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7.


生きていく為に必要なものは何だろうか。

正確には覚えていないのだが、恐らく小学生くらいの時期に習ったはずだ。人間が人間らしく生きるために欠かせないのは『衣・食・住』の三つだ、と。

それからまたある程度年を取れば、思春期特有の捻くれた思考で『金』などと言い出すのかもしれないが、結局は衣食住全てを自分達で賄えるなら金は必要ない。

当時の私は、二人で力を合わせれば二人分くらい賄えると思っていた。住居は最初からあったし、衣服も最初から身につけているし住居にいくつか予備もあった。食料さえ何とかするだけでいい。

家の中に最初からあった食料を消費しながら作物を育て、そのまま農業のみに従事して生きていけばいいと、本気でそう思っていたのだ。

実際はすぐ壁に突き当たった。大気も土も水も汚れているこの世界で、専門的な知識を持たない私が農作をするのは不可能だった。

それに加え、今にして思えば無知な二人が必死に畑を耕した所で充分な量と種類を賄えただろうか。百歩譲っても量はともかく、種類は無理だったのではないだろうか。そう思えてならない。

ともあれ、早々に心折れた私達は農作を諦め、冷蔵庫にあった食料を細々と消費しながら「動物を狩ろうか」「山か森に篭って食べ物を探そうか」などと数日間話し合っていた。

状況に反してあまり焦りの色が見られないのは、その頃はまだ私が作り上げた世界だと思っていたからだ。

実際は数日後、食料が底を尽きかけていた頃に唐突に世界に『ひと』が増え、食料等を売っている店も出来、私は工場に勤めている事になっていて、この世界が私の物でない事を知ったのだが。

それでも、そうして食品が流通するようになった事により私達が飢えずに済んだのも事実だ。衣食住の問題が全て解決したのも事実だ。

こうしてここは永遠に続く理想の世界となった。もっとも、仮にユメと二人きりで終わりに向かうだけの世界だったとしても、私は一向に構わなかったのだが。

ユメだってそう言ってくれるはずだから、何も問題は無い。



8.


「――以前の世界のお前? そうだな、目立つ奴じゃなかったけど、フェアな奴だったな」


タツヤはそう言った。


「――以前のウツミさん? まあ、差別や偏見とは無縁な方でしたわね。そうですね、公平と言われれば確かに公平でした、今にして思えば」


ノゾミもそう言った。

ミノリと記憶を共有しているであろう二人ならそう言う事はわかっていた。念の為確かめてみたに過ぎない。結果、管理者たるミノリの言い分は全て正しいと証明された。

一方で、ついでにと名前のない『ひと』である係長に聞いてみた時は、


「以前の世界? なんだそりゃ。寝呆けてないで働け」


と言われただけで話が続かなかった。新人や部長にも聞こうとしたが「以前の世界」という単語の時点で何を言っているのかわかっていないような顔をされたのでやめた。

つまり、やはりと言うか何と言うか、詳細な設定を与えてあるのは名前のある『ひと』に限るようだ。というか名前のない『ひと』が薄っぺらすぎるのか。

名前のある『ひと』がこれ以上増える様子もないし、ミノリとしては彼等をいつでも気楽に消せるように、とこれ以上作り込むつもりもないのかもしれない。

……という話を本人にしてみたところ、


「っていうか何が楽しくて男なんか作り込まないといけないんですか」


だそうだ。タツヤは例外だったのだろうか。いや、むしろタツヤだけで心が折れたのだろうか。

ミノリの男性嫌いは時に過剰だ。思い出した記憶の中にもそんなシーンが多々ある。そんな妹を窘めている時だけは、自身を姉なのだと思えたような記憶がある。

そして今、同様に男性恐怖症のユメの為に『外』に出る事で、大切な人に尽くしている実感を得ている。

私自身、別に男性の相手が得意な訳では決してないが、不思議なものだと思う。


*


前に聞いた事があるが、ユメの男性恐怖症の原因は「わからない」そうだ。

ユメは私と同様、以前の世界の記憶を持っていない。だから直接の原因もわからない、という事だった。


「……治したいと思う?」


そう問いかけるのにはかなりの勇気が必要だった。

ユメが治したいと望むなら私は手伝うだろう。ユメの望みを叶えないという選択肢は私には無い。

たとえその結果、ユメが私の庇護を必要としなくなり、家を出て行く可能性があったとしても、だ。

だが、ユメは首を振った。


「治してまでやりたい事もないし。治す為にウツミに迷惑かけるのも嫌だから」


あからさまな逃げの言葉が嬉しかった。

本当にユメはいつも私が求めている言葉を的確に投げ掛けてくれる。


「……でも、ウツミが治して欲しいって言うなら頑張るよ?」

「ううん、そんな事言わない。無理強いはしない」


都合のいい優しさを投げ掛けると、ユメもどこか得意げに微笑む。

全部分かっているんだ。私達は分かり合っているんだ。お互いに都合がいいように。私に都合がいいように。

ここは未だ理想の世界だ。


*


一方のミノリの男性嫌いの原因だが、これも私には分からない。記憶の中のミノリはいつの間にか男性嫌いになっていた。

こちらは本人ならわかるのだろうが……それを私が不躾に問うのも違う気がした。

そもそもミノリに関しても公平に無関心を貫くのが最善、と先日決めたばかりだ。問うのは止めておこう。


「今日もおやすみなさいましておはようございます、姉さん」

「はいはい」


接し方を決めた。なら、後はそれに従うだけ。

今夜もこれまで通り、今まで通り取り留めのない話が繰り返されるのだろう。


「そういえば姉さん、一つ尋ねたい事があったんですが」

「何?」

「姉さんの家の外見ですけど、以前の世界の私達の家と同じですよね?」

「ああ、やっぱりそうなのね」

「やっぱり、って事は覚えてなかったんですか、それも」

「生活する上で違和感は感じなかったから、そうじゃないかとは思ってたわ」

「なるほど、内装も同じのようですね。聞きたかったのはそこでした」


この世界の管理者たるミノリだが、私の家の中までは目が届かないと言っていた。

私が作った家の中は認識出来ないらしい。それは私の頭の中を見れないし弄れないのと同じ事なのだろうか、要は。


「そんな事聞いてどうするの?」

「どうもしませんよ。何かするつもりも無いけどちょっと気になった事をとりあえず尋ねてみた、といった感じの……言うならば世間話、あるいは雑談ですね」

「そう」

「まぁ、そこから何かしら話を広げるというのも話術なのでしょうけど。じゃあ、そうですね、その家で私の部屋はどうなってますか?」

「ミノリの部屋?」

「はい。忘れましたか? 私達は双子の姉妹なんですよ」

「……そうね、一緒に住んでた筈よね」

「はい、隣の部屋に」


確かに、私の部屋の隣にもう一つ部屋はあった。

最初はそこをユメの部屋にしようかと思ったのだが、ユメが一緒がいいと言ってくれたので結局使われていないままのあの部屋。

中も一度は見た。件の部屋に限らず、ユメの部屋を考える時に全ての部屋を回った。だからその問いにも答えられる。公平に、事実のみを伝えよう。


「……何もない部屋だったわね」


私の部屋と台所やバスルーム、トイレ等の生活に必要な部屋以外は、全て空き部屋だったのだ。ミノリの部屋に限らず恐らく他の家族のものだったであろういくつかの部屋も全て等しく何もない部屋だったのだ。

だからそう言うしかない。事実をそのまま伝えるしかない。ミノリから聞いた私という人間の性格を考えてもこう言うだろう。

なのに、私の言葉に何故かミノリは少し寂しそうな顔をした。珍しく、この時だけは寂しそうに見える顔をしたのだ。

ミノリ自身が私をそういう人間だと言ったくせに。公平で、妹の事もどうでもいいと思ってる人間だと言ったくせに……


「……私があの家を作ったのは、ミノリの事を思い出す前なのよ。部屋があるわけないじゃない」


言いたい事はあるが、表情を見ていると流石に申し訳なく感じてフォローの言葉を入れる。

するとすぐにいつもの顔に、管理者然とした挑戦的でどこか達観的な、生意気な表情に戻った。


「それもそうですね。ええ、わかってますとも」

「……そう」


何も言うまい。生暖かく見守るのもきっと姉の務めなのだ。


「……頭の中ではわかってたつもりなんですけどね、実際に面と向かって言われるのとでは話が違うとでも言いますか。しかも私が振った話題でですからね。壮大な自爆ですよこれは」

「私は謝るべき?」

「必要ありません。あー、ホント、不覚です……」

「……大丈夫、忘れてあげるから」

「そういう情けは要らないって言ってるでしょう……」

「そうよね……」


忘れて欲しいなら忘れるが、そうでないと本人が言うなら覚えておく方がいいのだろうか。

というか、忘れてあげようとしたのも別に情けではない。それがミノリの望みなら聞こうと思っただけだ。それだけだ。

もっともそれを本人が情けと思うなら情けなのだろう、本人にとっては。そういう意味ではミノリとの公平な距離というのは意外と難しいのかもしれない。

以前の世界の私はミノリにどういう風に接する事を心がけていたのだろうか。ミノリに関する記憶はあるのに、そこがわからないのがもどかしい。


「……姉さん、人を好きになるってどんな気持ちなんでしょうか」


……例えば、唐突にこんな事を聞かれた時に、以前の世界の私はどう返していたのだろうか。

好きな人。そう問われて脳裏に浮かぶのはユメの顔だ。今の私には好きな人がいる。よって答えられない問いではない。

だがユメの事を誰かに話すつもりはない。隠し通し、守り抜くのが今の私の使命だから。となると『ユメの事を知らない、好きな人も居ない以前の世界の私』のように答えるべきなのだろうけど……


「……わからないわ」


そう答えるのが精一杯だった。

以前の私ならどう答えていたかがわからない。

ミノリが急にそんな話を振る理由もわからない。

故に、わからないと答えていいのかもわからない。

それでも私はわからないと答えた。

そう答えるのが精一杯だった。


「そうですか」


私の精一杯の答えに対し、ミノリの反応は薄いものだった。表情も無く、私には心情を察する事は出来なかった。

そしてそのまま夢の終わりの合図が来る。滲んでゆく世界を見ながら、そういえば人の心情を察する事は昔から苦手だったような、と思い始めていた。

さっきのミノリのように表情に出してくれればまだわかるのだが、一見普通に見えると途端にわからなくなる。以前の世界でもそうだった気がしていた。

だから、今のミノリが何を思っているのかもわからないのだ。わからないままこの夢は終わるのだ。

でもきっと、それが公平というものなのだろう。

私はそう思う。


そして、この日が夢の世界でミノリの姿を見た最後の日となった。



9.


「――おはよう、ウツミ」

「……おはよう、ユメ」


目が覚めると隣にユメの顔がある。これに勝る幸せな朝はないだろう。嫌な夢を見た事も吹き飛び忘れるほどの幸せだ。

ユメはいつも私が起きてから朝食を作る。前日の夜の内に仕込みをしておいて、朝は私に合わせて起きて、それから行動してくれる。その気遣いをとても愛しいと思う。

もっとも、それでも朝食を作るのにはそれなりに時間がかかるので、私が寝坊した日は簡素なものになってしまうのだが。どうやら今日はいつも通りに起きられたようだ。

ユメが朝食を作ってくれている間、私は可能な範囲の身支度を済ませ、後は新聞を読んだり料理するユメを眺めている。こうして働く気力を蓄えているのだ。


「はい、どうぞ召し上がれ」

「ありがとう」


今日の朝食は炊き立ての白米に味噌汁、それと焼き魚と目玉焼きのようだ。和食における朝食の基本スタイルな気がする。

今日も変わらずどれも美味しそうだ。特に白米がほかほかと湯気を立てているとそれだけで食欲が増す。

いただきます、と手を合わせ、白米から順に味わう。まさに至福の時だ。文字通り噛み締める。

……ただ、幸せすぎて不安になる日もあった。管理者であるミノリと出会ってすぐの頃だ。

ミノリが『ひと』を作ったと知り、ユメもそうなのではないかと不安になった日もあった。とはいえ冷静に考えたらミノリが来る前から居たユメがそうである訳がないのだが。

……それに気付くまでにかなりの時間がかかる程、当時の私は不安を感じていたという事だ。


「どしたの? ウツミ」

「ううん、なんでも。幸せだなぁって」

「そ、そう? 朝からそんなこと言われると照れちゃうね」


そうやって照れる可愛らしいユメを見れるからこそ幸せだ、とも言える。流石に本人には言わないけど。

今日も一日頑張れそうだ。願わくば、いい一日にもなりますように。


*


「――ん?」


通勤も終盤に差し掛かり、工場が見える直線の通りに入った時だった。タツヤが前を見たまま言う。


「あれ、おまえの同僚じゃないか?」

「ん? ああ……係長ね」


私を含め、誰もが作業服を着ているので同僚だという事自体はわかりやすい。不思議なのは、同僚が入り口の前で待っている事。それもこちらを向いて待っている事だ。

恐らく誰かを待っているのだろうが、誰を待つにしろ工場内で済むはずなのだ、本来は。わざわざ外で待つ理由などそう多くは無い。

誰を待っているのだろうか。まあ誰でもいいか、私には関係の無い事だ。


「……おう、ウツミさんよ。ちょっと待て」


どうやら待ち人は私に最も関係のある人だったようだ。


「どうしたんですか係長」

「……おれは先に行くか。じゃあなウツミ、また帰りに」

「ああいや、そこの兄さんも待ってくれ」


気を利かせて立ち去ろうとしたタツヤもセットで呼び止める。

一体何の用事なのだろうか、皆目検討がつかない。


「……今日は帰った方がいい。社長には俺から上手く言っておくから、二人で帰れ」

「……何故ですか?」


用事を告げられても理由に相変わらず皆目検討がつかない。

問い返した私に係長は一瞬だけ苛立った目を向けたが、すぐに視線を逸らし、言う。


「……耳を澄ませてみな。工場の中だ」


入り口に近づき、言われた通り耳を澄ます。

すると微かに、何やら拡声器で喋っているらしき一人の声と、それに同調する複数の声が聴こえてきた。


『――であるからして、えー、今こそ我々はぁー、労働環境の改善をぉー、きっと申し立てるべきなのではないかとー!』

「おー!」「おー!」「おー!」

『本日はぁー、声を以ってぇー! 明日は行動を伴ってぇー、社長に示すものでありまぁすぅー!』

「おー!」「おー!」「おー!」

『今は予行練習でーす。もう少ししたら社長が来ると思われるのでがんばりましょーう』

「おー!」「おー!」


……私のイメージの中のものとは若干違うが、これはあれだろうか。


「……ストライキでもするの?」

「どうやらそのつもりらしい」


陣頭に立っていると思われる、微妙に腰の低いあの喋り方は部長だろうか。

一見穏やかな人ではあるが、結構お歳を召されているが故の鬱憤でもあるのだろうか。

まあ確かにそもそも社長があのノゾミなのだ、それに比較的近い部長という地位の部長はいろいろ気苦労が絶えないのかもしれない。

それでなくても元より異様なまでに女尊男卑の世界なのだ、男性が不満を溜め込んでいるのは確実。ストライキに走ったとしても気持ちは理解する。

だが、理由がそれだけなら私にはそこまで関係ないはずだ。まあ仕事が出来る状況にも見えないし、私はストライキするつもりも無いから居場所には困るけど……


「お前もストライキされる側に近いからな、帰った方がいい」

「私が? 何故?」

「女だし、社長のお気に入りだ」

「お気に入りというのは私自身にはよくわからないんですが」

「女だからという理由だけでもいい。それだけで槍玉に挙げられる可能性がある。今日は何かがおかしい。皆女を敵視したがってる。俺もな」

「……なるほど、そういう事なら帰ります。では係長、失礼します」


先程の苛立った視線の意味と、それでも係長がここに立っていた事の意味を知り、素直に早々に帰る事にした。

給料は貰えないけれど仕方ない。数日なら貯蓄で過ごせるはずだ。ユメと一緒に家で大人しくしていよう。


「……それにしても、何があったのかしら。タツヤは何かおかしい?」

「いや、別に。いつも通りだ。周囲はそうでもないようだけどな」


言われてみれば確かに周囲からも敵視するような、若干の視線を感じる。

もちろん周囲に他に女性はいない。屈強な体躯の男性ばかりだ。行動に起こされたら私ではひとたまりも無いだろう。そこまでの異変では無さそうなのが救いだが……


「もしかして、来る時も?」

「この程度の連中なら負けないから言わなかったけどな」

「……頼もしいこと」


しかし、彼等の気持ちは理解出来るとはいえ、集団から敵意を向けられていると思うと恐れが出てくる。ユメが恐れる気持ちもわからないでもない。

向けられている視線にさっきまで気付かなかった自分の鈍さも恐ろしいが。以前買った護身用具も毎日ちゃんと持ち歩いているし、タツヤもいる。そのあたりに油断があったのかもしれない。


「……私もしっかりしないと」

「お前は昔からそうだったからなあ。最低限の警戒はしてるけど、周囲を公平に見るからこそ誰かがお前を特別に敵視してる事に気付けなかったりな」


タツヤが自身の中だけにある記憶を掘り返しながら言う。

そういうものなのだろうか、とも思うが、確かに周囲の誰とも知れない誰かの心境の変化などどうでもいい事だ、行動に移されない限りその場に居ても気付けないだろう。

逆にタツヤは警備員という職業柄、変化が悪意や敵意を含んでいれば気付けるのだろう。変化せずとも敵意や悪意には職業柄敏感なのだろうけど。

……いや、タツヤは彼の中の昔の記憶の話をしている。もしかしたら彼自身が昔からそういう事に敏感な性格だったのかもしれない。そういう風な設定なのかもしれない。

まあそんな事はどうでもいいか。今大事な事は二つ。

一つは、彼の記憶の中の私はともかく、今現在の私もこうして自身の性格故に時に敵意に鈍感だ、という事。何か対策を考えないといけない。

もう一つは、タツヤ以外の周囲の男性の変化の原因だ。何故タツヤだけ例外だったのかも含め、突き止めないといけない。管理者に聞くのが手っ取り早いだろうか。今夜聞いてみよう。


*


タツヤに送ってもらって帰宅し、家の扉を開けると掃除機をかけようと構えている格好のユメがいた。


「あれ? ウツミ?」

「ただいま」

「どうしたの? お仕事は?」

「ん……」


男性恐怖症のユメにどう説明したものかと言葉に詰まってしまったが、これは余計な気遣いな気がする。普通に言おう。

それと、ユメと床の様子を見るにどうやらたった今掃除機をかけ始めた所のようだ。せっかく早く帰ってきたんだし、たまには私が掃除をしようか。


「男性社員達がストライキ起こすらしくて。仕事にならなそうだから帰ってきた」

「えっ…?」

「貸して。たまには私がするわ」

「あ、うん……じゃなくて、えっ? ストライキって、そんな、大丈夫なの?」

「さあ? 近づかないで帰ってきたからわからないわ」


質問しながらも掃除機は手渡してくれたので、スイッチを入れて掃除を始める。

こうして掃除機を持つのも久しぶりだ。強さを『強』にしてその轟音っぷりに驚くくらいには久しぶりだ。

ゴゴゴゴゴ、と見る見るうちに床を綺麗にしていく掃除機の素晴らしさにしばらく見惚れていたが、気付けば横でユメが何か言いたそうにばたばたしている。

恐らく何か言ってくれていたのだろうが掃除機の音で聴こえなかったようだ。スイッチを切り、聞き直す。


「ごめんユメ、何? ストライキの話の続き?」

「あ、えっと、まず掃除機の強さは『中』でいいと思う」


私もそんな気はしてた。


「それとストライキの話だけど……やっぱり危ないと思うよ」

「……そうね。ユメに心配をかけたいわけじゃないし、貯蓄が充分ならしばらく行かないで様子を見ようと思ってる」

「やった。お金は結構貯まってるし、食料も数日分はあると思うよ」

「じゃあそうするわ、約束する。……っていうか今「やった」って言ったわね?」

「えへへ……だってしばらくは一日中ずっとウツミと一緒に居られるんだし」


まあ、確かにそれは嬉しい事だ。一日中ユメと一緒に居られるのは。

仕事を始めてからはそんな日はせいぜい週末の休みくらいだったし、最初の頃に戻った気持ちで二人きりの時間を堪能するとしよう。


「じゃあとりあえず今日は二人で掃除して、ユメの分の昼食を作って――」

「あ、お昼はウツミに作ったお弁当の残りがあるからそれでいいよ」

「そう? じゃあその後は何をしようか」

「せっかくだし一日かけてピカピカになるまで掃除しちゃわない?」

「そうね、せっかく二人いるんだしね。いつもの感謝を込めて、ね」

「うん!」


ユメの言う事だから、異を唱える理由なんて何も無い。

ユメに笑いかけた後、掃除機のスイッチを『中』に入れて掃除を再開した。


*


文字通り隅々まで掃除をしながら、途中途中で時間を確認する。本当に今日はこれだけで一日が潰れそうだ。それほどまでに私達は念入りに掃除をしている。

ふと、『立つ鳥跡を濁さず』という言葉が頭の中をよぎる。他の人から見ればそう見えかねないくらいに綺麗に掃除しているとは自分でも思う。思うが、でもそれだけだ。

ここからいなくなるつもりなんてない。私達はずっとこの家で、ずっと二人で暮らすのだから。


「この部屋も……掃除しないといけないわね」


丁度ユメと手分けして掃除をしている時の事だ。私はある部屋の前で少しだけ逡巡し、足を止めていた。

寝る時にしか使わない私の自室、その隣の何にも使っていない空き部屋。ミノリの部屋らしい部屋。

初日に覗いた時は何も無い部屋だった。でも、ミノリの部屋だった事を知った今ならどうだろうか。

もしミノリの部屋らしくなっていたなら、ここだけは流石に入らないでおこう。そのままにしておこう。今はそんな気分だ。

そんな事が、部屋が変化するなんて事が起こり得るのかはともかくとして、起こっていたならばそっとしておきたかった。そんな気分だった。


「……ま、そんな事起こり得ないんだけどね」


扉を開けば、そこは真っ白な空間。何も無い部屋。

初日に覗いた時と何ら変わりない、人の居た痕跡なんて何も無い、まっさらな部屋。

この部屋の中には誰も居ない。

この家の中には、ミノリの居場所は無い。


「………」


別に当然の事だ。この家は私とユメの為だけにあるのだし、あの子はあの子でこの世界の管理者としてどこかで暮らしているのだろうし。

どうせ会いたくなくても毎晩夢で会うのだ。何も思う事もないし、その必要もない。

そのはずだ。


「……早く済ませて、ユメの所に戻ろう」


*


「――終わったねぇ。ピッカピカだよ」

「そうね、完璧ね……疲れた」


達成感と疲労感に満たされながら、ユメと二人、居間に寝転び天井を見上げる。

もうすぐ夕食の時間だ。シャワーも浴びないといけない。けど、今はこのままでいたい。


「家庭訪問の前の日のお母さんの気持ちだね」

「ふふ、そうね。覚えてないけど、こんな気持ちだったんでしょうね」

「……そうだね。私も覚えてないや」


間こそあったものの、ユメの声色に寂しさは無い。

私とユメの胸の中は同じだ。二人で居れば他は要らない。

きっとこちらの世界に来た理由も同じだ。直接の理由さえ思い出せないくらい、他の全てが要らなくなったんだ。

そして私と同じ道を選んでくれた。その事には感謝しかない。感謝しかないから、私はユメと、ユメの幸せを守らなければいけない。

……でも考えてみれば、最近の私はユメに心配ばかりかけていたような気もする。さっきのストライキもだし、ミノリの事もだし、タツヤやノゾミに礼を言えと忠告された事もそうだ。


「……ユメは、何かやってみたい事とかないの?」

「えっ? どしたの、急に」

「たまには私もユメを心配する側になりたいと思って」


それは心からの言葉だった。私が心配をかけてばかりの一方で、ユメは私に心配をかけない。

私が外に出てる間も家の中にいる限りは安全のはずだし、ユメは家事等で失敗した事も無い。早く帰ってあげたいとは思うが、家の中の事については信頼しているので心配からではない。会いたいだけだ。

だから、そうだ、例えば新しい料理器具を買って新しい調理法を試したいとか、服を一から作りたいからミシンを買ってくれとか、そういう事を言われて心配してみたい。

ユメを守るだけではなく、ユメを見守りたい。ユメの変化や成長を見守りたい。要するにそういう事なのかもしれない。

だが、言われたユメはさっきからずっと難しい顔をして悩んでいる。


「う~ん……特に思いつかないかなぁ」

「……何でもいいよ。本当に、何でも」

「外には出ないから安心して。っていうか本当に何も無いんだよね……今が一番幸せだし」


そう言われると返す言葉が無い。

ユメを心配してみたいというのはあくまで私が心配をかけてばかりなのが嫌だから出てきた願望であり、今が一番幸せである事を否定するつもりはないからだ。

それを踏まえると、私のこの願望を解消するには、根本的な方法を採らなくてはいけない。


「……私がしっかりすればいいのか」


そもそも私がユメに心配をかけなければいい。そういう事になる。


「……もしかしてウツミ、私に心配かけてるなぁって悩んでたの?」

「……うん、まあ」

「それこそ気にしないでいいのに。外に出られないんだから心配くらいさせてよ」

「心配かけてばかりって立場も嫌なものなのよ。しっかりしないと、ユメの事も守れない」


ミノリは私が「大事なものを見落としている」と言ったが、私はそうは思わない。

大事なものはここにある。見落としてなんていない。そして私はそれを一生守り続けたいんだ。


「あっ、そっか、そうだ、やりたい事、一個あったよ」

「言ってみて。何でも叶えるから」

「……私はそんなウツミの成長をずっと一番近くで見守っていたい。いつだってウツミの味方でいたい。どう?」

「……やっぱり、ユメには勝てないなぁ」


当初の予定とは違うものの、ユメの言葉は相変わらず私の欲しているものだった。

ユメを守る、などと偉そうに言ったものの、いつだって私の心はユメに守られている。

ならばやっぱり、私はしっかりしなければいけない。成長しなくてはいけない。ユメのいるこの世界には、それだけの価値がある。

これから頑張ろう。そう心に決めた。


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