そして時間は動き出す。
「ご存じ、だったのですか」
「それは、ねぇ。もう何年もここで暮らしてるんだもの。
わかっちゃうわよ」
困ったような笑みを浮かべ、乙女は白い面を上げる。
リネンのシフトドレスの上からでもわかる華奢な両肩をすぼめた姿は、
まるでいとけない子供のように見えた。
胸が張り裂けそうなほどの衝動が、アーサーの全身を駆け巡る。
「……これから、どうするおつもりですか?」
息が詰まる様な心地から、やっとの思いでひねり出したのはそんな言葉だった。
うん?という声を漏らし、不思議そうにアーサーの顔を見上げる乙女と目線を合わせるために、
彼は床へと跪き、再度先程の発した言葉を口にする。
そうねぇ、と心持ち悲し気な表情を浮かべた乙女は、遠山の眉を寄せつつ思案しながら言った。
「……うん、とりあえずここに残るわ」
やはりか、と乙女に気づかれないように小さくアーサーはため息をつく。
予想通りの答えに、内心彼は天を仰いだ。
アーサーの想像通りの言葉は、まだ続く。
「ほら、だって。
アーサーもいい年なんだし、いずれは可愛いお嫁さんを貰って暮らすでしょう?
今までずっとクロックマンの人たち助けてもらってきたけど、
やっぱりわたしって、世間に騒動を起こしかねない存在じゃない? 」
アーサーの眼前にいる彼女は、その風貌からわかる通りに只人ではない。
人のような形をしているが、その実態は人とはおよそかけ離れた存在だった。
遥か昔、アーサー達のような黒い髪と眼、そして白い肌を持つローシィ人と、
先住民族である金の髪と黄色い肌を持つイェロキ人が暮らすシニュー大陸のみならず、
この世に存在する大陸全土が、滅亡の危機にさらされた。
まず初めに、未知の病が猛威を振るった。
その次に、未曽有の飢饉が押し寄せた。
そして次に、他に類を見ないほどの大災害が、病と飢饉に晒された人々へ情け容赦なく牙をむいた。
絶体絶命の窮地に立たされた人々は藁にも縋る思いで、遥か昔に背を向けた神へ一心不乱に祈りをささげたが、
神は祈れども祈れども、一向に応える素振りを見せなかった。
やがて混乱し、疲弊の極みに落とされた人々は、古い慣習である人身御供や、
己が生き残るために国を掲げての大きな争い──戦争を開始せざるを得ない状況まで追い込まれた。
そんな折。東の大陸の、今は無き小さな国からひとりの身よりなき少女が、自ら生贄に志願した。
数々の国から代表に選ばれた人柱たちではなく、自分を生贄として選んで欲しいと進み出た。
そして結果として、世界は救われた。
しかし生贄として命を散らしたはずのひとりの身よりなき少女は、
あろうことか永遠に朽ちずそして老いることもない、文字通り神に等しい存在としてこの世に甦った。
それこそが乙女であり、クロックマン一族が仕える生きた女神の正体である。
乙女は綿毛のような睫毛を伏せ、続ける。
「いままではずっと好意に甘えてきたけれども、
やっぱりあなたたちに悪いと思うのよ」
「いいえ、乙女よ。
あなたをお守りすることは、我らの使命であり総意です」
「いい加減、そんな使命からは解放されるべきなのよ」
「ならば、問わせていただきます。
この屋敷が朽ちた後は、どうなされるおつもりですか?」
「この森で暮らすわ。
ここは、人から隠れて生きるのには丁度いいもの」
この返答も、やはりアーサーの想定内ではあった。
彼女はこの家に深い深い思い入れがある。
説得が困難を極めることも、とっくの昔に予想をしていた。
だが、それでも絶対に諦める訳にはいかないというのもまた、アーサーの応えであった。
真摯に乙女の真珠の眼を見つめ、苦渋に満ちた声で一縷の望みをかけて問う。
「私の家で共に暮らすという選択肢はないのですか?」
「だから……あなたもいずれお嫁さんをもらわないといけないでしょう?」
呆れたように乙女は口にする。
無機質な大理石を思わせる唇から、はぁと小さな嘆息が漏れた。