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*
この世界は何なんだろうか。
いくつか仮説を立てることは出来るが、証明は出来ない。記憶の無い私自身から得られる情報では、私だけが特別である事の説明がつかない。
ずっと考えようとさえしなかった。ユメが居たから世界の答えなんて必要無かった。
でも、今は違う。
知らなくてはいけない。例えそれが、どうしようもなく恐ろしい答えだとしても。
答えを知る為に……ミノリに会おう。私の問いに答えてくれる人は、もうミノリしか残されていない。
*
タワーの入り口はこの惨状の最中において驚くほど綺麗だった。
人の気配こそしないが、同時にどこも壊れていないのだ。何度も地震があったのに窓ガラスにヒビ一つ入っていない。
つまりここは、人も災害も寄せ付けない、言わば神聖にして不可侵の領域なのだろう。管理者たるミノリの居城なのだから当然といえば当然か。
この分なら上階に上がる時はエレベーターが使えそうだ。階段もあったがわざわざそちらを使う意味もないだろう。
一階を一通り見て周り、他に何も無い事を確認してエレベーターに乗り込む。操作パネルを見てみるも、行き先を決めるボタンは二つしかない。今居る一階と、外からも見えた展望施設フロアだ。
展望フロアのボタンを押すと、扉は何のアナウンスも無く静かに閉まる。そして静かに滑らかに上へと動き出した。
エレベーターは内から外が全く見えない造りになっていて、どれくらい昇っているのかわからない。
何となくすぐには到着しないんだろうなという気がして、目を瞑る。考える事は沢山ある。
この世界の事、ミノリの事、タツヤとノゾミの事、ほとんど覚えていない今朝の夢の事、そして私自身の事。
その中のほとんどは、ミノリに聞けば判明するのだろう。その為に私はここに来た。この世界をどうするかはその後だ。
いろいろなものの答えを知らないと判断も出来ない。わからないままにして、どうでもいいでは済ませられない。
覚悟を決めて目を開くと同時にエレベーターも止まり、扉が開いた。
*
一歩踏み出した先のその場所は、展望フロアなどではなかった。
コンピュータールーム。所狭しと電子機器が並べてあるその様子を、そう呼ぶ以外の表現方法を私は知らない。
人が通れる隙間なんて僅かしかない。エレベーターを出てから真っ直ぐ、僅か数メートル分だけ人が辛うじて通れる程度に道が作ってあるのみ。
機器に触れないように慎重に進んでいくも、突き当たりにはディスプレイとスピーカーとマイクの乗った机があるだけだった。
少し悩んだ後、三つ全ての電源を入れてみたが、何も変化は無い。
他に目立つ物は何も無いし、人の姿も見当たらない。二人の話ではここにミノリが居るはずではなかったのか。
「……ミノリ? どこに居るの?」
声に出したその瞬間、眩しさを感じた。
目の前のディスプレイが光を発し、映像を映し出したのだ。
『来たんですね、姉さん』
「ミノリ……」
ディスプレイに映し出された顔は、確かに夢で何度も見たミノリのものだった。
一方でスピーカーから聴こえてくる音声は、明らかに機械を通したものになっていて違和感がある。
「どこに居るの? ここに居ると聞いて来たんだけど」
『ここに居ますよ。この部屋のコンピューター全部が私です』
「……なるほど。という事はこの世界は……電子の世界、仮想空間なわけね」
私はこの世界についていくつかの仮説を立てていた。
その中の一つが、仮想空間、電脳世界、電脳空間、サイバースペースなどと呼ばれるもの。
人の意識だけがデータとして取り込まれた世界。もう一つの現実。『第二の世界』としては割とポピュラーな形だ。
という事は、私やタツヤ、ノゾミのような名前のある『ひと』は以前の世界から意識をデータとして抽出され、ここにいる人間。名前のない『ひと』はこちらの世界で生まれた人形。
そして、それらを統括し管理するのが眼前のコンピューター、ミノリ。そういう事なのか。
『まぁ、この世界をわかりやすく言うとそうなりますね』
「……でも、それだけじゃない。そうでしょう?」
そう、それだけでは説明が付かない事もいくつかある。
私だけが特別で、私だけが以前の世界に戻れると言われた事。私だけ以前の世界の記憶を持っていなかった事。そもそも管理者のミノリより先に私だけがこの世界に居た事。
少なくともこれらはミノリを管理者とした仮想空間という前提の上では説明が付かないはずだ。
「タツヤとノゾミに関する記憶も少しだけ取り戻したわ。その時に少しだけ深い話もした。ミノリ、あなたは全てを語ってはいない」
『……本当に聞きたいんですか?』
「何? 気を遣ってくれてるの?」
『はい。自分の本当の気持ちに気付いてしまった私の、最後の良心です』
「本当の気持ち……?」
『まぁその辺は追々。ともかく、姉さんは私を止めるか、この世界からログアウトするか、そのあたりの選択をしに来たんでしょう? でしたら聞かないほうがいいですよ』
ミノリの考えが分からない。タツヤの言う通りならば、ミノリは私にここへ来て欲しくなかったはずだ。
実際、ミノリはこちらの目的も察している。なのに私を気遣ってくれている。まるでわからない。
「……じゃあ、先に別の事を聞かせて。ミノリの目的は何? この惨事を引き起こした理由は?」
『これは単に世界を作り直そうとしたんですよ。全部壊してニューゲーム。まぁついでに難易度も弄りましたけどね。この世界には姉さんの味方が多すぎました』
「味方……?」
『姉さんはもっと男を恐れていないとおかしいんです。なのに恐れない。以前の世界の記憶を持っていないせいですかね。仕方ないから男達の頭の中にヘイトをばら撒く事にしたんです』
ヘイト、憎しみ。というと昨日のあれの事だろうか。男性社員達がストライキをしようとしていた件。彼等は別に味方という訳でも無かったのだが、敵でも無かったのも確かだ、それまでは。
それともう一つ。ここで以前の世界の記憶の話が出てくるという事は、やはりタツヤの時に思い出したあの記憶は現実だったようだ。
『怖かったですよね? 以前の世界でも男共は下らない理由でああして群れて姉さんを追い掛け回した。あれを見た時、私は心の底から奴らはクズだと思い知った』
「……それがミノリが男性嫌いになった切っ掛けだったのね。そして私にももう一度それを味わわせようとした。思い出させようとした」
でも、以前の世界でもこの世界でもタツヤは守ってくれた。
だから私は、そうして性別でひと括りにして判断するのはおかしいと思う。
『しかし、自我を持つタツヤさんは当然としても、昨日の時点で係長のような例外が出てくるのは想定外でした。今日だって姉さんを追わない人が結構居たと思います』
「そうね。いつだって例外は居るものよ。で、ミノリはそんな私が気に入らないから世界を壊そうとしたの?」
『それはあくまで通過点、もののついでです。結局は……自分の本当の気持ちに気付いてしまったから、ですかね』
「……聞いてもいい? 本当の気持ちとやらを」
悩んだが、結局は聞かないと始まらない気がした。
だが、そうしてミノリのスピーカーから発せられた言葉は私の想像だにしないものだった。
いや、過去にミノリと向き合い、ミノリが私の事をどう考えているかを想像する機会があれば、想像出来たのだろうか。
『私は姉さんを超えたいと思ってました。でも違ったんです。姉さんを超える事で、姉さんの中に私を永遠に刻む事が私の本当の望みだったんです』
「………」
『自分でも気付きませんでしたが、私は姉さんに憧れていたんです。周りなんてどうでもいいという態度を取りながらも、その公平さ故にタツヤさんやノゾミさんから好かれる姉さんに』
そうか、やっぱり好かれていたんだ、私は。
今まで向き合わなかったから気付かなかっただけで、さっき向き合ったノゾミは私に「友達になりたい」と言ってくれた。その程度には私は好かれていた。
タツヤは私にどういう感情を抱いていたのだろうか。今となっては知る由もないけど、でも好かれてはいたのだろう、ミノリの言う通りに。
そう、結局の所はミノリの言った通り、私は大切なものを見落としていたのだ。
今となっては後悔している。二人と向き合わなかった事に。
その代わり、という訳ではないが、せめてミノリにはちゃんと向き合わないといけないのだろう。
『ですが、姉さんの中に私は無かった。私の居た世界を姉さんは捨て、記憶も捨て、そんな姉さんが作った家の中に私の部屋は無かった。それが無性に悔しかった』
「……返す言葉も無いわ」
『いえ、ずっと前から分かっていた事なんです。だからこそ私はずっと前から姉さんを超えたがっていた。誰も特別に見ない姉さんの特別になりたかった』
「………」
『この世界に来て、管理者になって、上手くいくと思っていた。でも何も変わっていなかった事をあの日に知った。だから世界を作り直す事にしたんです。ついでに姉さんを以前の姉さんに戻して』
「以前の、私……」
『公平で、私の男嫌いを諌めるような姉さんも、内心では僅かに男を恐れていました。私には分かりました。でもこちらの世界ではそうは見えなかった。だから最終的に男ばかりの世界にしたんです。
女尊男卑な世界にする事は初めから決めていましたが、これでも当初は多少なら女性も配置するつもりだったんですよ?』
なるほど、ミノリは最初から色々考えて仕込んでいたのか。
それでも変化が見られないから、世界を壊すと決めたあの日、ついでに私に恐怖を思い出させようとしたのか。
『タツヤさんが居なければもっと話は早かったかもしれませんが、そこは約束でしたし、タツヤさんが居なければ姉さんが家から一切出てこなかった可能性もありますしね』
「男性を恐れて引き篭もるという事? それはそれでミノリの望み通りなんじゃないの?」
『ですが、家の中に篭られては私からは手が出せませんから。互いの意識の薄れる、夢という形以外では』
「なるほどね……」
とは言うものの、タツヤが居なくても外には出ていたかもしれない。ユメの為にと自らに言い聞かせて。
そうだ、ユメが男性を恐れていたから私は恐れている暇が無かったとも言える。もっとも、ユメの存在を知らないミノリにそれを考慮しろと言うのは無理な話だが。
「約束というのは?」
『私が管理者になるのを認め、手伝う代わりに、自分達も姉さんの側に置いてくれと二人は言いました。実際、私一人では今のように身体を捨てた存在になるのは難しかったでしょうし、仕方なくです』
「……そもそも、身体を捨てる必要があったの?」
『最初からそのつもりだったわけではないですが、試した結果、人間の身では無理だというのが私の結論でした。姉さんの作った世界を乗っ取り、姉さん以上の範囲を管理するという事は』
ミノリの言い分だと、どうやら最初に世界を作ったのは私らしい。
最初の内だけは私もそう思っていたのだが、結局それは正解だったという事になる。
『言っておきますが、規模が小さいとはいえ人間の身体を維持して自我まで保った上で自分の家と周囲の世界を作り上げた姉さんが異常なんです。普通の人間の頭で出来る事じゃありません。
普通の人間の頭で出来るのは、苦し紛れ程度に自分の意思を持ちながら、誰かの掌の上で作られた世界の流れに踊らされ、身を任せて生きる事だけ』
「……何、私が普通じゃないとでも言うの?」
ノゾミが私を特別だと言ったのは、この事なのだろうか?
『元々姉さんは変人ですけどね。その上この世界でも、私が身体を捨て、こんな姿にまでなって世界を掌握しても尚、姉さんの家と頭の中には干渉出来なかった。まるでもう一つの世界があるかのように』
「……そんなミノリの精一杯の干渉が、あの夢だったという事ね」
『はい。今にして思えば、以前の世界での姉さんの伸び代の無さは普通じゃなかったとも言えます。きっと姉さんの頭は世界を作る事だけに特化していたんですね。それは立派に異常ですよ』
「……考えすぎよ。記憶が無い分、その領域を上手く使えただけの事じゃないの?」
『それも多少は影響しているでしょうけど、そもそも姉さんは記憶を完全に無くしている訳ではありません。現に色々な事を思い出しているでしょう?』
「それは……」
『本当は思い出して欲しくなかったんですけどね。まぁ一度全てリセットすると決めた以上は些細な事です。姉さん自身もリセットします。今度こそ私に頭の中を見せてくれますよね?』
「……それはつまり、この世界で死ねばミノリに管理される『ひと』として作り替えられる、ということかしら?」
『ふふ、流石姉さん、察しが良い。以前の世界とは大違いです。やはりこちらの世界でこそ姉さんは輝くようですね』
皮肉はともかく、要するに私もタツヤやノゾミのような存在になるという事か。
もう一度二人に会えるのなら、それも悪くない気もする。二人に対する後悔は沢山あるから。
『ですが、このタワーだけは世界から独立しています。ここは崩壊しない。ここに居る限り、姉さんは死ぬ事は無い。私の目論見から外れている』
「その割には困っているようには見えないけど」
『……内心、悩んでいたんですよ。姉さんには全てを伝えるべきなのではないかと。少なくとも姉さんの聞きたい事には答えるのが勝手に世界を乗っ取った私の義務なのではないかと』
「……あなたも案外フェアなのね」
『姉さんに似てきたんですかね。ですから、もし姉さんがここまで来られたなら、聞かれた事全てにちゃんと答えようと思っていたんです。ですからタツヤさんとノゾミさんも泳がせておきました』
ミノリの目的を考えれば、二人がしていた事はある意味では管理者への反逆とも取れる。
その気になれば誰でも消せる、とミノリは言っていた。でも二人は目的を達成した。それは泳がされていたとも言えるのだろう。ミノリ自身が悩んでいたせいもあるのだろうが。
『そして、疑問全てに答えた上で、姉さんには自ら選んでもらいます。私の下で生きる道を。姉さんの全部を私が管理します。その時こそ私は姉さんを超えたと言えるし、姉さんの中には私が永遠に刻まれる』
「……好かれているのか嫌われているのかわからないわね」
『好きなんですよ。誰よりも、世界の何よりも、姉さんの事が。そうでなければ身体を捨てたりなんてしませんよ』
「……そう、か。そういう考え方もあるのね」
本当に、私は今まで誰にも向き合って来なかったんだな、人間を知ろうとしなかったんだなと思い知る。
この世は知らない事、わからない事だらけだ。
そんな中で、私が知らなくてはいけない事、ミノリに教えてもらわなければいけない事が、まだ一つ残っている。
「ミノリ。そろそろ教えて欲しい。この世界の真実。あなたが隠している事を」
『隠している訳ではないんですけど』
「じゃあ、私が気付いていない事を、気付いていないように見える事を教えて欲しい」
『どうしてそんなに知りたがるんですか?』
「……結局、ミノリの言う通りだったのよ。私は多くの大切なものを見落としていた。あなた達に好かれていたという事を。思い知った。だから、知れるものは知っておきたい」
『……変わりましたね、姉さん。誰かの事を大切に想うなんて、姉さんらしくもない』
「……教えてくれないのかしら。聞かれた事全てに答えるって言ってたわよね」
『これは良心だと言いましたよね。姉さん、その感情はあなたを傷つけるんです』
「真実を知る事で私が傷つくと? 気遣いはありがたいけど……予想は付いてるのよ、もう」
私だけが特別と言われ、私だけが以前の世界に戻れると言われ、今生の別れになると言われ、予想出来ない筈が無い。
どうしようもなく恐ろしい答えを。世界の真実を。
「以前の世界に私だけは戻れる。他の人達は戻れない。つまり、他の人達は私より大きな犠牲を払ってこの世界に居る。具体的には、恐らく……身体が無い」
私自身の払った犠牲がどういうものなのかはわからない。覚えていないから。
だが、皆は戻りたくても戻れないほどの犠牲を払っているのだ。既に支払ってしまっているのだ。
『……最後の良心だったんですけどね。ええ、そうです。正確には、既に命すらありません。我々は死人です』
「っ……」
頭の中ではわかっていたつもりだったが、実際に面と向かって言われると話が違った。
その事実は重かった。そして考えうる限りの中で最悪のパターンでもあった。
『ここは死後の世界に非常に近いんですよ。多分本来の死人は天国か地獄に行って転生するでしょうから、あくまで近いだけの場所。世界を作れる姉さんが勝手に作った、死人の意識の留まる世界』
「死人の……」
『姉さん自身は意識不明の昏睡状態です。なので戻れる。もう目覚める事は無いだろうと向こうでは言われてますけどね。こちらの世界で暮らしているので当然と言えば当然ですが』
「……でも、私は辛うじて命はある。こちらの世界に居ながら向こうでも生きている。ならあなた達も――」
『命まで捨てる必要は無かった、と? 私は以前の世界に命すらも残さず、全てのリソースをこの世界に割いたのに、今はこんな姿なんですよ?』
「………」
『タツヤさんやミノリさんだってそうです。私が下地を作って管理してあげないと意識を保って存在する事さえ出来ない希薄な存在なんです。結果論ですけど、命まで捨てても『この程度』なんですよ?』
あくまで私が特別だったという事か。全てにおいて、私だけが違っているのか。
以前の世界に戻るという選択肢を残したまま、こちらの世界で好き勝手出来ている私という存在が異常なのか。
『そもそも、私達は既に死んでしまったんですから今更どうこう言ってもしょうがないですよ』
「……そう、ね……」
死んでしまった。その言い方は正しいのだろうか。
違う気がする。死を選んだんだ。自ら選んだんだ。私を追って死んだんだ。
私を、好いていてくれたが故に。
以前の世界の私が好かれている事に気付かず、世界を捨てたせいで。
私のせいで、三人とも死んだんだ……
『……だから言ったんです、傷つくと。姉さんは誰かに優しくあるべきではないし、私以外の事も思い出すべきではなかった』
「……ごめんなさい」
それはきっと目の前のミノリに対してではなく、三人全員に向けての言葉だったと思う。
だが、ディスプレイの中のミノリは溜息を吐くだけだった。
『もう私の良心は売り切れですからね。後はこの状況を利用させてもらうだけです。姉さん、罪悪感を感じているなら……後はわかりますよね?』
「……私も死ぬべきだ、と」
『私と一緒になるんです。私の中で、私の管理する世界の中で、姉さんは好きに生きればいい。償いたければ好きなだけ償うといいですよ。私ならその機会を作ってあげられます』
それはありがたい事だ。
命まで捧げてくれた彼女達に私が償える世界があるなら、それは理想の世界だ。
私はそこに行かなくてはいけない。その世界に辿り着かなくてはいけない。
私に出来る事は、もうそれだけだ。
踵を返し、ミノリに背を向け、エレベーターに再び乗り込む。
*
降りてゆくエレベーターの中で再び目を瞑ると、懐かしい声が聴こえてきた。
「ねぇウツミ、本当にそれでいいの?」
私はこの声を知っている。この世界で何度も聞いた声。毎日聞いた声。
私の大好きな、私だけの彼女の声。
「それじゃあ何も変わってない気がするよ、ウツミ」
「……いいえ、私は気付けた。私を大事に想ってくれている人の存在に。それだけで充分な変化よ」
ずっと守ってくれたタツヤ、友達になりたいと言ってくれたノゾミ、好きだと言ってくれたミノリ。
三人の気持ちに気付けた。だから私は、三人の気持ちに応えないといけない。
「それで、その気持ちに応える方法がこの世界に残る事なんでしょ?」
「そうよ、何かおかしい?」
「おかしくはないけど、やっぱりそれじゃあ何も変わってないよ。ウツミはまだ、大事な事に気付いていない」
三人が私を好いていてくれた事、それ以上に大事な事などあるのだろうか。
「あるよ。見落としてる事がある。タツヤとノゾミの覚悟を、ウツミは見落としてる」
「覚悟……?」
タツヤもノゾミも、私がどんな選択をしようと受け入れると言っていた。選択を私に委ねると言っていた。覚悟というのはそれの事じゃないのか。なら私のこの選択も受け入れてもらえるのではないのか。
……いや、違う。ノゾミは言っていた、「私もタツヤも覚悟している」と。覚悟とはそれの事だ。その時に言っていた事についての覚悟だ。
その時に言っていたのは……永遠の別れという選択肢についての話。という事は、それを選ばれる覚悟の事なのか。
今の私の選択――ミノリの望む未来――とは違う選択。それを選ばれる覚悟。すなわち、ミノリに反旗を翻す覚悟。
つまり二人は……私に、元の世界に戻って欲しかった?
「ううん、強いるつもりはなかったはずだよ。二人はそうは言わなかった。ウツミがちゃんと考えて今の選択をしたのなら、本当にそれを受け入れてくれると思う」
「私が、ちゃんと考えてない、って事?」
「二人の覚悟なんて見えないフリをして、自分の罪悪感を満たす為だけの選択をしなかったって言い切れる?」
到底言い切れなんてしない。流石、痛い所を突いてくる。
でも、だったらどうしろと言うのか。罪悪感から目を背け、開き直る事なんて到底出来ない。人間としてそれは出来ない。
「まだ時間はあるよ。もう少し考えてみてもいいはず」
「……そうね……」
*
エレベーターから降りて、タワーの入り口まで戻る。
外を見てみると、もう地面はほとんど崩れ落ちてしまっていた。空は相変わらずのどす黒い赤で、今となってはそれはこの世界にいた『ひと』達の流した血のようにも見える。
この空の赤も、私のせい。そうとも言える。だから私が全てを賭けてどうにかしよう。
振り返り、入り口から遠ざかる。そのまま進み、中央にあるエレベーターではなく、その右手側に備え付けられている階段の方に向かう。
階段の前に立ち、上を向く。螺旋階段になっているようだが上の方は暗く、光が入ってきている様子はない。どこまで続いているのかさえもわからない。
まあいいか。こちらを行くと決めたんだ。そのまま踏み出し、昇り始める。
少し昇っただけで四方が壁に囲まれている形になり、薄暗くなる。声を出したらだいぶ反響しそうだ。そんな事する理由も無いが。
『――姉さん』
「あら、ミノリ」
見えているのか。スピーカーもこの階段の何処かにあるのだろうか。かなり反響しているし、もしかしたら最上部にあるのかもしれない。
『何故こんな場所に居るんですか? 死ぬんじゃなかったんですか?』
「もう少し別の景色を見ながら死にたくて」
『……わかっているんですか? この先に何があるか』
「私しか行けない場所、でしょう? だからこそ二人は私をここまで導いてくれた」
話しながらも、足は止めない。昇り続ける。
ミノリの声が徐々に近づいてきている気がするのは、スピーカーとの距離が縮まっているからか、それともミノリが焦っているのか。
『……姉さん。何が原因でこの世界に来たのか、思い出しているんですか?』
「……私が三人を死に追いやったのだから、その時の私の判断が間違いだった、という事よね」
『私の質問に答えてください』
「私は、その時と同じ状況を、この世界で作り上げる。時間を遡った世界をここに作る。私の頭ならそれも出来るはず」
『思い出していないんですね?』
「もう一度、あの日からやり直す。この世界で、あなた達と一緒に。その為に、今は死ねない」
『あの子を連れてくる事は出来ませんよ? あの子は姉さんには靡かない』
「………」
『……姉さん、私なら男なんかには靡かないよ? 私じゃダメなの?』
「……ミノリが身体を捨てたのも私のせい。私がミノリに身体を捨てさせた。だったら、私はやり直したい」
『っ、姉さんっ!』
*
階段を昇り終え、その先にあった扉を開く。
そこにあったのは本当の展望施設だった。ガラス貼りの窓から見えるのは眼下に広がる近代的なビルばかりの街並みと、遠くに見える山。そしてやや上を向けば青い空が果てしなく広がる。
街並みでは人が行き交い、山には雲がかかり、空には鳥が飛ぶ。ずっと忘れていたそんな光景ばかりが目に入ってくる。自ら望んで捨てたはずの光景が、今はとても懐かしい。
しかし、ここに人は居ない。この展望施設の中にだけは人が居ない。私以外には誰も居ない。ミノリの声も聞こえない。ユメがある一箇所のガラス窓を指差しているだけだ。
「そこが帰り道なのね」
ポケットから再度警棒を取り出し、窓に投げつける。ガラスは音も無く割れ、どこかへと飛散して消えた。
あとはこの窓から飛び降りれば終わり。それでおしまい。私が地面に着く事は無い。
それで、おしまい。
「そうだ、ユメ。今までありがとう。これ、置いていくわ」
ユメに渡してから返ってきた護身用具を、全部ユメの足元に置いていく。
ユメが使うとは思えないけれど、あるべき場所はここで間違いない。
もう間違えない。あるべき場所もだけど、自分のいるべき場所も、私にはちゃんとわかっている。
ここは私の世界だ。だから私が終わらせないといけない。
「……また、来るから」
遠くに向けて小声で呟く。
最後にもう一度ユメを見てみたけど、どうやっても表情が見えないのが、少しだけ寂しかった。
「……ばいばい、ユメ」
11.
こうして私は、私を大事に想ってくれる人が二人だけ残っている世界へと戻った。
やるべき事も既に決まっている。あの世界に戻り、あの世界を乗っ取るために、自分の頭の中の事をもっと調べなくてはいけない。
あの世界で生きる為に、この世界を活用しよう。所謂下積み期間だと考えれば、大事な人が三人欠けているこの世界も乗り切れる。
そして、この世界に残っている二人、私を大事に想ってくれている二人にはいずれちゃんと事情を説明しないといけない。私の覚悟も含めて。自ら命を絶った三人の覚悟と想いに応える覚悟が私にある事も含めて。
それともう一人。私を大事に想ってくれているわけではないけど、私が大事に想いたい人。全ての発端となった、あの子。
その子を再び街中で見かけた時は、意識を失いそうになった。
向こうから歩いてくる、あの子。私はもう名前を呼べない、あの子。
視界が揺れる。足元がおぼつかない。地面にへたり込む。動悸と冷や汗が止まらない。
「だ、大丈夫ですかっ!?」
「どうした!? 気分が悪いのか!?」
「び、病院!? 救急車!?」
あの子とその隣にいた男性が、共に私に駆け寄り声をかけてくれる。
優しい人だ。二人とも、優しい人のようだ。
私はこの子にあの日恋をした。一目惚れだった。でもこの子は私の事を知らない。私の事なんて何とも思っていない。あの日会った事さえ覚えていない。
相手の事をわざわざ考えなくても、それくらいはわかる。ここまではあの日と一緒だ。そしてあの日の私はこの後、間違った選択をした。その結果、大事な三人を失った。
今回は間違わない。間違う理由が無い。自ら死を選ぶ理由はまだ無い。それはもう少し後の話だ。
「……だ、大丈夫。少ししたら落ち着くから……」
「そ、そうなの?」
でも、ここに来て欲が出てきた。目的が明確になった事で、それに付随するわかりやすい欲が出てきた。
「……だいぶ落ち着いてきました……ごめんなさい、迷惑かけました」
「本当に大丈夫か?」
「無理しないでね?」
「はい、助かりました。それで、あの……」
私の目的は、向こうの世界であの日をやり直し、そのまま皆で日常の続きを生きる事。それなら……
「お礼がしたいのですが、良ければ連絡先を教えて貰えませんか?」
……その日常に、あの日置いてきたこの子を連れて行く事くらいは許されるはずだ。