「こんにちは、世界」と少女は歌う
幾年ぶりかの朝が、訪れようとしていた。
万感の想いで苔と枯葉に覆われた地を踏みしめる。
耳障りのよい音が、静寂に満たされた森へと響いた。
木の間より零れ落ちる光を一心に浴びる、いかにも廃墟然とした屋敷こそ、アーサーの目的地であった。
全体をくまなく蔦と枯葉に覆われ、至る所が老朽化しつつあるその姿は、まごうことなき化け物屋敷。
それを目にしながらも、アーサーは躊躇なく化け物屋敷のドアノブをひねる。
ただ一片の恐れも表情に浮かべず、さも当然といった面持ちで。
自らを凡庸と自負する彼は、この時取った行動が、他人からは到底凡庸とは思われないとは知る由もなかった。
広々とした豪奢な玄関ホールには、往時のごとくに明かりが灯っていた。
そのことに微塵の疑問も抱きもせず、アーサーは緋色の絨毯が敷き詰められた廊下を、
意気揚々とした足取りで突き進む。
ひとりで暮らすには広過ぎる屋敷は、祖父が一人暮らしを送っていた訳では無いことを証明していた。
狭く小さなベッドルームとは対照的に、広々としたリビング。
蜘蛛の巣ひとつない廊下、眩いばかりに磨かれた洗面台と足つきの浴槽。
それは一見正常のようで、異質そのものの光景。
人が居ないにしては、屋敷はやけに整然とした体を保っていた。
「きっと『彼女』のお陰だな」
記憶の中の光景そのままに、埃のひとつも落ちていない艶やかな漆喰の階段を前に、
アーサーは心笑みを浮かべ、ぽつりと感謝の言葉を漏らす。
「本当に、あのひとはいつまでも変わらないままだ」
無論、アーサーもかつてこの屋敷で暮らしたから知っている。
ここにはクロックマン一族が、生涯を賭して守りぬくと誓った人物が住んでいる事を。
書斎を、キッチンを、物置を。
そして彼が幼少の頃に使っていた部屋を順繰りに、くるくる見て回る。
そうやってあちこち移動する度に、傷んだ廊下がキィキィと尋常ではない悲鳴を上げた。
経年劣化による材木の変質の影響のようだな、とアーサーは胸の内で思案する。
こまめな掃除を欠かさずいても、やはり時の流れには抗えないようだった。
「もうきっと、この屋敷も時期にお終いになる。
そうなる前に『彼女』とここを立たないと」
あちらこちらに浮かび上がっている綻びの兆しを見つめ、彼は形の良い眉を顰める。
『彼女』を説き伏せるにはかなりの労力が必要になるであろう、と述懐しながら。
きっと祖父の最期を看取ったのは、『彼女』に違いないとアーサーは確信していた。
半月前に自宅に届いた祖父の訃報を報せる手紙の筆跡は、
間違いなく記憶の中に今も尚鮮やかに残る、愛しきあのひとのものだったからだ。
差出人不明で送られた封筒を、懐から取り出し眺める。
『彼女』はどんな気分で筆を取り、手紙を出したのか。
その胸の内を思うと、アーサーは心が張り裂けそうになった。
「『彼女』は恐らくあそこにいる」
手紙の内容は酷く簡潔だった。
可憐な封筒に綴られていたのは、祖父の死と不用品の整理を願う言葉のみ。
遺体がどうなったかは知らないが、きっと『彼女』が埋葬してくれたに違いなかった。
祖父の不用品を処理した後、『彼女』はどうやって暮らすつもりなのか。
アーサーはそれが気が気でならなかった。
老朽化しつつある屋敷の事を、よもや知らぬ訳でもあるまいに。
『彼女』は不変にして不朽の存在だ。
人ではなく、かといって神という訳でもない。
ひとりでいることには慣れている、と以前『彼女』は語っていた。
でもだから、それがどうだというのだ。
「クロックマン一族は、そんな暮らしをさせないために存在しているんだ」