マリ様の誘拐
お立ち台の上、それは高く天にまで届きそうだった。一人の女性が、太陽に照らされ、神々しい服を着て宣誓する。私たちは平和だと。
恵のように晴れた空は、時には恵みの雨をもたらし。この地の悲しみを癒すことだろう。
声を張り上げ、平和になったこの国を称える。この喜びを共に伝える。戦いの終焉を迎える。一人の英雄は、歯を食いしばって。叫びと悲鳴を噛み殺して、自分の人生を捨てる覚悟を得た。
代わりに、この国の復興を一心から願った。
そして、一年が経つ。
『皆様、おはようございます。この度新たな天皇に就かせていただきました、マリと申します』
声が街に響く。
いま極東の国は、世界から見ても先進的な国だ。近未来にも似た、映画の中のようだ。高速道路の壁は半透明だが強固、ビルとビルの間は湾曲した廊下がこれまた半透明で建設されている。
街は基本的に白色だ。グレンシアの気配をそこにまだ少し感じていた。一夫、モダンで統一されてきもちいというものもいる。だが、今となってはどこか寂しく、それでいて冷たく清潔だった。
現在、リーダーにキシヨを迎えて新政府が樹立。マリは新たな象徴として、極東の国の天皇に就任することとなった。
『この国のシンボルとして海外との円満な関係を築き、極東をよりよくすることを誓います』
首都ではビルの巨大な液晶に、マリの顔が映し出されている。就任の挨拶の生放送だ。見逃せまいと、テレビにかじりつく者すら居たのだから、彼女の人気は凄まじいものがある。
『極東の名に恥じないよう努めてまいりますので、宜しくお願いします』
そんな最中、キシヨは新たな仕事に没頭していた。今には珍しく、紙媒体の擦れる音、鉛筆の各音が聞こえる。しかし、その周りに誰か他の人間が作業しているわけではない、一人でひっそりとこなしていた。
「あーでもないな、違う、こーでもない」
大きめの書斎の中。
壁面は紫のカーテンがかかっている。その向こうには、グレンシアと戦っていた時に書いた隊員の名前がマジックペンで描かれていた。むき出しのコンクリートは過去に本拠地だった証だ。
どっしりとした机が、緑の絨毯に乗っている。目の前に、踏ん反り返れるほどの大きな椅子が。キシヨはそこにみみっちく座っていたのだ。
現在、新政府樹立一年を記念してのパレード、その計画を渾身の力で練っている最中だ。だが、構想を練るには人が少なく、その仕事をこなすには彼の役職が上過ぎた。
「もっと会場を大きくしたほうがいいか? でもそれだと予算が」
頭を指でコツコツ叩きながら取り組んでいるこの仕事。この仕事は、本来役所のイベントを企画する部署が担当する。だが、今は国のリーダーとして活躍しているキシヨが行っているのだ。
キシヨは国のリーダーといっても、ここ最近は全く代表として姿を見せておらず、この書斎で誰もやらないような仕事をしている。つまるところ、彼のリーダーという肩書きはもうないも同然であり、今は別の人間が国を動かしていた。
そこには複雑な事情というものが伴っている。
「ハクション! やっぺ! 書類が濡れた! 熱! コーヒーが!」
キシヨは日々励んでいた。毎日を必死に取り組んでいた。それはもちろん全てが模範的だ。
朝は早く起きる。1日の予定を確認。日々浮上する国の問題を解決する案を出す。夜は次の日の予定を確認して早く寝る。そんなとある日、キシヨは風邪を引くと、こう思ってしまったのだ。
ああ、これで休める。
キシヨは自己嫌悪に襲われた。国の未来のために邁進すること、この仕事がやりたいのだと、信じていた。
「びしょびしょだー、いいスーツなのに」
しかし、それは違ったようだ。あの時。グレンシアと命をかけて戦っていた時、一番生き生きとしていたことを思い出す。
キシヨは戦いが好きなのだ。
……スーツを着てびしょびしょになってる場合じゃない。手を火傷してあたふたしてる場合でもない。国民に忘れ去られている場合ではない。
僕は、君をそんな風に語らったつもりは一切ないのだよ。
「おーい! 秘書いますかぁ!? 新しいコピー持ってきてー! フキンも!」
昔、侍がいたころ。
戦いがなくなって侍は肩身が狭くなってしまった、というのを聞いたことがある。しかし、侍は戦うことをやめられず、そのほとんどが新たな社会には馴染めなかったらしい。
まさか自分が侍と同じだとは考えもしなかった。
今の彼を見て言うならば、90年代のオフィスコメディー。身振り手振りが大きいがのも、誰も返事をしないとわかっていて、あえておちゃらけているわけだ。
キシヨの気づきをきっかけに、部下たちも力をつけ始めキシヨの仕事は大きく変わった。結論、用なしと言う意味だ。
「誰もこない、か」
寂しくコーヒーカップを手元に戻す。フキンも机の棚から引っ張り出した。
黄色いフキンは侍に似つかわしくないモッフモフした素材。吸収性が良いのをいいことに、コーヒーを自分の待遇への不満ごと拭い去った。
今回、マリの天皇襲名演説にも、全く関与していない。キシヨとマリ、そして太一は中が良く、隣で祝ってやりたかったのだが、今の彼は影に徹すると決め込んでいた。
”よんだかい?”
「仕方ない、少しだけ休もう」
肺を膨らましてからため息をつく。
書類をかたずけてフキンをしまい、スーツのコーヒーを軽く叩いて、部屋の小さな物置を眺める。
キシヨが太一と撮った写真、ともに笑顔で泥まみれだ。
不満も忘れて、仕事にふと切れ目が現れる。そして、太一の言っていた元気の出る言葉を思い出すのだ。
”エクレツェアの民は、果敢に戦う。エクレツェアの戦士は、優雅にに戦う。エクレツェアに行くこと、それが夢だ”
エクレツェア。一体何の話だったのだろうかと首をかしげる。だが、アニメにも小説にも聞いたことがない名前。もしかすると思って世界の国の名前をしらみつぶしで探したが、エクレツェアという国はなかった。
思えば、親友はいつも言っていた。
”俺は異世界の人間なんだ。いろんな世界を旅して、やっと親友に出会えた。お前をずっと探していたんだ”
その先に、何か言っていたような気がしたが、覚えてなかった。それでも彼は、そんな馬鹿馬鹿しいこと、嘘だと決め込んで、上の空で聞いていた。
キシヨは肺を緩和して息とともにつぶやく。
「俺もいつかエクレツェアに行けたらいいな。その時は、お前に逢えるといいんだが」
なんでもない、その言葉。だがそれは、運命を変える言葉であった。
そう、その言葉を待っていたんだよ。
君は、このままでいいわけがない。
大切な存在だからね。
コンコン
扉にずさんなノックされた。茶色い扉は資格のもよが上が枯れている簡単なものであるが、木材でよく音が響いた。部屋の中にこだまして、床とデスクに振動が伝わる。
向こう側では黙りこくってキシヨの愛想を思い描いていた。
「入ってください」
……コンコンコン、珍妙なリズムが鳴り響く。誰も入ってこない。バカにしたような苛立つノックが、扉まで太一を笑っているように見せていた。断続的になされるばかりだ。
質の良い木の扉は、いつの間にか打楽器のようにリズミカルなメロディーを奏でていた。
「入ってくださいって」
……ゴンゴンゴン! ゴンゴンゴン!
ついに、扉はキシヨを煽り始めた。子供の悪戯のように何度も揺れる。しまいには、キシヨの視線の先の写真たてまで振動で床に落ちてしまった。悪ふざけに思い出を踏みにじられたようで、腹の底からマグマが吹き出るようだ。
「なんの真似だ!」
ついに苛立ったキシヨは扉の前を確認しに行った。力任せに扉を開けたのだが、そこには誰もいない。建物のシックな作りの廊下と、紫のカーペットがあるばかりだ。
「一体誰が……」
「ハッピバースデイ、キシヨ」
布巾すら届かないキシヨに、お祝いが届いた。
突然、誰もいないはずの後ろから声がした。心臓が警告を鳴らし、脳内物質の濃度を変える。
慌てて振り帰る。スーツは硬くて動きにくい、黒に植物が描かれたおしゃれなものは、くすぶっていた時間に比例して硬くなっている。
前を向いていたはずの大きな椅子が、後ろを向いて、傲慢にもこちら側に踏ん反り返っていた。その向こうには窓が、カーテンが開かれ、太陽の光が差し込んでいる。
誰かが座っているということだ。
「何者だ!」
キシヨが警戒して、右手をさっと後ろへ回す。戦場を経験した彼の後ろをそっと回って、椅子を回転させて踏ん反り返るのは、至難の技ではない。
ありえないその芸当は、夢や幻でも体感したことのない。もし太一が主人公じゃなかったら、後ろから斬り殺されて人生の終わりを迎えていた。
しかし、そこと違うのがエクレツェア。人は走って飛んでキックして、未知の体験を砕いていくのだ。
キシヨはストーリーに従って戦場のように駆け寄ろうと、一歩踏みだした、その時だ。
「……動くな。合言葉を言え」
「合言葉? 一体何を……」
急な暗号、止まる状況。珍妙な問答は不思議の国を思わせる。
キシヨは未だ付けていた、腕時計のような兵器に触れる。右手首の『フィガー』だ。冷たく、重厚な白い時計。つまらぬ問答くらいは簡単に殺せる代物だ。
不審者とあれば、容赦はしないつもりだった。
だが、そんなことを思っていると、椅子の後ろから右腕がひょっこり顔を出す。それが奇妙な姿で。腕は、質量と密度を感じる、黒い装飾が幾つも付いており、デザインがうるさいことこの上ない姿だ。
しかし、自分の見てくれも気にしないで遠慮せず右手を上に向けた。何かを鷲掴みにする。金庫を開けるように時計回りにひねってみせる。
瞬間、キシヨの右腕が後ろに引き寄せられた。関節技が決まってしまう。
突然の事態に慌てふためいた。これでは『フィガー』が使えない。
「アガァ……何をする!」
「合言葉だ。それを言えなければ、お前をエクレツェアに連れて行くことはできない」
「エクレツェア……!?」
『エクレツェア』を知っている人間を今までお目にかかったことがない、心の底を覗かれた気分だ。それだけに限らず、この男の存在はただ椅子に座っているだけで、そのオーラが周りの机やクローゼットを押しつぶしそうだ。
黒い装飾この上ないほどうるさい彼は、椅子の後ろでこうつぶやいた。
「10秒だ。時間をやる、答えろ」
すると、10、9、8、と迫るようにカウントが始まる。待つ様子は一切ない。片手で五つずつ数えるつもりだ、手の指を一つずつ曲げて数える。
キシヨは慌てて呼び止めた。左手を伸ばしたが、硬いスーツはそれを軽く邪魔してみえる。舌打ちをしてしまった。
「ちぃ、まてって!」
しかし、7、6、と無情にカウントは進む。冷血な声にキシヨも瞠目し始めた。彼はここでチャンスを逃してはいけないと、ともあれ言葉を発する。たった今まで考えていたことを言った。
「え、エクレツェア!」
「ちがう」
キシヨはまた舌打ちをした。空いている方の手を床について、エクレツェアについての情報を探る。太一が言っていたことを思い出すため、目をつむっていた。
「5〜、4〜」
椅子の後ろの手は5秒のカウントを指で始めた。軽んじたように指を振り始める。黒い装飾は相変わらず揺れていた。集中を邪魔するのが目的らしい。
キシヨもこうなれば数だと適当に言い放った。
「異世界!」
「ちがう」
「エクレツェアの民!」
「ちがう」
「エクレツェアの戦士!」
「ちがう!」
「お前のかーちゃん、『エークレツェアー』!」
なんだその悪口は。
「ちがう」
椅子の後ろの手が指を一本だけ立てて、挑発するように大きく揺れた。ピタリと言葉の応酬が止まる。時間まで様子を見たように構えていた。
窓からの光が指にかかり、デスクの上にそっと影ができる。
黒い装飾この上ない装飾。指にまで絡まったツタのようなそれは、ひらひらとなぜか浮いていた。
「いーち!」
キシヨは目の前の大切なチャンスを逃したくなかった。何か大切な手がかりがあるのかもしれない。追い詰められて思わず叫ぶ。言っても意味のないと思っていたあの名前だ。
「太一!」
そう叫んでしまった。こんな時に太一の名を出すのは間違っている、そう思っていた。だが、案外言ってみるものだと知ることになる。
同時に、男が指を振るのをやめる。今度は、パチンと指をならした。
部屋樹のガラスが揺れる。指で弾いたように勝つんと響いいて、振動した。
「では、俺の名前は?」
「太一か?」
「ちがう」
「え……」
椅子に座っている男は指を傾けた。困ったように自分の頭を椅子の向こうで書いた。そして、トイレから帰ったように戻ってくる。
「……さて、問題です。お前の親友はどんな人間に憧れていたでしょうか?」
「……いや、ありえない。あんなのはただの妄想かと……」
「言うてみそ」
椅子の後ろから指で呼びかけて、キシヨの関節技を解くその声は、優しかった。先ほどまで存在自体が空間を掌握して見る者すべての油断を許さなかったのに、不意にほがらかな花畑が広がった気分だ。
キシヨは少し戸惑ったあと、ゆっくりと、
「詠嘆のエクレツェア……」
「せいかーい!」
詠嘆のエクレツェアは、歓喜の声をあげて椅子を回転させた。腕だけ見せていた姿を全て晒して、両手を挙げて喜ぶ。
姿はやはり、黒の装飾がうるさいことこの上ない格好。後ろには黒のマントを羽織っている。短く刈り上げた短髪。分厚いメガネの姿。
キシヨにはどこかで見たことがあった。
勢いのまま、机の書類の上に両肘をついて手を温めるように、顔を近づけると、もう一度だけ。
「正解だ」
そう告げた。
緊張が解けたように話し始める詠嘆のエクレツェア。懐かしそうな、今まで会いたかったような、そんな親しい表情をしている。嬉しそうに口を開いて、ニコニコし始めた。
反対に、キシヨは怒りをあらわにする。拳を握りしめて、片膝をついていた。
「なんの真似だ!」
「久しぶだな、キ〜シヨちゃーん」
「——っお前は誰だ! なんの真似だと聞いているんだ!」
「怒るなよ。今日はお前の誕生日なんだから、今はとりあえず祝おうぜ」
所々におふざけの混じったそのセリフは、キシヨをイラだてるのに十分だった。キシヨはあっさり右手の『フィガー』に触れ、立ち直す。足を踏ん張ると、臨戦態勢に入った。
フィガーは光沢のある白、精巧な腕時計のようである。しかし、文字盤はなく、開けば思い出の写真が入れられるロケットのようなものだった。
「フィガー・オメガブースト」
室内に風が巻き起こる。キシヨの髪の毛が上に吹き上がる。スーツの裾からも風が入り込んで、少し膨らんでいた。
詠嘆のエクレツェアはボケーっとしながら、その風を顔面で浴びる。単発の黒髪は今日千円の床屋で短く切っただけ、セットをしてない分全く気にするそぶりがない。
一方、キシヨのフィガーはさらに輝いていた。しかも、光の粒子を生み出して、キシヨの背中に集まっている。いつの間にか、飛行機の翼のような形をかたどっていた。
光は部屋を覆い、詠嘆のエクレツェアの顔に降り注ぐ。黒い装飾の割にはツヤっとした白い肌がうまい具合に引き立った。
だが、詠嘆のエクレツェアは指を一つ立てると、こう言った。
「攻撃してもいいけど、そのかわりこの建物ぶっ壊すからな?」
「えっ! いや、でもそっちが先じゃ……」
「へー、誕生日祝いに来た人間をぶちのめすんだ〜。へ〜、極東って野蛮なんだなあ」
「わ、わかったよ!! やめればいいんだろ」
キシヨはフィガーに左手を添える。輝いていた光は、野菜強い色に変わり、ゆっくりと元のロケットに戻った。
詠嘆のエクレツェアは、指をさしたまま、同じ左手で頬つえをついてつまらなそうにしている。フィガーがを使って戦っているキシヨに不満げだ。
「あのさ〜、いきなり武器使うのってずるくないか?」
「え、なにを言ってるんだ」
「だってさ〜、そういうのってもっと広範にがっつり使うものだろ。いきなり手の内をさらけ出すような真似していいのかね?」
「さっきから何の話だ。そもそも、お前がこの書斎に無理矢理入ってこなければ、俺もこんなことしなくて済んだんだろう。何者なんだいったい」
詠嘆のエクレツェアは自分の胸を触り始めた。次に脇を、さらに腰、膝、また戻って胸。何かいやらしく順にタッチしていった。
キシヨはそっと下がってじっとりした目を向けている。腰を引くして、手を前に出していた。警戒の言葉を口にする。
「なに自分の乳首を触ってるんだ」
「アホか、あったわ。これだ」
詠嘆のエクレツェアは黒い装飾の付いた指二本で、名刺程度のサイズをしたカードを投げ飛ばした。回転しながら弧を描き、キシヨの指二本に挟まった。
「なんだこれ」
カードにはバースデーカードと金色の文字で書かれている。赤い髪に金色のフチが付いている。どうやら、開閉ができて中にメッセージが書いてあるようだ。金色の厳かな文字に銀色のラメが輝いていた。
開いて中を読み上げる。
「えー、あなたは主人公になってから1回目の誕生日を迎えました。それにつきまして、あなたにはこの世界の調整費用、キャクティング費用、スタッフの人件費、さらにその期間に宴会の料金の請求をさせていただくことになりました」
「うん」
「へー……うん? どういうこと?」
「そういうこと」
詠嘆のエクレツェアが首をかしげいている。キシヨも釣られるように首をかしげた。ただ、キシヨの頭にはハテナが浮かんでいるが、詠嘆のエクレツェアは内容を理解している。
キシヨがにっこり笑うと、詠嘆のエクレツェアもにっこり笑った。鏡のように互いの表情を真似してみせる。
「なにこれ、バースデーカード?」
「いいや、請求書」
「ごめん、意味わからないわ」
詠嘆のエクレツェアは急に背もたれにどっしりと構える。両手を頭の後ろで組んで大きくのけぞった。
「まあー、どうせ払ってもらうからどうでもいいけどー」
「いいや! 納得しないぞ全然!! こんな意味わからないことを言うためにわざわざ書斎に無理矢理上がりこんだっていうのか?」
「やっぱりさー、払っちまったもんはしょうがないんだよねー。こうなった君にも責任はあるしさー」
「払っちまった? いったい何の話をしているんだ! そもそも、一行目の主人公になって一年目っていうのがまず理解できてないだろ!!」
「ふーん、やだねぇ、自覚がないのかい」
詠嘆のエクレツェアはつまらなそうにしゃくれた。椅子を左右にフリフリしながらまだ暇そうにくつろいでいる。
キシヨはそんな姿に呆れて、もう構えることもしない。立ち尽くして、顎で外を指し示す。
「いいから出てけよ、俺の部屋だぞ」
「なにをおっしゃいますやら。窓際の方がまだマシだろこんな場所」
「このぉ……言いたい放題嫌がって! いいから出てけっていってんだろ!?」
キシヨが詠嘆のエクレツェアに歩み寄ってきて、腕の黒い装飾を掴む。外に引っ張り始めた。伸縮性に富んでいるらしい、ゴムのようにびよ〜んと広がって発んと腕に戻った。
「なんでそんなタイツを着てるんだよ」
「タイツ? 違う、アイデンティティーだ」
「いいから出てけよ」
キシヨはまた詠嘆のエクレツェアの装飾を引っ張った。それは、引っ張る力に比例して長く伸びる。話すとまたパツンッと戻るので、今度は肩を引っ張る。それでもまたパツンッと戻った。
「ははは、無駄だ無駄無駄」
「いいだろう、ならこっちにも手があるぞ」
キシヨは詠嘆のエクレツェアの懐に入り込む。キシヨ自身も、急に現れた人物の懐に入り込むのは抵抗があったが、こうもおちょくられては黙ってられないのだろう。
慎重に詠嘆のエクレツェアの両胸を触る。
「まさか、お前にこんな趣味があったとは……」
「いいだろう、そう言ってられるのも今のうちだぞ。ほーら、前の乳首をみーつっけた!!」
「アハァ!!」
キシヨはそのまま詠嘆のエクレツェアの両乳首をひねり始めた。ぎゃーっと叫ぶ声が聞こえるものの、キシヨはそんな詠嘆のエクレツェアをしたり顔で笑って見ていた。
詠嘆のエクレツェアは爆笑しながらキシヨの肩をタップする。黒い装飾がシャンと揺れた。
「ちょ! タンマ! ストップ!! いやっはっはっは!!」
「ほーら、お前の両乳首が惜しければこのまま帰るんだな。ほらあ!」
「アチョ! なぜ服の上から乳首を見つけられる! そんな技術どこで手に入れた!? 俺はそんな小説書いてないぞ!!」
「あぁ? 聞こえねぇなあ、ほーらよ!!」
「ちょっとまじやばあああああああ!!」
なんだこの絵図らは。
誰が好き好んで男が乳首をつねられている風景を自分の書斎から盗み見るようなことをしなくてはならないのかさね。
ぷるるるるるる、ぷるるるるるる
え……また僕の書斎の電話が鳴ったさね。こうなると、先日の戦いを思い出す。またあの女が連絡をよこしたようにしか思えない。
——マルコさん、連絡です——
うるさっ! 僕はおもわず耳を塞いだ。だが、彼女たちの連絡方法は先日行った通り、鼓膜を直接揺らすものなのだ。魔法でやっているため、耳を塞いでも仕方のない話である。
いったい何のようなのさね?
——詠嘆のエクレツェアの分身がいったいやられました——
なに? いつ分身していた? なんのために?
——対処をお願いします——
ちょっと待つさね、今こっちも忙しいのに。
そもそもだ、この詠嘆のアホが乳首つねられてるからそうなるんさね。
君ぃ、キシヨを勧誘しに来たんだろ? さっさと本題に入るさねよ。君が描いた物語なら、どうにでもなるだろう。
「そんなことより助けてください」
たくぅ、仕方ない。
キシヨは途端に飽きたようで、詠嘆のエクレツェアの乳首から両手を離した。また黒い装飾がパツンッと引っ張られて元に戻る。詠嘆のエクレツェアは自分の乳首がヒリヒリしているのか、大事そうにさすってやった。
「これで堪忍したか。早く出てけ」
「おりゃー! 隙アリィ!!」
「ぎゃあああああああ乳首があああ!!」
バカにしているのか!?
助けてやっただろう今!!
なんでまたお前から乳首合戦を仕掛けるのさね!?
そんなに物語を進めたくないのかい!?
——分身がやられました——
また!?
詠嘆のエクレツェアの右腕をキシヨがつかんだ。腕はキシヨのスーツの上から乳首を見事探し当て、硬い生地ごとつまんでひねっていた。握力は相当で、詠嘆のエクレツェアの指先が白くなるほどだった。
キシヨは腕を持って捻らないよう固定する。詠嘆のエクレツェアに密着して自分の力も込めた。
互いの顔が鼻先まで近づく。
「どうした、さっきまでの威勢はどこに行ったんだ?」
「あだだだだだだ、まじ取れるって! なんでスーツの上から乳首の場所がわかるんだよ!!」
「なにを言っている。お前にできて、俺に出来ぬことなどあんまりない!!」
なんの名言だ。
「いいか? お前は俺の元で請求額を稼ぐんだ。そして、強くなれ! そして、異世界最強になれ!!」
「そんなこといってる場合じゃあああああああ!!」
キシヨは痛みの最中、詠嘆のエクレツェアに手を伸ばした。また、乳首をつねる。
今度は乳首の取っ組み合いが始まる。互いに一歩も譲らない綱引きだ。激しさのあまり椅子がガタつき、デスクが蹴っ飛ばされる。
鼻先にある互いの顔を睨みつけていた。
「くわあ! またやりやがったこいつ!! それ以上全力でやったら本当にボロって取れるだろうらあああ!」
「うあああ! お前こそまじで取れるからやめろやああああ!!」
「ぬはああ! どっちが先に取れるかチキンレースああああああああ!」
——分身がまたやられました——
いい加減にするさねよ!!
詠嘆のエクレツェアは急に手を離した。キシヨもつられて手を離す。違いは激痛のあまりに同時に乳首をつねるのをやめた。
だが、詠嘆のエクレツェアはのけぞるように椅子にもたれながら、キシヨを足裏で蹴っ飛ばしてしまった。
キシヨは腹を蹴られて、背中から壁に激突する。クリーム色の壁が砕け、キシヨの体が隣の部屋に飛び込んだ。
壁には断熱材や粘土が使用されており、あたりには土臭い埃が充満してしまった。
「けほ、けほ! やりすぎだろお前、いったぁ」
「はぁ、久しぶりに全力で蹴った」
「でもいま、なんか勝手に体を動かされたような気がするんだけど……」
「奇遇だな、俺もだ」
僕が語れば海も割れるさねよ。
——マルコさん、結構緊急事態なんですが。お願いできないでしょうか?——
ああ、もう少し待ってくれさね。10分後に掛け直す。
詠嘆のエクレツェアの黒い装飾の姿は椅子にだらけており、キシヨも隣に部屋の赤い絨毯の上に倒れこんだ。
隣の部屋は大理石の長机と椅子が置かれており、役員が外交などの時に料理人を招き食事をする部屋だった。
キシヨは自分の土ぼこりにまみれた姿を見て、穴の開いた壁を見やる。修繕の費用が頭によぎった。
笑顔を引きつらせながら、キシヨは詠嘆のエクレツェアの前に立つ。
「こらぁ、お前。ここは下関のお役所だぞ!? そんな建物よくもこんなに大胆なぶっ壊し方してくれたな!? 全部弁償してもらうぞ!?」
「なにを言ってらっしゃいますやら。壁に穴が空いたのは、どう見てもお前が壁に意図的なヒップドロップをしたせいですよね?」
「んなわけあるか!!」
「まー、直す必要があるなら『リプレイ』でなんとか直しておくよ。そんなことりよ、本題に入ろうか」
詠嘆のエクレツェアは椅子にだらけたまま足を組んだ。その足も黒い装飾がたくさんついていて、鎖の形をしたそれが静電気を受けたようにふわふわ浮いている。
「要するに、俺はお前にエクレツェアに来て欲しいというわけだ。お前はこの世界の主人公だから、強さは確かだし、異世界での活躍も俺が保証する。だから、俺と一緒に来い」
「は? エクレツェアって本当にあるのかよ……」
「あるよ、俺が作った世界だからな」
だらけてのけぞったまま、眼線だけを下に降ろして、キシヨを見下した。視線は固く、鋭い。冷たく、光線のようだった。
キシヨの姿をつぶさに観察している。極東のユニフォームである蔦と波の模様のスーツ。銀色の模様はどのような塗料なのか、黒の記事は何層構造なのか。はたまた、彼に付きまとうイレギュラーとは一体なんなのか。
「だけど、そんな急に言われても困るぞ」
「お前が行きたいって言ったから、わざわざ来てやったんだろう。というか、行きたいって言ったからもう断るの無しな」
「理不尽だそれは!」
「理不尽なのは職場の方だろうが……こんな部屋で一人全く別の仕事、国を動かす権利も肩書きしかない。窓際でももうちょっと楽しくやってるぞ〜い」
「言い過ぎだろお前……何がわかるんだ」
「全部だ」
見透かしたような目。実は、あんまり何でもかんでも見抜くというわけではない。ただ、この視線は格好のつくもので、もしかしたらこの視線だけで異世界最強と言われているのかもしれないのだ。
要は、口だけのカス。
「それは失礼」
誠に遺憾である。
詠嘆のエクレツェアは斜め上を指差した。僕に抗議しているのだろうが、それはただただキシヨはうろたえさせた。
キシヨはまた手を前に腰を引いて警戒態勢だ。顎で視線をそらせるよう訴えると、怪訝そうな顔をした。
突然現れた人間が、本来ありえない語り部と会話を交わすなど、未来人が未来から来ましたと言っているようなものだ。
そうこうしているうちに、キシヨは隣の部屋の金色で赤いクッションの椅子を引っ張り出してきた。詠嘆のエクレツェアの前に座って、対等な頭の高さになる。
さて、どうしたものか……僕が直接話かてけもいいのだが、もうそうなると詠嘆のこいつがきた意味の半分以上がなくなってしまうのではないだろうか。
そうなると、先日にグレンシアとあれほど大騒ぎしたことも無下に……そういうのが一番きついのだ、こういう仕事は。
とは言ってもどこから説明したものか。
『リプレイ』というのは、物語の戦いを再現したり、会話を再現したり。つまり、リハーサルのようなものだ。となると自然に何度も同じシーンの記憶を別人で体験していることになる。
さらに、それ事態がキシヨに干渉していないため、急に教えても戸惑うだけだろう。
我々、エクレツェアの人間が異世界人だと正体を明かすマニュアルというものがある。そこにも、急に『リプレイ』について明かさないというものがある……
「なんのことだかさっぱりわからないな。その、リプレイ? 別にいいから教えてくれよ」
えっ? ちょっと待って、いまなんて言ったさね?
「リプレイとは、世界を調整するための作業さ。物語がちゃんと成立するかどうか、何度も試すためにな」
「ありえないだろ、それじゃ何度もこの世界を繰り返しているってことになっちまう……だから同じシーンが別人に置き換えられるっていうわけか」
ちょっと待って、ナチュラルに僕の声が聞こえてるさねよね?
「詳しくはそうじゃない。だが、そいう思われても仕方のないことだ。まあ、いまは請求書のことはどうでもいい。久しぶりに会えたんだから、呑気に祝おうや」
「は? 俺はお前とあった覚えはねぇよ」
俺を教えた覚えもねぇよ。
詠嘆のエクレツェアはキシヨのデスクの棚を開いた。観音開きの木の棚には、古い時代のウォッカが入っていた。
スポイトのような独特なシルエットの瓶に、茶色い液体がなみなみと注がれている。コルクの頭が黒くなった年代物だ。
詠嘆のエクレツェアが大きなそれを右手で引っ張り出した。茶色デスクにガタンと置いて、次にはコルク抜きを探し始めた。
人のデスクにかがみこんで物色する彼に、キシヨは立ち上がる。
「なんでそんなものの場所を知ってる!?」
うん、でもその前に僕の質問に答えてくれないかな?
「だから言ったろ、久しぶりに会えたと。その時に聞いた、お前はこの古いウォッカを太一とゆっくり飲むのが夢だとな」
なぜいつもは進まない話がこんなにすらすら進むんだ。
「俺は知らないぞ!」
僕のことは知ってるのに?
「リプレイの影響だろうな」
蚊帳の外過ぎひん?(大阪弁)
なんということだ……この世界に、しかも異世界人ではないのにもかかわらず、語り部のこを聞くことができる人間がいるだとさね?
ありえないさね。
僕は、それこそ聞こえてはいけない声だ。聞こえてしまったら、それだけで人間の人生が大きく歯車を狂わせてしまうだろう。それをなんだ? こうもあっさり受け流すなんて……まさか、いままで全部聞こえていたのに、全部スルーしてきたっていうのか?
僕は何度も自分の部屋でモニターを前に首を振った。それができたとして、僕にばれないはずがないだろう。いったいどうなっている……
これは由々しき事態であるさね。
詠嘆のエクレツェアは人差し指を立てた。首元のペンデュラムのような小さな怒りも右だけふわふわ浮き上がった。
「その通りだ。だから乳首をつねった」
それは多分嘘。
「ほんとだ、さっき聞いていたろ? 勝手に操作されたみたいだったって。つまり、お前の声は本当の意味で聞こえてるわけじゃない、ただ無意識には聞こえているんだろう」
キシヨは斜め雨を見てうんと頷いた。
「ああ、その通りだ」
多分それも嘘。聞こえてないのに僕のモニターの位置がわかるわけないだろう。どうなっている?
”教えてあげようか?”
ごめん、今のでわかってしまった。君が干渉しているのか。
では、もう今回の勧誘に常識を持ち込まないことにするさね。
僕は僕の仕事をさせてもらう。作戦通りね。
さて、本気出すさね。
外は風が吹いた。強く吹き抜け、窓を叩く。空がしっとりと濡れているようで、水滴がポツリと窓に滴った。
空が曇りで、この建物の上空を覆っている。灰色の雲はこの国にしては分厚く大きかった。
下関のこの役所は神聖なレンガと木材を組み合わせたものだ。濃ゆい紺色のブロックを黒い木材で支えていた。
三角の屋根で、建物一番高い場所には、銀色をした大時計が飾られている。曇りと水滴の中、少し濡れた銀色の短針が2の数字を指し示した。
コーンと大きな音がなる。これが作戦開始の合図だった。
我々の作戦はこうだ。
極東の国の新たなシンボル、マリを誘拐する。そうなれば、キシヨは戦いに出ていかざる得ない。そこで、僕たちが依頼した異世界の実力者たちの出番さね。異世界人と交わる中で、キシヨを勧誘するのだ。
すでに、運び屋のトーやという人物が待機している。彼はものや人を運ぶ仕事をしているためか、こういう仕事にはとてもむいている。
ほら、今時計台の上にも、彼の僕が降り立った。真っ白で石膏のようなモンスター、ガーゴイルだ。このガーゴイルというのは、先ほどグレンシアと戦ったときに出てきたモンスターで間違いない。
トーやはそのガーゴイルを操ることにも長けていた。
さて、もう詠嘆のエクレツェアにキシヨを誘い出すことを期待知るのはよすとしよう。
そうなれば、僕が勝手に誘い出すシチュエーションを作ればいいだけなのだ。
次の展開まであと1分。
キシヨの書斎では、まだ二人が対峙していた。詠嘆のエクレツェアは黒い装飾の姿でまだくつろいでいる。キシヨは椅子の上で、彼をじっと見つめていた。
「どうした? まだ聞きたいことがあるか?」
「ああ、いっぱいだ。逆になんで聞きたいことがないと思ったのか不思議だな」
「いいだろう、なんでも教えてやる」
なんでも教えていいわけないさねよ。
ネタバレっていう言葉を知らないのか。
キシヨは指を立てる。三本差し出して、三つのことを訪ねた。
「聞きたいことは三つだ。俺が主人公ってどういう意味だ? エクレツェアってなんだ? 太一とお前はどういう関係なんだ?」
詠嘆のエクレツェアは珍しくため息をついた。僕の知る限り、僕の見る前でため息をつく彼の姿をほとんど知らない。黒い装飾で着飾った胸が大きく膨らんで、ゆっくりと息を吐いた。
「まず一つ目、主人公っていうのは、間違いなくお前のことだ。さらに、主人公になって一年っていうのも、全くもって間違いではない。お前が一年前に主人公になった、それだけの話さ」
「一年前?」
キシヨは一年前を思い出していた。
極東のドーム、チェック柄で大きな建物の中で、太一の慰霊碑に手を合わせていた。ドーフとマリが言い争っていたのをまだ鮮明に覚えていたのだ。
ドームの前、極東の広場でマリは高いお立ち台の上に立った。光が強い中、平和の先生をしていたのも覚えている。光り輝く空を下から眺めると、マリに後光が差しているようだった。
白い服に華やかな光は、まるで天女である。
なるほど、僕は当初『主人公になって一年目』というセリフはただのギャグかなんかだと思い込んでいた。しかし、おそらく僕が太一をキシヨとして語り始めたのが一年前。つまり、その時点から見て一年経ったということなのだろう。
となると、詠嘆のエクレツェアもこの世界のイレギュラーについて考えた上で、解決のきっかけを用意したということだろう。
「二つ目、エクレツェアは俺の作った異世界だ。異世界と異世界をつなぐ中継点兼終着点、第1・5世界の連盟世界だ」
「連盟? 連盟国みたいなもんか?」
「オフコースぅ。異世界と異世界で同盟を組んでいる。その結果、エクレツェアは他に類を見ないほど強くなっている」
エクレツェア、僕のいる場所はエクレツェアとは少し外れた場所なのだが、ここより人が多いというのは間違いない。
異世界が交わっているというだけあり、いろいろな文化が各自都市を構えている。
「三つ目、太一のことをお前に教えることはできない」
「は!? なんで?」
「それはエクレツェアに来たら教えてやるよ」
うーん、太一……それは実はこのキシヨのことである。それはすでに語らったことであるも、やはり彼自身に気づいてもらわなければ意味がないのだろう。
たとえ、無意識で僕の今の語らいが聞こえていたとしても、素っ頓狂な顔を見る限り意味は成していない。
「まあ、主人公なら、おのずとわかることだ」
「しゅ、主人公……」
その主人公。これだけは、キシヨにとってふたつの意味がわからなかった。
まず、自分が主人公であるという意味がわからなかったのだ。確かに、今まで普通の人間にできない経験をしてきた。だが、だからと言って自分が主人公であることには、全く納得が行かなかった。
何より、主人公が特殊な経験をしている人間でなければならないのだとしたら。それは、キシヨ自身一番軽蔑している存在だからだ。
二つ目が前の主人公。今まであってきた人間の中に主人公がいたとは、キシヨには思えなかった。
もし、今の自分が主人公なのだとしても、自分ほど頼りにされていない人間も少ないだろうと思ってしまった。反対に、グレンシアと戦っていたときほど頼りになる人間も、なかなかいないと思っていた。
「あ……」
だが、キシヨには悩むまでもなく、あっという間に理解できてしまう。答えがわかってしまったのだ。
なぜ自分が主人公なのか。いったい誰が前の主人公なのか。それは、今まで会ってきた人間の中の最も主人公であってもおかしくない親友のことを考えると、おのずとわかった。
「太一だ、あいつなら主人公も務まるだろうよ。それに、死に際に俺を主人公に指名したとなれば、話は見えてくる」
「なーんだ。結構推測力はあるんだな」
詠嘆のエクレツェアはつまらなそうにしていた。口をへの字に曲げている。まるで、もう少し話したかったのようである。
「いいや、そうなるように決まってんだから。これもまた巡り合わせだ」
キシヨはなぜか彼を感心した目で見ていた。巡り合わせという言葉を使う人間がこの世にいたということに驚いてもいたのだ。
彼にとって、太一との約束はもはや巡り合わせでもある。自分と似ているとおもって、詠嘆のエクレツェアに親近感が湧く。
だが、そうなると話さなければならないことがあるのだ。
キシヨは両手を広げた。肩の高さで上に手のひらを向けると、理不尽だと鼻息を強く放つ。
「だがよ〜、俺は借金なんて知らないぜ? 任意で任された訳でもないし、払う義務もない。めちゃくちゃ不当だよなそれ?」
「あら、気ぃついちまった? それ」
詠嘆のエクレツェアは片肘をデスクについて、頬づえをしていた。にっこり笑う。右手を広げて大きな声を出す。
「しかぁーし、それが通用せんのがこの俺様よ。借金回収率130パーセント。エクレツェアの金貸しといえば俺のことだあ!」
彼はそんな職業ではありません。
キシヨは苦汁を食べたよう唇を閉めた。チンピラに絡まれたように、迷惑そうだ。
「どうしても欲しいんだな、じゃあその1000エアってのはこの国でいくらだ? 今払っとくよ」
詠嘆のエクレツェアはキシヨの提案に目を丸めた。小鼻を軽く膨らませ、視線の上を眺め始める。試しに値段を言ってみようと、空で計算をざっと見積もり、視線を戻して金額を告げた。
「1000万くらいかな?」
「はぁ? 1000万? 俺はこう見えても公務員だぞ? そんな大金払える訳ないだろ!」
「むーー……」
詠嘆のエクレツェアはほっぺを膨らませて少し怒っていた。もう少し面白いことを言ってくれると予想していたみたいだ。ならなんで聞いたんだと心のどこかで呟いている
(ふぅ、カレーパンの季節だな)
カレーパンというのは『ならなんで聞いたんだ』という意味である。
「いや、そんな顔されても……わかった。じゃあ定期預金から持ってくるから待ってろ。今すぐだ、時間はかけさせない!」
預金に1000万も入ってんのかお前。ナチュラルにびっくりした。僕の預金にはそりゃもっと入っているけども、一年をすっとばす間に、えらく貯金したものだ。
「むーー……」
しかし、詠嘆のエクレツェアはまだ困った顔をしている。彼はきっとこう呟いているだろう。ならなんで一回否定したんだと。
(晩ご飯はカレーだな……)
晩ご飯はカレーだな、というのは『なんらなんで一回否定したんだ』という意味です。あと、カレーはあとでおごるからいい加減にしろ。
キシヨは苛立っていた。攻略の糸口を見せない詠嘆のエクレツェア、さしずめ難攻不落のラブコメキャラクターといったところか。
僕にも、彼がどのようなことを嬉しがるのか、今のところカレーパンしかわからない。
「何が不服だ、詠嘆のエクレツェア」
詠嘆のエクレツェアは急に部屋を眺める。
建物の外、空にかかっていた雲が大きく割れた。まるで、誰かがかき分けたように、ぱっくりと割れたのだ。
光が伝説のように入ってくる。建物に差し込んで、深い紫色の三角屋根を温め始めた。
部屋は後ろの窓から入ってくる日差しが、壁の風景の油絵と黄色い花の入った花瓶をてらしていた。
ああ、せっかく僕が曇り空のステージを用意したのに。気に食わなかったのか、一部晴天状態にされてしまった。ガーゴイルも自分についていた白露が乾いたのに気づいていた。
すると、詠嘆のエクレツェアは急にうっとりし始める。
「……ああ、ほのかな太陽と部屋のカーペットの匂い。こういう匂いを嗅いでいると、懐かしの記憶が蘇る」
瞼をゆっくり閉じた。鼻の中いっぱいに、太陽光を受けた絨毯の匂いを嗅ぐ。夏の朝のような部屋が心地よかった。
「……あのなぁ、そういう問題じゃないんだよ。お前はエクレツェアに行きたいんだろ? ならよ、お前の言うことは借金がどうのこうのじゃなくてさ、『俺をエクレツェアに連れてってくれ』だろ? 違うか?」
「う……」
キシヨは思わず息を飲む。喉仏を動かして、実感した。彼の言っていることが、自分の本質に触れているということを。
一方、詠嘆のエクレツェアは、唇の前で右の親指の爪を舌でこすると、とてつもない深さの集中に入った。彼の集中法の一つだ。
「お前、以外と冷静だな。何が言いたいかっていうと、自分にとって一番大切なことを放って、経済的な問題を先に解決しようとした。それはかなりさすがと言わざるおえないが、おまえら人間は愚かだなあ。いったい誰に似たんだか……」
そう、キシヨにとって大切なのはエクレツェアに行きたいかどうかだ。その真意をキシヨはまだ理解できていない。
「なら教えてくれよ。太一は……あいつは、エクレツェアの人間なのか?」
「じゃあ、お前。エクレツェアに来い。そうすればわかるさ」
「……それはできない」
「なぜだ?」
”きみ、ナニをはぐらかしているんだい?”
キシヨは誰かに尋ねられたが全く気にしなかった。
「何でって……わかるだろ? 俺には仕事がある。仕事を任せては行けない」
「やめようと思っていた仕事をか?」
「う……」
キシヨは言葉を濁す。やるせない思いを片手に、その言葉が図星であることを同時に直感した。
”おいおい、言葉を濁している場合じゃないだろう!”
見かねた詠嘆のエクレツェアは、両手をグンッと胸を広げて言った。羽ばたく前の人類のように、背中いっぱいに光を浴びた。
「いいじゃねぇか。もうこの国は不自由な国ではないんだ。国の民は、やりたい仕事を目指すことができるはず。そして、それは住居にても同じ。お前が政府の仕事を辞めたって、いくらでも代わりがいるってもんだよ。世の中にお前がいなくたって世の中はへとも思いやがらねぇぞ? それならさ、自分のやりたいことやってもいいんじゃないか?」
キシヨの心が言葉に打たれる。よくよく考えてみれば、戦っていた時に自分がいなくなれば、簡単に敗北していたかもしれない。
あの時は、自分が重要な歯車だったのだ。
”キシヨ! 僕たちは一緒に極東を守るって決めたよね!?”
”はぐらかされちゃいけない!”
だが、今やキシヨは重要な歯車ではなくなっていた。もうこの世界では、彼を必要としている人間がいない、そう思うしかなかった。
”だが、それでも君がエクレツェアに行く理由にはならない!”
さあ、今こそ、新たな旅立ちの日なのだ。
「俺はリーダーだぞ! そんな無責任なことができるか!!」
物語通りじゃないねぇ。ここで頷くはずなのに。思いっきり断られたさね、ちょっと冷や汗出てきたさね。
太一の声は彼に厳しく。自由な決断など一切を否定するようだった。キシヨの罪悪感がそう言わせているのか。はたまた『過去のあの事件』が精神に何かをもたらしたのかはまだ判断しかねるがね。
怒ったキシヨの両手は行儀が悪く。気がつけば机を右手で叩いて、詠嘆のエクレツェアに怒鳴りつけていた。
自分がこんなに気の短い男だとは思いもみなかった。数秒後に困惑する。驚いて目の前から視線を外した。一気に罪悪感に見舞われる。
だが、それにひるむ様子もなく、詠嘆のエクレツェアは冷静に伝える。
「なら、なんでお前はエクレツェアに行きたいなんてことを言ったんだろうな?」
結局図星なのである。
”貴様ら大概にしろよ!”
少し黙ってろ。
今のキシヨは自分のやりたいこととは違った世界で生きていたのだ。それくらい、とうの昔からわかっていたことだ。それを邪魔しようというのなら、今すぐ貴様を葬り去るさねよ……あぁ!? 聞いてんのかコラあ!!
……詠嘆のエクレツェアはまるで昔の自分を見たように深く息を吐く。過去の自分ならどうしていただろうか、そんな空想に想いを馳せて苦笑った。
詠嘆のエクレツェアは仕方なさそうに一言だけ言ってやる。
「ま、好きにすればいい。お前のやりたいことをやればいいんだよ。この仕事を続けたければ続ければいいし、やめたければやめればいい」
そう言って詠嘆のエクレツェアは、体をスイングさせて椅子から立ち上がると、書斎から出ていこうとした。
するとその時、誰かがドタバタと書斎まで走ってくる足音だ。先ほどキシヨ自身が開けた扉から、灰色の作業服を着た人物が飛び込んできた。彼は、グレンシアとの戦いで太一やキシヨと共に戦った戦友だった。
「大変ですっ、隊長! マリ様が攫われました!」
「なっ……!」
キシヨもあまりに突然の出来事に言葉に詰まる。同時に、隊長! この言葉に、キシヨはグレンシアとの戦いを思い出した。まだ、極東が荒れていた時、小さな建物のこの書斎をたった一つの拠点としていたのだ。
ふと、詠嘆のエクレツェアの後ろを見ると窓がある。窓枠に、太一が足を乗せて外を眺めている姿を思い出した。
「隊長!! 本当なんですって!」
汗をかいた部下は、ネクタイを乱したまま、慌て形相で言った。キシヨはすぐに今のことに集中した。
部下が状況を報告する。
「この建物も襲われています!」
「なんだって!」
キシヨはようやく言葉を取り戻した。自分の机の資料をどかせて、机の板を上に開ける。机の液晶画面に建物内部の様子を、映し出す。
『ギガァー!』
キシヨは目を疑がった。そこに映し出されていたのは、白い石膏のような化け物が、場の人間を蹂躙している姿だ。
赤い絨毯の上に、廊下の八割を占めるほどの巨体。足元には、警備員三名が拳銃で応戦しているが、子供と大人ほど違って違っていた。
「バカな……何が起こっている?」
「あー、『ガーゴイル』か」
急にキシヨが振り返る。今、呟いた詠嘆のエクレツェアの胸ぐらの黒い装飾を掴んだ。伸縮性のある首元を手元まで引っ張る。
「何か知っているのか……? 教えろ!」
「おいおい、冷静になれよ。俺は何も関与してないぜ。手ぇ離せ」
キシヨは手を離して、隊員に指示を出た。
「今すぐ駆けつける! それまで防衛体制を取れ!」
「もう防衛体制取っています! ですが化け物に銃弾が効かないんです!」
「なら今すぐ逃げろ! 俺が駆けつけると言っているだろ!」
その時、詠嘆のエクレツェアが失笑した。手を口に添えて、顔をそらしていた。
「フフフフッ」
「——何がおかしい!」
キシヨが笑っている詠嘆のエクレツェアを睨みつける。それでも、詠嘆のエクレツェアは動じず、悠長な顔はふてぶてしいことこの上ない。
もはや、ふてぶてしさの残骸だ。
隊員はそれどころではないと口を開けるも、キシヨの怒りに横槍を入れる勇気はなかった。
詠嘆のエクレツェアは一言。
「駆けつけとる場合かっ」
キシヨは自分の机に、ガシャン、と拳を振り下ろす。
「何が言いたいんだっ!」
すると、詠嘆のエクレツェアは途端に何かを指で捕まえる。それは彼が発想を得た時の合図だ。思いついた作戦を元に、隊員に尋ねた。
「この施設内に『フィガー』を使える人間は何人いる?」
「さ、三人です。隊長を入れれば四人」
「よし、今から俺とキシヨはそのマリって奴を探しに行ってくるから、フィガー使用者をガーゴイルの所に集めておいてくれ。それで十分対処できるだろう」
キシヨは詠嘆のエクレツェアの腕を掴む。自分の前に彼を振り向かせた。
「勝手なことするなよ!」
だが、詠嘆のエクレツェアは、お返しとばかりにキシヨの首根っこを掴んで閉まう。子猫をつかむように、あっさりとキシヨを制圧する。
「いいか? 敵は誘拐が目的だ。それも天皇をお前の手の届かない所まで連れて行く算段だ。だからこそ、この施設を攻撃して誘導した。今すぐ追いかけないと手遅れになるぞ?」
的確な推測にキシヨは頷くしかなく、ゆっくりと視線を落とした。冷静さを取り戻す。
一方、隊員は慌てて、叫んでいた。扉の前で思わずその縁を掴んで、今にも現場へと駆け出しそうだ。
「でもマリ様がどこにいるかわからないですよ!」
「安心しな、俺っちがおしえてやるよ」
詠嘆のエクレツェアは、人差し指を顎に当てて、少し顔を横に振った。ぶりっ子みたいだから今後一切そのような行動をとるのはやめていただきたい。
「それには心当たりがあるんだなー、これが。なにせ『ガーゴイル』はエクレツェアのもの。多分俺が来た穴からこの世界に入ってきたんだろうからな」
「穴……ですか?」
それどころか、僕直々に連れてきたんだけど。
しかし、発言自体は良かった。穴、という具体的な言葉で、キシヨにはエクレツェアへの信憑性が湧いた。
詠嘆のエクレツェアに詰め寄る。口元までキシヨの額が近づいた。
「じゃあそこに連れてってくれ! 今すぐ追いかける!」
詠嘆のエクレツェアは、部屋のクローゼットの前に立つち、当たり前のように扉を開ける。中身の匂いを嗅いで「掃除がされてない」と感想を述べる。そのまま、姑のような小言を始めた。
「クローゼットは掃除しないと、旅の神様に申し訳ないだろう」
「何をしてる、早くしろ」
「知らないのか? クローゼットは旅の扉。異世界では常識だ。行くぞ?」
「ちょ、ああ!」
「世界一埃だらけの旅立ちだ」
すると、詠嘆のエクレツェアはそのまま重力に任せてクローゼットの中へと、キシヨを引きずりこんでしまいました。
声とともに二人はクローゼットの中へと消えてしまいましたとさ。
めでたしめでたし。
その場に隊員だけが残されて、
「一体どうなってるんだ」
部下は言われた通り指示を出しに行った。