無垢
カイトはこの世界で唯一の魔道具職人である。
近代以降も小さいながらもそれなりにいた魔道具職人。だが、彼らは大戦時に己の力の大きさを知り、そして自らの力を恐れた。それ以降、表に挙がることをせずひっそりと暮らしていた彼らは、ゆっくりと歴史の裏で消えていった。魔道具はもうカイトにしか作れない。
カイトは子供の頃に拾われた。拾った彼女は魔道具職人ではなかったが、強大な魔道具を使いこなす人だった。
そしてカイトは、預けられた魔道具職人の老人の元でその技を継いだのだ。
懐かしい記憶。
技を教えてくれた老人は、いつも節くれた手で優しく頭を撫でながら褒めてくれた。
拾ってくれた彼女は、世界中を忙しく動き回りながらも、空いた時間はいつも、子供らしく甘えるカイトの相手をしてくれた。
カイトは2人が大好きだった。
今はもう色褪せてしまい、ただのシミにしか見えない絵を撫でる。ざりざりと削る感触が手に返ってくる。
未来への思いを込め描いた絵。カイトの未来は実際その通りになった。
あの時、カイトは壁に絵を描いていた。浮浪児だった彼は薄汚れた手で、足元の泥と落ちていた石灰を拾い上げる。そうして拾い上げたそれらを近くの壁にこすりつけるようにして何かを描いていた。
墨絵のような濃淡。彼の希望がゆっくりと形になっていった。
こんなものを描いていることが衛兵に気付かれたら怒られるどころではないのだが、ただ今は、何も考えず思うままに手を動かす。彼は、いつも心に描いている景色を、ただただ壁に映していた。
それは突然だった。彼の目の前の壁から、何の前触れもなくするりと女が現れた。
それはあまりに唐突で、非現実的だった。あまりの光景に彼は驚きのまま問いを投げかけた。
「た、だれ!?」
「あれ、失敗?あれ?」
女は目を丸くして棒立ちしている。彼女はカイトの声に反応したのか、暗い裏路地に似合わない明るく涼やかな声を落とした。
女は混乱しているみたいだった。カイトはしげしげと見つめるなか、全くこちらに気も払わず、本来こんなはずではとか、魔法がどうのとか、小さく呟いていた。それらの意味はカイトには理解出来ない遠い世界の話だった。難しい言葉だっただけでなく、まるでおとぎ話のような出来事は、到底理解しがたいことだったのだ。だが、彼女が不思議な事を行う魔法使いなのだとは、信じ切れずともそれとなく感じ取っていた。
カイトは困惑に頭を悩ませる女を見て、『何でも出来るはずの魔法使いでも困るのだなぁ』と思った。何だか少し可笑しかった。
鈴が鳴るのような声を響かせながら、うろうろと歩き回る魔法使いの女を、劇でも鑑賞するように目を細め眺める。
絡んだ思考の整理が終わったのか、立ち止まった女は、そうしてようやくこちらをみた。
「男の子?」
「こんにちは…?」
「こんにちは?」
まるで子供のような挨拶。女はしばらくカイトをじっと見つめていたが、ふと絵に目をやると、壁の絵を指差しながらカイトに尋ねる。
「この絵は君が?」
「うん」
「この絵……もしかしてこの子は魔道具職人……?」
魔道具職人とは何だろうか。名前というやつだろうか。当時、物心ついた時から浮浪児であったカイトは、自分の名前すらしらなかった。
首をかしげるカイトを見て、女が再び悩みだす。
「わからないか。うーん。職人だとしても、こんなとこにいるなんて」
「お姉さんは、魔法使い?」
子供らしい脈絡のない問い。しかしカイトは少し期待を込めその疑問を投げかける。
女がカイトを見た。まるで夜を映したかのような黒い瞳。夜に慣れていたカイトは、それを見てると自然と気持ちが落ち着いた。
ふと、女の顔に鮮やかな笑みが載る。夜を照らす月のような笑顔。女は、濡れたような漆黒の髪を揺らすと、しゃがみ込み、彼の目線を合わせた。
「そうだよ。お姉さんは魔法使い。君は何がしたい?」
「んーとね、ぼくは旅に出たい!」
カイトはそう願う。いつも考えていた。ここではない何処かにいつも憧れていた。だからまだ見ぬ土地の絵を描いた。
「そっかぁ」
女はカイトの頭に手を乗せた。カイトは抵抗もしない。その手は温かかった。
「じゃあ、お姉さんと一緒に来る?」
「うん!」
カイトは即座に頷く。そして花の咲くように、笑った。
それから彼女はカイトにいくつかの質問をした。カイトはそれに素直に答えていった。分からないものもあり、答えに詰まることもあったが、女はカイトが話すのをニコニコしながら待ってくれた。
だから彼も落ち着いて一つ一つ答えていく。
「君は、一人なんだね」
彼女はそう言って小さく眉を下げた。寂しげな笑顔が切なくて、カイトは「でも大丈夫だったよ」と声を上げた。女は「偉いね」を頭を撫でた。
しばらくして、彼女は念のため彼の経歴を辿り血縁を探した。そして、その血筋がカイト以外途絶えていることを知ると、難しい顔をした彼女が彼の頭を慈しむように撫でる。その手はやっぱり、温かかった。
「そういえば君の名前は?」
顔を上げた女が問いかける。
カイトは首を傾げ「わからない」と答えた。
女はそんなカイトを見て、顎に手を当て悩むような素振りを見せた。そうして暫く悩んでいたが、ちらりと壁の絵を見ると一度頷いてからこちらを指差して、「君は絵人!」と高らかに叫んだ。
そのまま彼女はカイトの手を取ると、彼が描いた壁の絵に潜った。
彼女はカイトを、当時魔道具職人の最後の家系であった一人の老人に預けた。
カイトはどうやら魔道具職人の血筋だったらしい。彼女がそう言っていた。
しわくちゃの老人は、カイトを歓迎し、技を伝えてくれた。
カイトは魔道具についてそこですべての技を継承した。
カイトは魔道具職人を知らない。凄惨な過去から自らの力を恐れ疎んだ歴史を知らない。貧しいなかでの小さな暮らししか彼は知らなかった。それが彼のすべてだった。
だからだろうか。カイトが作るものは生活に関連したものが多かった。あると便利なものだが、それ以外に使い道はないようなものばかりだった。
「カイトの創るものには夢がある。きっとカイトのようなものが、一番最初の魔道具職人だったのかもしれんな」
椅子に腰掛けた老人がふと、そう呟く。
3つの手順を取ると小さく熱を発する魔道具を作ったカイトは老人の元に走り寄る。湯たんぽぐらいにしか使えない小さな魔道具を掲げ、自慢げに鼻を鳴らすカイト。本来その魔道具の機能は、簡易な手順で人を焼き尽くすための罠として使用されたものだと、老人知っていた。
カイトはそれを知らない。そのようなことを考えもしない。
過去を恐れ疎んだが、全てを捨てきれなかった愚かな魔道具職人達の歴史。その最後の系譜に連なる老人は、無垢に笑うカイトの頭を大事そうに撫でた。