじっと見つめていた。それはまるで、女性がこれまでに書いて来た、彼女自身の登場人物を見ているように思えた。
女性は小説が書けなくなっていることに、相当悔しい思いをしている。
でも。
それでも、彼女は──
「自分の小説が……大好きなんですね」
「……ぇ?」
本を見つめていた女性の瞳がこちらを向く。それも驚いた表情で
「いや、なんか、書けないって自分を追い詰めてる割には、自分の小説のことを真剣に考えてるなって。目を見たらそんなふうに思った」
「好き……です。自分が書きたいって思ったんですから……でも、好きっていう感情だけでは何も……」
そうい言うと、女性は再び目を本の方に向ける。その目は、諦めかけている目だった。
なんとか前を向ける方法を考えて見る。しかし、小説家の悩みを解決する術なんて、普段から本を読まない自分からは出て来るはずなんて無かった。
ふと、女性の後ろにある壁を見た。そこに貼られているものを見て、今いる場所を思い出した。
「……そうか。じゃあ──」
私なりの解決法といえば、これしか無かった。その解決法をするべく、私は席を立ち上がる。
「少し待っててください、すぐ戻るんで」
「……ぇ? あっ」
私は一階に降りる。
「あっ。おーい! もう中にいたのか!」
すると、入り口にいた友人と出会う。
「ん? おぅ、丁度良かった」
「ん? 何が?」
「ちょっと来てくれ」
「え? 何を言ってんだ?」
友人は戸惑う。
「今日の飲みは二階でしよう。いつもの席に先客がいてな、だいぶ落ち込んでるから、一杯奢ろうと思ってな」
「……なるほど?」
「もちろんお前も飲むよな?」
私がそう言うと、友人はニヤリと笑った。
「……そのためにここに来たんだろ? 行くぞ」
「よっしゃ」
俺と友人はカウンターへ行き、店員にお酒を三杯注文する。私は両手に二杯、友人は自分が飲む酒を一杯持ち二階へと向かった。
二階へ行くと、先ほどの女性がまだ本を広げて座っていた。
「待たせたな。その本、一回閉じてもらってもいいですか?」
「ぇ!? ……ぁ、はい」
女性は私達が持っている酒杯を見て察したのか、すぐに本を閉じてくれた。私はまっさらになった机の上に、酒杯を置いていく。
「この人がお前が言ってた先客か?」
「あぁ。……待たせて申し訳ない。……私なりの解決法を持って来たぞ」
「ぇ、えぇ!?」
女性は驚いて声を上げる。今日一番の声だった。
「奢りでいいから、飲もう!」
「え、えっと……」
「行き詰まった時は、考えてること忘れて、パーっと飲むのが一番だ! ここはそう言う所だぞ?」
「えっと、その……」
私がほらほらと勧めていると、後ろにいた友人から襟を軽く引っ張られた。
「こらこら、お前はいつもそうやって……。二階で飲む乗りじゃないだろ。……すみません、バカが騒いでしまって」
「バカってお前……」
友人の言い方に少しイラッとする。
「殴り合いなら一階だぞ?」
友人はなぜか煽って来る。
「望むところ──」
私が喧嘩を買おうとする。
「……ぁ、あの!」
「!」
しかし、女性の声でハッと我に帰る。私と友人は女性を見る。
「えっと……喧嘩は見たくないです。それに、ありがとうございます。私のために……その、飲み物を」
「……はっ」
危うく我を忘れて友人と殴り合いをするところだった。そうだった、私は女性の悩みを訊いてたんだった。私は深呼吸をして落ち着きを取り戻して、本来の目的を思い出す。
「まぁ、それ飲めば、気だけでも晴れるはずだ」
「えっと……その事なんですが……」
「……ん?」
私と友人は顔を見合わせる。
「私、その……まだ、お酒を飲む年じゃ……」
「え」
私と友人はもう一度顔を見合わせた。私の目を見た友人はすぐに一階へと向かった。
私は席に座り、女性の方に小さな声で
「おいおい、ここは酒場だぞ。まだ酒飲めねぇ人が来るとこじゃないぞ……」
「す、すみません……良い感じの雰囲気だったのでつい……」
まぁ、雰囲気については同意だが……。
すると、さっき一階に行った友人が戻って来た。その手にはアルコールの入っていない炭酸飲料が入ったグラスを持っていた。
「まぁ、代わりにこれでどうかな?」
友人は女性の前にそのグラスを置いた。
「ただの炭酸飲料だから大丈夫だ、酒の代わりにこれを奢りたい」
「えっ……良いんですか?」
「あぁ、飲め飲め。ここは本広げて悩むところじゃないからな思いっきり飲め」
「では……いただきます……ありがとうございます」
女性はグラスに手を取り、グイッと勢い良く飲む。
「……わぉ、良い飲みっぷり」
友人が小さく呟いた。友人の言う通り、女性の飲みっぷりは、一階で見かける大巨漢の酒飲みを彷彿とさせるものだった。
「……っ……っ……っはぁ!」
女性は炭酸飲料を一気に飲み、最後の一口を飲み終えると、勢い良く息を吐いた。
「おぉ……」
その飲みっぷりは、間違いなくこの酒場に来て以降、一番のものだった。
「……どうだ、勢い良く飲み干した気分は」
「はい……なんだか、とても……すっきりしました……」
「っへへ、お嬢さん、良い飲みっぷりだったぞ」
「えぇ、そんなこと……ないですよ。でも……」
女性は笑みを浮かべた。
「飲んでいる時、なんだか、色々思い出しました。一話一話……書き上げた時の達成感……」
「気晴らしは成功って感じか?」
友人が自分の酒を飲みながら私に聞いて来た。
「あぁ、大成功みたいだな」
「あの……」
私たちがそう言うと、女性が声を掛けてくる。
「……私、頑張ってみようと思います……!」
「……!」
先程まで自責の念に駆られていた姿が嘘のような笑顔だった。
「……あぁ、頑張りな!」
「ありがとうございました!」
女性は頭を下げてそう言うと、荷物をまとめて席を立った。女性はそのまま一階へと向かった……と思いきや戻ってきた。
「あの……本当に奢りで大丈夫なんですか?」
と、入念に訊いてきた。
「あぁ、良いよ。お嬢さんを良い顔にすることができたからな。気分良く帰りな」
「……! あ、ありがとうございます!」
女性はまた頭を深々と下げて、階段を降りていった。その後、酒場の入り口が開くドアベルの音が聞こえた。
「んじゃ、ひとまず一件落着ということで、俺らも飲むとするか」
友人が酒杯を掲げてそう言う。
「……あぁ、乾杯」
カチャンと酒杯同士がカチ鳴らす音が静かに響く。私と友人の酒飲み会はこれからだ。私はお酒を一杯口に運んだ。
──今日の酒は、いつもよりうめぇなぁ。