旅立ち・前編
祖父・ニックスの部屋の片づけはその日の夕方ごろには完了したが、
農村地帯であるハイロの村で暮らす人は、流石にもう寝入っている時間帯であり、
屋敷を立つのは明日にしよう、という流れとなった。
日が昇るまでの間ふたりは各々好きに過ごすことに決め、
アーサーは食事と睡眠、そして祖父の遺品選びを。乙女は旅に持っていきたい物の選定を行っていた。
「帰ってきたときにお気に入りのものが埃まみれだと、
なんだかちょっと嫌な気分にならない?」
「まぁ少なくともショックを受けますね」
そうでしょう、とゆるく束ねた長いミルクの髪を大きく揺らし乙女は頷く。
一方すでに食事と遺品選びを済ませ、後は寝るばかりのアーサーは、
乙女が選んだ荷物の多さに愕然としていた。
「それよりか、お……私は今、あなたの荷物の方に驚いています」
アーサーはリビングルームの床を占拠せんばかりの膨大な鞄の数々を呆然と見下す。
なにせ数が尋常ではない。旅ではなく引っ越しと形容するにふさわしい荷物量だ。
不老不死の他、神と同等の御業を少女の身に与えられた乙女には、
膨大な荷物を所持して歩くなど造作もないことだとは思うが、やはり余人の目には奇異に映るであろう。
「大丈夫よ。だってその辺に入れとけばいいもの」
なにもない空中をぞんざいに指さし、平然とした顔で乙女はそう口にする。
そんな乙女の姿を目にしたアーサーの脳裏に、本日一番と言っていいほどの疑問符が舞い踊った。
そしてその考えは、どうやらそのまま表情に出てしまったらしい。
アーサーの呆気にとられた顔を見て、乙女はくすくすと小鳥がさえずるような笑い声をあげた。
「明日見てのお楽しみということで、ね?
私はまだまだ持って行きたいものが沢山あるから、
気にせずおやすみなさいな」
「ま、まだあるんですか!?
本当に大丈夫なんですか? 」
狼狽しつつ訴えるも、いいからいいからと流され寝室のある部屋まで誘導されてしまう始末である。
神へと捧げる夜の祈りを済ませた後、アーサーは明日の乙女の荷物の事で頭が埋め尽くされ、
なかなか寝付くことができなかった。
「いや本当にどうするんだあれ……腕が何本もあっても足らないぞ……」
祖父が死去した後、誰も使った痕跡がない割には清潔な状態を維持している寝具の中で、
アーサーはひとり何度も寝返りを打つ。
明日見てからのお楽しみ、と乙女は言っていたが、
明日になれば何倍も増えているのではないのか?という不安が脳裏を過る。
「そもそもなんだ……『その辺に入れる』って……」
まるで意味が分からない、とアーサーは暫し頭を抱えていたが、
ふと唐突に祖父が以前ぼやいていた発言を思い出した。
『いいか、アーサー。
あの方は全能に等しいお力を持ったお方だ。
故に我らの常識や創造など、あの方には通用しないと思え。
あの方はありとあらゆる物理法則を、いともたやすく捻じ曲げる』
冗談など滅多に言わない厳格な祖父だった。だからこそ確かな真実味があった。
幼いアーサーの肩をしわがれた大きな手で掴み、真顔で諭すようにそう告げたニックスの顔は、
未だアーサーの記憶の中で健在だ。
幼いアーサーも、確かに『それ』は見知っていた。
階段を上ろうとして空中を上っていた姿や、近道と称して壁をすり抜けて部屋へとやってくる姿は、
もはや屋敷では茶飯事であった。
一度生贄として死んだ後、神に近しい存在となって甦ったためだろう、とニックスは推測していた。
乙女はもろびとが求めてやまない不老不死になった代わりに、名と色を失った。
それだけではなく、視覚と色覚、聴覚を除いたすべての感覚が乙女から剥ぎ取られた。
己を常に確立せねば存在を保てず、姿かたちを忘却すれば世界の狭間でたゆたうのみの存在となる。
「『名』とは、魂を身体に縛り付ける枷であり、
『色』は、身体を身体たらしめんとするものであり、
また人の世に留まらせるためのもの……」
神学に精通していた祖父が口にしていた言葉を、アーサーは反すうする。
あれから何十年と経過した今も、その言葉の意味はやはり理解できないままだ。
遠くから小鳥がさえずるような声で歌う乙女の声が、アーサーが眠る寝室まで聞こえてくる。
食事はおろか睡眠も不要な身である乙女には、夜はただ無為で孤独な時間だ。
今この瞬間を乙女がとても楽しく過ごせているのなら、
もうそれでいいのではないかとアーサーは結論づけ、ようやく訪れた眠気にその身をゆだねた。