【4】顔も知らない人
出航から数時間。
自国の港を出てからもう八時間は経っていた。日はすっかり暮れ、窓から見えていた美しい海は黒く染まっている。
さすがのウィナも少しは慣れたらしく、いつもの様に甲斐甲斐しくマリアナの世話を焼いていた。
お茶を入れたり明日着る服を用意したり、マリアナの好きな香りで部屋を満たしたり。動き始めて体が緊張と共に解れたところで働き者の侍女は船酔いに苦しむ事となった。青い顔で机に伏せるウィナにアレウスに用意してもらった水と薬を渡す。
本当に扉の前に待機していた事に驚いたのは内緒だ。
ーーートイレとかどうしてるんだろ?
素朴な疑問を本人に聞けるわけなく、答えが分かる前に頭の隅に追いやった。
まだ辛そうなウィナは時折うめき声を出して吐き気を逃している。こんな綺麗な所で吐くわけにはいかないと、その決意だけで耐えていた。
「しばらくしたら薬、効いてくると思うからそれまでベッドに入ってたらどう?」
「…いいえ、ウィナはここで大丈夫でございます……」
「吐いたら楽になるよ?」
「………遠慮いたします。あの、お嬢様は…平気なのですか?」
「うん、私は軍での浮遊と滑空で揺れるのには慣れているからねぇ」
三半規管には自信があるよと笑う。
それに釣られてウィナも僅かに色が戻った顔を緩めた。
簡易のキッチンでウィナに隠れてお茶を入れ、向かい合わせで座る。手元のお茶に気付き小さな声で謝罪される。軍で身の回りの事は一通り自分でやっていたマリアナにとって使用人に淹れてもらう方が非日常なのを未だにウィナは良しとせず、本人に令嬢としての振る舞いの一つだと強要してくる。
その強要も心地よく感じてしまう程にマリアナは彼女に心を許していた。
「あの…お嬢様、少しの間お話ししてもよろしいでしょうか?その方が気が紛れそうで…」
「別に構わないよぉ。うーん、でも何を話そうか」
「ではあの…シュドレッジ公爵様の事を実はあまり聞き及んでおりませんでしたので、よろしければお教え頂けませんか?」
「いいよ。……確か名前はロー…ウェル?うん、ローウェル様で公爵家の当主で、騎士団に所属してるはずだよ」
「フィブリアの騎士団と言えば第一騎士団、王の剣が有名でございますね。公爵様はどの騎士団の所属なのでしょうか?」
「…………、さあ?」
「……。お嬢様…」
「うん?」
「もしかして、知っているのは先程仰った事だけでございますか?」
「うん」
「アレウス様ー!!」
ウィナは勢いよく体を起こし部屋の扉まで走る。アレウスの名を呼べば、少しの間の後静かに扉は開かれアレウスが顔を覗かせる。
元々同盟国の公爵として名前を知っている程度だったシュドレッジ家を嫁ぐと決まった日から特に調べる事もせずに今日を迎えてしまっていた。元々興味が無いのもあり、どこに嫁がされてもマリアナにとってはさして変わらなかった。
せっかく治ってきてた顔色を悪化させ、ウィナはアレウスに詰め寄る。
部屋に入って来た彼に縋る様に頭を下げ、シュドレッジ公爵家について勉強会はフィブリアの港に着くまでの時間をフルに使い船旅は終了した。
****
早朝、結納品と共に送られてきた服に身を包むマリアナは中身さへ分からなければ元軍人には見えない程令嬢として完成していた。
いつもとは違った可愛らしい服に身を纏い、少し高いヒールの付いたブーティーを軽快に鳴らす。薄いパフスリーブのブラウスにミドル丈のスカート、胸元には銀色のブローチが光っていた。
着慣れない服に気恥ずかしさもあるが、元々可愛らしい物は好きな質のマリアナはコーディネートした侍女にもバレない様に密かに口元を緩めた。
フィブリアの港に着くと、そこからは忙しなかった。ゆっくり港町を見る暇も無くすぐさま用意されていた馬車に乗り込み出発。
この港町、カルセンは観光名所として有名で、それこそ他国からの来訪が一番多い町として有名だった。少しは見たかったなと内心残念に思いながらも、マリアナは夫になるシュドレッジ公爵の多忙さに敬服した。分刻みのスケジュール管理をされていて殆ど休みが無いとアレウスがの口から聞いた時、なら顔合わせは今度でいいんじゃ?と言ってしまいそうになりウィナに肘で腹を突かれたのはついさっきの事である。
少し広い馬車は乗り心地がとても良く、いい御者と馬を使っているとすぐに分かった。
また自分にお金をかけてくれたのかと心配になりアレウスに聞けば、この馬車はシュドレッジ公爵も持ち物だと分かりマリアナは少しホッとした。
資産はいくら位あるんだろう。そんな下世話な事を考えれる程度には余裕も見えてきた。
そんな中、彼女とは真逆な顔で小さなメモを見て小声で反復し呟く侍女に心の中で詫びを入れる。こんな事なら少しは勉強しておくべきだったと今まさに後悔の真っ只中だ。船内でアレウスを講師にした勉強会で学んだ事を紙に書き暗記している姿に少し肩身が狭く感じてしまう。
ウィナ曰く、妻になるマリアナが嫁ぎ先について何も知らないのは大変失礼にあたるらしく暗記や人の名前を覚えるのが苦手な主人のために船酔いを無視していつでもフォロー出来る様にと変わりに覚えていた。
その空気を読む様に馬車内は静かだ。
風景を見るしかやる事の無いマリアナはひたすらに窓の外を眺める。
交易などで使うメインの町を抜けると、あまり目立ちはしないが所々に戦火の跡が見えた。
それに気付いたアレウスは眉をひそめ小窓にレースをかけた。見られたくない物だったのだろうかと景色から目を離す。
どこも未だに傷は癒えてはいないのだと実感した。
アレウスから息を吐いた音が聞こえる。
顔を上げると目があってしまい、少し気まずさを覚えた。優しくアレウスから微笑みかけられ、やっと声を発する。
「交易の要のカルセンですら、まだ戦災復興は完全には成されてないんですね」
「はい、お恥ずかしい話です。王都にばかり人材を取られてしまって、山脈の麓の村は何村か無くなりました。」
「我が国も似たようなものですよ。田舎は後回しにされますからねぇ。 アレウスさんはご実家は王都ですか?」
「いいえまさか!自分は爵位を持ってはいません。ですがそんな平民でも閣下は分け隔てなく採用して使ってくれます」
「成る程、シュドレッジ公爵は実力主義ですか」
「っと申し訳ありません。あの、平民である事を隠していた訳では…」
「お気になさらず、貴族と言ってもうちは底辺なので。 それに使えない貴族より使える平民ってやつですよぉ」
朗らかに笑う静マリアナにアレウスは呆気に取られる。
確かに大戦中に活躍したのは大半が平民で、マリアナの言う通り最近では貴族の家柄だけで手に入れた役職を見直す意見も出ているくらい使えない貴族は凶弾せれている。
お陰で平民に対する態度も僅かだが緩んできてはいるが貴族は貴族だ。平民とは元からの地位が違い過ぎる。
いくら気にしないからと言っても自分の身分を明かさずに居たのだ。咎めるのが貴族らしい立ち振る舞いだろうに、それをしない彼女を不思議に思うが差別を嫌うシュドレッジ公爵の顔が浮かび、あぁだからかと納得した。
「閣下と貴女様は似ております」
「えぇっ、まさか! シュドレッジ公爵が長身でとても体格の良い方だと言う事ぐらい私でも知っていますよ。アレウスさんは冗談が面白いですねぇ」
「いえお嬢様、今の場合ですと心根が似ていると言うことでございます」
「えぇ!?それこそ無いよ!公爵は人格者として有名なんだ、私何かと同じにしては失礼に当たっちゃうよ。 公爵の前では冗談でも言ったらダメだからね?」
「………成る程、確かにそう言う所は少し似ておりませんね。閣下はあれで鋭いお方ですから。ウィナさんも苦労なされる」
アレウスが笑う。さっきまでのアルカイックスマイルとは違い、素で笑ってるみたいだ。
そちらの顔の方がいいと思うとは敢えて言わず、自分を少しは信用してくれたみたいでマリアナは少し嬉しくなった。
しばらくして御者がアレウスに声をかける。
どうやら目的地が近いらしく、身なりを整えるアレウスに習う様にマリアナとウィナも前髪を軽く触って整える。
五分も経たない内に馬車は止まった。
珍しく音がしそうなくらい心臓が動いている。焦るなと心中で唱え、顔を引き締めた。
ウィナもメモを仕舞い、いつもも凛々しい侍女の顔になっている。
アレウスのエスコートを受けながら馬車を降りてシュドレッジ家の門前に立った。
玄関ホールはマリアナが見てきた貴族のどの屋敷も霞んでしまうくらいの豪奢な造りをしている。それだけでこの屋敷の主人がこの国の上位貴族に位置しているのがはっきり分かる。
アレウスが開けた扉をマリアナが一歩踏み出せば数十人の使用人が恭しく一斉に頭を下げた。
そして、その中心にマリアナの夫となるローウェル・フォン・シュドレッジ、その人が立っていた。
目が合えば反らせない。
そんな威厳が漂う男だった。
読んでくださりありがとうございます!
ようやくお相手少しですが出せましたー(>_<)