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9 エナ嬢の家に存在したモンスター

「口が上手いなTEAR」


 帰りの機材車の中で、後部座席シートの横に座ったMAVOが言う。


「んー… 嘘も方便ってね…」

「嘘なの?」

「半分は本当。だけど昔聞いた曲がどうの、というのは嘘。そういう曲はあるんだけどね、Kってバンドの『三つ数えろ』って」

「?」

「ただその曲はなかなか物騒なんだわ。怒りと焦りが溜まりまくった奴で、そんな時は三つ数えろ、だけど満足なんかできやしないって」

「ああ、その話はワタシも聞いたことがある」

「P子さんも?」

「確か連続射殺魔の事件でしたっけ」

「背景までは知らんけどさ」


 全開にした窓に腕を立てる。


「まあ何にしろ、言わずに判る、ほど人間はできたもんじゃねーからさあ」

「話すのが苦しいってのはあたしにはよく判らないけど…」


 運転席のHISAKAがつぶやく。


「HISAKAはそういう訓練ができているからよ。それが自分の意思かどうかはさておいて、そういう環境にいたでしょ?」


 MAVOは前のシートに乗り出しながら言う。


「まあ言われてみりゃそうかもね」

「でもそれは原因の一つにすぎませんよ」


 P子さんは助手席の窓を開けた。風が勢いよく吹き込んできて、後ろのMAVOの髪を勢いよくなぶる。風を避けてMAVOはシートごとP子さんの首ねっこにしがみつく。


「話す訓練が少なくたって、要は自分にとっての自分と、人にとっての自分のどっちが大切かってことだけでしょうに」

「トモコちゃん… ああ『エナ』ちゃんて呼ぶことにしたんだっけ。あの子は優しいからねえ」

「確かに優しいかもしれないけどさ、でも結局人のこと考えすぎて人に迷惑かけんじゃどーしようもないわよ」


 MAVOはシートから手を外した。


「MAVOちゃん…」


 言いかけて、振り向きかけたとき、だった。


 P子さんはいきなり前のめりになって胸と口を押さえた。そして次の瞬間、それがきた。


「!」


 一巡の嵐が過ぎても呼吸は荒い。HISAKAは車を道端に寄せて止めた。


「大丈夫?」


 などと聞いても答えを要求すること自体が無謀な時だってある。P子さんは黙って後ろのシートの転がしてあるバッグを指した。慌ててMAVOはそれを口を押さえたままのP子さんに渡す。P子さんはややもつれる指先でバッグを開けると、さらにその中のポーチから小さな吸入器を出した。そしてそれを一回押す。


「はあ」


 ようやく治まった、と言いたげに顔を上げる。額が汗びっしょりになっている。


「もう少し車動かさないでくださいな」

「喘息か」

「時々、ですよ、最近はそうひどくはない… 薬もあるし… だけど強いですから、そうそう吸いたくはないんですけど」

「大丈夫?」

「大丈夫な訳ないだろ!」


 訊ねるMAVOにTEARは軽く頭をこづく。


「大丈夫ですよ、慣れてはいるんです」

「慣れ、ね」

「どんなものだって慣れですよ。慣れるまでが辛いんです。そういうものですよ」


 だからトモコだって慣れれば大丈夫だ、そう言外に含めているようにMAVOには思われた。



 その後の予定は全てカットしてP子さんは自宅へ強制送還された。発作を起こした、と聞くと妹は素晴らしい勢いで行動を起こした。


「じゃあねP子さん、また電話するから。例の件、本当に考えといてね」

「はいはい」


 HISAKAが帰ると同時にユウコはほぼ無言で姉に早く寝ろ、と命令した。


「すみませんね、いつも」

「そんなあなた、あたしに『それは言わない約束よ』なんて言わす気ですか?」


 ここで冗談の出るあたりがさすがだ、とP子さんは思う。


「あたしはあーちゃんが生きていさえすればいいんですよ」

「そうですか?」

「そうですよ」


 ユウコはゆっくり飲むんですよ、と言いながらミルクのカップを手渡す。湯気があまり立たないようにかなり冷ましてあるのがP子さんにも判る。

 こういう所がひどく良くできた妹だと思うのだ。自分の妹などやっているのはもったいない。


「何か妙なこと考えてませんか?」

「いや、あんたはやっぱりいい奥さんになれるなあと」

「仕方ないでしょう?」


 下手に言うと嫌みにしかならない言葉をさらっと言えて、絶対に嫌みにならないというのはこの一家の人間の強みである。ユウコは自分には結構熱そうなコーヒーを煎れたようである。香りがP子さんの方にも漂ってくる。


「あたしにはそういうことしかできないですからね」

「でもワタシにはあんたのようなことはできないですよ」

「だから何とか世界は平和なんですよ」

「そうですね」


 実際そうだとP子さんは思う。


「だって最初にギターを買ったのはあたしじゃないですか? あーちゃんはそれを借りてた方じゃないですか。まああれはフォークギターだったけど」

「あ、そうでしたっけ」

「そうでしたよ。だけどあたしはFコードでつまづいて、すぐ放り出してしまって、その時あーちゃんはも少し弦の柔らかいエレキギターを母上に頼んだんではないですか」

「そうでしたっけ」

「そうでした」


 よく覚えているものだ、とP子さんは思う。そんなこと自分はとうの昔に忘れ果てていた。


「まあ仕方ないんですよ。あたしは他にも見たいものがあったし、音に入り込めるタイプの人ではなかったんですから」

「そうですか?」

「そうですよ。あの頃あーちゃん結構昼間起きられない日々だったでしょう?」

「そうだった気もしますねえ」

「それで夜は起きられたものだから暇つぶしに弾きまくっていたでしょう?」

「そうでしたねえ」

「いくらあたしが無頓着でも、昼間あなたが寝ている所で音をかき鳴らせませんよ」

「悪いことをしましたねえ」

「そういう意味じゃあありませんよ」


 ユウコはコーヒーをすする。


「もしもこれが逆だったら、あーちゃんはあたしの枕元でもギターを弾きましたよ。あたしはそれよりは外で遊んだ方が好きだったってだけでしょう? 運動部だったし」

「ああ」

「だから別にいいんですよ… あたしはあたしに合ったことを選んでいるんだから…」


 そう言われると何も反論できない。

 家にこもりがちで、学校も結局中学までしかマトモには行っていない自分に対して、きちんと高校まで行って、きちんと毎日会社へ通っている妹はかなりの部分で尊敬できる相手だった。

 だが妹が本当に何を考えているかは、P子さんも知らない。知る必要などない、と考えているふしもある。


 だって。


 途中までは思うのだ。どうしても身体は動かないのに、目ばかりが冴えて眠れない夜。


 知って何になると言うんですか。知らなくともそれなりに日々は過ごせるし、知ってそれが自分か相手どちらかを傷つけるようなことになったとしても、だからと言ってそれで切り離せるようなものではない。

 知らない方がまし、という訳ではないが、わざわざ知る必要はない。


 そして一方の妹は思う。姉が実に「忘れっぽい」分、その代わりを引き受けたように記憶力の良い妹は。

 記憶というものは本当に消えるものではない。ただたびたび出す必要のないもの、出して気分の悪くなるような記憶というものは、人間は無意識のうちに奥の奥へしまってしまうことが多い。

 そしてそれがどの程度その後の人間に影響を及ぼすか。「忘れやすい」姉はどれだけのことを「忘れよう」としてしまったのか、それを「思い出した」時どんな対応をするのか怖かった。

 だが一方でこうも思う。


 だけどあーちゃんはどんなことにも動じないはずよ。大丈夫よ。それにもう十年経っているんだもの。何かあったらあたしが何とかするから…


 「忘れやすい」P子さんと違って、十年前の夜、血を流して帰ってきた姉の姿をユウコは忘れることができなかった。



 怒られるだろう、と予想して出かけていったのは事実だった。

 だから怒られることを覚悟した。

 そして食卓の目の前には父親が居る。右側に母親がいる。家族全員揃うなんてとても珍しい光景。


「何を言いたいか判っているな?」


 父親は低音の声を持っている。会社から帰った後にはコットンのシャツにこの季節はカーディガンを羽織っている。でもそれ以上に崩すことはない。風呂上がりにも絶対に腰巻きタオルでぶらついたりしない人だ。


「黙って出かけたのはごめんなさい。でもあたし、好きなんです」

「あんな騒々しい音楽が?」

「騒々しいだけ… じゃない! …お父さんには騒々しいだけかもしれないけど… あたしには」

「お前には、何だ?」


 ぐっと胸から喉の奥へと突き上げてくるものがある。言葉を見つけなければ。でないと。


「あたしには… いちばん、今、必要なんだもの」

「何、が必要なんだ? 言葉にしなくちゃ父さんは判らん」

「謝ってしまいなさい、トモコ」


 母親が口を出す。ここで謝ってしまえば、私が後は取りなすから。暗にそう含んで。

 確かにそうだろう。いつもならそうだった。だけど。気亜 だけど、ここでそうしてしまったら。トモコは歯を食いしばる。喉の奥から迫った泣き声を飲み込む。そして母親に向かって頭を振る。


「父さんだって言い分はある。まず、何と言っても夜だ。夜中だ。お前くらいの年頃の女の子が街をふらふらしているのは危険だ。次に、音楽はともかく、そこで活動している連中の恰好だ。どう見たって『まっとうな』恰好ではないだろう。そんな恰好を好んでやっている連中の中にお前みたいな世間知らずが入って、変に影響を受けて、将来に不都合があってはまずいんじゃないか、ということ。そして三つ目は、お前の身体だ。ああいう所で倒れてしまったら、どうするんだ」


 あれ、とトモコは思った。一つ一つ指を折りながら考えてみる。筋は通っている。少なくとも「お父さん」という人が考えることとしては。


「俺は音楽の好みについてはとやかく言わん」

「え」

「トモコがヘッドフォンで気を遣ってロックを聴いているのは知ってる。だからそれは構わない。そんなことに俺は文句言ったって仕方ないだろう? 問題は夜中にコンサートへ行くことだ。その上バンドの手伝いをしたい、というのは」

「あなた」

「母さんの言い分は後で聞くから。俺は今はトモコの意見を聞きたい」

「…」


 こういうことを言われるとは、思っていなかった。何となく頭の中のねじが一本いきなり回転して、逆噴射してすっ飛んで行った気分だった。自分の中でいつの間にか父親は「ロックに理解の無い頑固親父」というイメージになってしまっていた。


 違う。そうじゃない。


 それは母親の作りだしたイメージだった、とその時トモコは気付いた。


 …お父さん怒るわよ。ロックなんて大嫌いなんだから。

 ヘッドフォン掛けて聞きなさいよ、うるさいって言われるに決まっているから。


 それを直接彼に聞いたことがあっただろうか? 違う。いつも母親のフィルターごしだった。


 それは、父さんを利用した母さんの感情だ。


「トモコ… 黙っていないで、謝って…」


 トモコはその声を聞いたら、急に何やらむくむくと怒りのようなものが湧き上がってくるのに気付いた。

 怒りを覚えたら、心の中で三つ数えろ。TEARの言葉を思い出す。祈るように数えろ。一つ、二つ、三つ…


「お父さん」


 トモコは口を開いた。


「お父さんの言いたい事は判る。一つ目は夜中の危険、二つ目は恰好とその恰好をする人のこと、三つ目はあたしの健康のこと。どれもあたしを心配してくれるからっての、すごく良く判る。あたしお父さんがそんなこと考えてたなんて知らなかった。だからそれを聞いて凄く嬉しい。でも」

「でも?」


 おや、という表情を父親はする。これは反論の兆しだ。


「三つ目以外は、言いたい。一つ目は、…あたし別にいつも一人じゃない。絶対友達と一緒にいる。あたしだって夜の街は怖いもの。だから絶対友達といる。寄り道しない。予定より遅くなりそうだったら連絡絶対入れる。…もちろんそれでも心配なのは判るけど… 二つ目は… 恰好は恰好で、人は人だと… あたしは思う…」

「だがあんな恰好は社会じゃ絶対に認められないだろうな」

「でも社会は変わってくじゃない!」


 トモコは声を荒げた。


「たまたまあの人たちはその先頭きっちゃっただけじゃない!」

「真っ赤な髪や金髪や? まるでヤンキーじゃないか」

「あれが『恰好いい』か『当たり前』になる時が絶対来る!」

「どうしてそう思う?」

「だってあたしはあれが恰好いいって思うもの!」


 ほお、と父親は目を広げた。


「そんなのは理屈じゃないもの!」

「…」


 正直言って、父親は娘がこう反論してくるとは思っていなかった。ずっと対話なんかしたことがなかったのである。いつも母親の陰に隠れているような感じがしていたのだ。


「ではその二つ目は保留としよう。感覚の違い、もあるかもしれんが、お前は何と言っても世間知らずだ」

「…」


 だったらこんな箱入りにして置かなければ良かったのに。トモコはやや唇をとがらす。


「で、三つ目だが。お前は何か言うことがあるか?」

「あたしの身体が弱いってのは知ってる…」

「ずいぶん母さんにも心配かけたな?」

「それは判ってる… ライヴでもナホコに迷惑かけた…」

「そんな迷惑かけてまで行きたいのか?」

「だって」


 ぐっとこらえていたかたまりが、また喉のあたりまで迫ってくる。言葉が出せなくなる前に、言わなくては。これだけは。

 最大級の、大切な。


「それでも好きなんだもの。あたしああいう世界知るまで、好きなものなんて何もなかった。平和だったけど、いつも何か足りなかった。何か欲しくて欲しくてたまらないのに、それが何だか判らなくて、いつも自分を責めてた」


 母親は無意識に口に手を当てる。そんな馬鹿な。


「いつもいつもいつもあたしがあたしを責めるんだもの。そのたびに頭の中がわーっとなって、誰か助けて誰か助けてって頭の中が叫ぶんだけど、そんなこと言える訳ないじゃない。周りの人達はいいひとなんだもの。違う、そんなこと言いたいんじゃない、だから、ロックは、その…」


 祈るように数えな。TEARのアルトの声が響く。


 一つ、二つ、三つ…


「救われたんだもの」


 ひどく陳腐だ、と思う。これじゃ何処かの宗教に走ったかのよう。だけどトモコには、それ以外の言葉がその瞬間浮かばなかった。


「あの音が、うたが、ロック友達が、あのバンドの人達が、…別に言葉で言っている訳じゃないんだけど… あたしを許してくれてるような気がしたんだもの」

「許す?」


 はあ、とトモコは大きく深呼吸をした。これで精一杯だ。奇妙に頭の中がすっきりしていた。



「HISAKA客… あんたビジネスマンにお知り合いいたの?」


 ドラムのセッティングの最中、タイセイが呼んだ。HISAKAは何だろな、とつぶやきながら出口の方へ向かう。


「今日はあの子こないねえ」


 チューニングをしていたTEARは、立ち位置にガムテープを貼っていたMAVOに言う。


「ん?」

「あんたがエナちゃんと付けた方」

「さあどう出るかな」


 MAVOは首を傾げる。


「吉と出るか凶と出るか」

「吉の方がいいなあ… 美味しいお茶は心のオアシスなのよっ」

「…」


 何と言ったものか。とりあえずMAVOはTEARに向かって渋茶を呑んだような表情をした。


「あんた別にあの子嫌いって訳じゃなかったんだ」

「別に嫌いなんて最初から言ってないじゃない」

「まあそうだけどさ」

「似ている奴が要領悪いと腹立つじゃない。それ」

「似ているかね」


 べん、と電気を切ったベースが音を立てる。


「似てるよ」

「そうは見えないけどね」

「HISAKAとP子さんが似てるくらい似てるよ」

「それっていまいちたとえが悪いぜ」


 TEARは肩をすくめた。



「PH7の代表のHISAKAと申しますが…失礼ですがどなたでしょう?」


 HISAKAは目の前にいる男に訊ねた。姿を認めた瞬間、自分の所へやってきそうなこの年代、この類の男を自分の記憶や予想される範囲かにピックアップしたが、そのどれも当てはまりそうになかった。


「タカハシトモコの父親です。娘がどうもいろいろご迷惑を」

「いえ、別に迷惑など… こちらこそお世話になっています」


 軽くHISAKAは会釈する。


「少しよろしいですか? さほど時間は取らせませんから…」


 HISAKAは時計を見て、


「三十分以内でしたら… まだ楽器のセッティングがいま一つなものですから」


 なるほど、とトモコの父親はうなづいた。



 オキシドール7に最も近い喫茶店は「シタール」と言う。その名の通り、インドの楽器が店の所々に置かれている。


「…と言うことなんです」


 彼は先日の自宅で起きた会話を説明した。


「正直言って、あれがああ反論してくるとは思いませんでしたのでね。向こうが正面切って立ち向かってくるなら、それなりにこちらも知らないで済ませる訳にはいかないと思いましてね」

「そうですね」


 HISAKAはコーヒーを含む。濃いのでミルクではなく牛乳がついてくる。非常に熱くしたものに好きなだけ注ぐ。タイセイあたりはそれじゃカフェオレだ、と言うが、まあ悪いものではない。猫舌の相棒は結構喜んでいる。


「はっきり言いまして、私は今のロックについては軽蔑しているクチなんですよ」

「はい」

「私には騒音にしか聞こえない。昔のビートルズくらいならまだ判りますが… 当時は結構好きでしたからね… 今のは音ががーがー鳴っている分にしか聞こえないんですよ」

「そうですね」

「と言うことはあなたもそう思ってはいるんですか?」

「客観的にみて、そういう風に聞こえる人もいる、ということは認識しています。あたしだって数年前まではそうでしたし、あたしにすら騒音にしか聞こえない音だって氾濫してはいるんですから」

「ほお」

「でもその騒音を好きな人もいる訳で」

「そこらがよく判らない」

「単純に… こう言ってしまうと失礼かもしれませんが、世代のずれ、とか慣れ、というものも確かにあると思います。タカハシさんがビートルズを好きだった若い時代、やはりあれを騒音だと言った人々は多かった訳ですし、当時の大半の文化批評家はあれが一過性のものだ、と評していました」

「確かに」

「更に昔に向かえば、戦前なぞ、あのようにドラムが曲の中に入ることすら大半の日本の人は予想もできなかった訳ですし、ジャズが発祥するまでの欧米だって同様です」

「つまりはそういう時代だ、と」

「と、あたしは思っています」

「詳しいですね」

「そんなことはないですよ。自分のしていることを正当化しようと思うと、ついつい理論武装するための知識というものを蓄えてしまう、それだけです」

「なるほど。では単純に、トモコの世代はあれが音楽として聞き取れる世代だ、と」

「世代半分、個人の資質半分、でしょうけどね」

「そうですか」


 HISAKAは残りのコーヒーを飲み干す。


「それで『ロックバンドのリーダー』の第一印象は如何でしたか?」


 そう来たか。彼は微かに笑った。


「正直言って戸惑っていますね」

「そうですか?」

「まずあなたが女性ということに驚いた。そして言葉に驚いた」

「言葉ですか」

「結構しっかりした方だと思われる」

「ありがとうございます」


 にっこりと笑いながらHISAKAはそれにも軽く会釈する。


「ほらそういう所ですよ。それにずいぶんと勉強家のようだ。興味本位ですがいいですか? HISAKAさん、あなたは何故このようなバンドをやっているのですか?」


 このような、ね。HISAKAはその言葉の裏を考える。


「まだロックが騒音だった昔はピアニストを目指してました。音大も途中まで行ってたし、マトモにやっていれば何処かの楽団に入ってたまではないですか」

「それは素晴らしい」


 なのに何故? と含まれている。ならばその問いに答えてあげましょう。別に自分のことなど知られたって困りはしない。


「だけどつまらなくなったんですよ」

「つまらない? クラシックがですか」

「何て言いましょうね」


 HISAKAは前に落ちてきた髪を軽くかきあげる。


「結構ありふれた言い方だけど… ある程度見えているレールの上を走るのがつまらないと思ったんでしょうね」

「他人事のように」

「当時のあたし、など他人ですよ」

「ですがそれは甘い、と私のような中年から見たら言いたくなりますが? 普通そこまでレールを敷くだけで疲れ切ってしまう人も多いのですよ?」

「そうかもしれませんね。実際甘い。実際失敗ばかりですよ。だけどどうやら出していたのは自分の力の半分以下に過ぎません。そしたら自分をちょっと見失ってしまいましてね。自分の歩いてきた道自体に疑問を持ってしまったんです」


 HISAKAは断言する。


「で、ある日思ったんですよ。疑問を持ったまま人に教えられた安全な道を失敗もせずに行って、最後の最後に後悔するよりは、失敗しようが傷を負おうが自分で道を探す方が納得がいくって」

「―――若いですね」

「当然ですよ。若いんです。若いから人生を甘く見ることにしてるんです」


 にやり、とHISAKAは笑う。


「ま、実際現在のあたしから見れば、当時の悩み方なんてもっと甘いし、うちのファンだって大甘の子が大多数ですがね、だけどうちのファンの中には、ライヴの時だけが生きてる気がする、って子も結構います。学校や家に居場所がなくって、どうしようもなくって、呼吸するのも辛いような子が、『でもライヴあるから死ねない』って来る時だってあるんですよ。それが大人から見て大甘ちゃんでも、痛みは確かにあるんですから」

「…まるで宗教ですね」

「でも入り口はいつも開いているし、出口だっていつも開いてますよ」


 頭がいい女だな、と彼は思った。


「その子達のために何かしようとは思いませんよ。ロックだろうがクラシックだろうが、音楽は基本的には自分のためにするものです。人の為と書いたら偽りですからね」


 彼はん? と思ってテーブルに字を指で書く。確かにそうだ。


「ただ、そういう子が本気な分、相応の感情で応えてやるのが礼儀だと思ってますよ」

「なるほど」


 彼はうなづいた。そろそろいいですか、とHISAKAは言った。彼は時計を見る。確かにそろそろ最初の約束の時間だ。


「では最後に一つ」

「はい?」

「ところで何故トモコに手伝いをさせてもいいと思いましたか? あの子に何か取り柄がありますか?」

「トモコちゃんのお茶、飲んだことがあります?」

「お茶?」

「あたしの家族には料理の達人がいるんですが…その彼女が驚いてましたよ。『負けた』って」

「そうですか…」


 考えたこともなかった。



 こんなに父親の帰りを待ったのは生まれて始めてではないか、とトモコは思う。答えは保留にされている。だが保留にされたままでは身動きが取れないのだ。

 トモコは何となく父親に期待し始めていた。母親の、「優しいけど絶対的な拒絶」より、怖いけど可能性がある方がずっとましではないか、と思い始めていたのである。

 本当に自分の意見を押し通す人というのは、言葉の上では非常に丁寧で優しく、低姿勢なことが多い。大量の枕ことばで繰り返し同じことを言い、結局自分の都合のいい方へ持っていくのである。言われた方は、相手が低姿勢な時に強気で断ると、結局周囲から自分が悪者に見られるのを避けて断りきれない。

 記憶をたどる。

 そう言えばそうだった。母親はいつも優しい言葉を駆使して、結局は自分をがんじがらめにしていた。何故だろう? 疑問に思う。だがそこまではトモコには掴めない。

 答えは簡単である。自分の手の中にいてもらった方が楽だからだ。

 彼女はトモコにある程度の自由を約束してやっているようなふりして、根の所では認めていない。だから、自分の手が届かなくなるようなこと、自分には理解しかねる所へは行って欲しくないのだ。

 そして彼女は仮想の父親像を作り上げる。自分が締め付けているのではなく、父親というものに自分は命令されている立場だ、と中間的な立場を強調する。無論自分の位置を言葉で表現する訳ではない。だが、敏感な子にはその言葉の端々にあるものは刷り込まれていくのだ。

 呪文はこう。


 早く私から独立しなさい。私に依存しながら。でももしあなたが一人前になれなくとも私の責任ではないわ。私はただの中間管理職なんだから。


 チャイムの音がする。母親はオートロックを外す。いつもより早い帰宅だった。

 父親は鞄を妻に預けると、上着だけ取って食卓の椅子に腰掛けた。トモコは恐る恐る近付くと、ありったけの勇気を込めて言葉を出す。彼は彼でどう切り出すべきか考えているようにも見えた。


「お父さん… あの…」

「…ああ、お茶、いれてくれないか、トモコ」


 え、と彼女は驚いた。今までそんなこと言われたことはなかった。


「あなた、私が…」

「トモコに言ってるんだ」

「はい… 日本茶でいいですか?」


 そして母親の居る前でトモコはいつもしているようにお茶の道具を取りだした。お茶と言っても別に特別変わったことをする訳ではない。ただ、冷蔵庫にやや長い時間入れておいた塩素を飛ばした水を沸かし、きっちりお茶の葉の量をはかり、ちょうどいい温度を見きわめて湯を注ぐだけのことだ。

 それを温めた湯呑みに入れ、ある程度冷ましてから飲むべき人に出す。ただそれだけだ。別にそれ以上のことはしていない、とトモコは思う。


「はい」

「ありがとう」


 父親は手に取る。さほどに熱くない。手に取って持てないような熱さでは駄目だ。一口すする。


 …


 どうだろう。トモコはじっと父親の様子を見る。何か言ってくれないと、次の言葉を切り出すこともできない。

 父親はじっと目をつぶって一口、二口と茶を含む。

 息が詰まる。心臓の音が聞こえてくる。頭に血が上る。


「きちんと連絡を入れるなら、『手伝い』をしてもいいぞ」

「え」

「あなた!」

「どうして…」

「したくないのか?」


 トモコはぶるんぶるんと大きく首を左右に振る。したくない訳ない!


「どうしてですかあなた、あんなに反対していたじゃないですか」

「次の水曜の夕方にミーティングをする、とHISAKAさんは言っていたぞ。連絡を取るなら取っておきなさい」

「あなた!」

「…はい…」


 トモコはこの事態の変化に頭がなかなかついていかないのを感じた。

 それでも部屋を出て行きながら電話の方へ向かううちに理性はやや戻ってくる。


 どうやらお父さんはHISAKAと会ったらしいわ。


 そこでどういう話が展開したのかどうか判らないが、とにかくいい方向を向いてきたのは確かなようである。部屋へ一度戻って、HISAKAの連絡場所の書いてあるメモを取り出してみる。


 父親は先ほどまでお茶の入っていた湯呑みをじっと見つめていた。母親は信じられない、という顔つきで同じことを繰り返す。


「…どうしたっていうんですか?! 何かそのバンドの子に言い含められたって言うのじゃないでしょうね?」

「やめなさい」

「いいえ、やめません。あなたはトモコが可愛くないんですか? あんな不良ばっかりいるような所…」

「お前はトモコに家事をさせたことがあったか?」


 え、と不意な質問に母親は眉を寄せる。毎日綺麗に整える眉だ。


「お茶を入れさせたことはあるのか?」

「…ありませんよ」

「何故だ?」

「…下手に使ってけがでもしたらどうするんです」

「何もしなければけがをするのは当然だろう?」

「あなたはキッチンのことなんて何も知らないんだわ」

「学生時代のことを覚えてないか? お前と結婚する前、俺は自炊していたんだぞ。大して器用じゃない俺だって、危なっかしい手付きながらも何とか食える料理は作ってた」

「その頃の台所と今のキッチンとは違います」

「どう違うんだ」

「あの頃は『作れればいい』場所でしかなかったでしょう? 今のキッチンは違うのよ」

「だから」

「ここは私の場所だわ」


 父親は湯呑みをテーブルに置く。そしてキッチン全体を見渡す。ひどく綺麗だ。ステンレスの流しから調理台、フードファンの隅々、汚れの一つもない。戸棚にはよく磨かれたステンレスの厚手の鍋やケトルやボウルが並んでいる。壁に吊るされたネットには統一された色の柄のついたバタービーダーやしゃもじが同じ間隔で並んでいる。

 そして横文字の洗剤がカラフルなネット入りスポンジやスチールたわしと共にその片隅に存在を証明している。


「だからお前はその自分の場所をトモコに壊されたくなかったのか?」

「いけないというの?」


 ふう、と彼はため息をつく。彼は妻に言ってやりたい気分は大きかった。


 それでもトモコはそんなお前に気付かれないで、ここまで腕を上げていたんだよ。


 妻は決して気付いてはいなかったろう。そしてトモコは気付かれないようにしていた。それは小さな歪みかもしれない。だが拡大する恐れのある歪みだった。

 彼がここで気付いたのは正解だったのだ。


「どうしてお前はこのキッチンでトモコと一緒に料理しようと考えなかったんだ」


 どうしてって、と彼女は詰まる。


「あなたに何が判るって言うの」

「何だ」

「あなたには判らないわっ!」


 表情が歪む。ばん、と彼女はテーブルを両手ではたいた。


「私が、悪いって、言うの!?」


 彼は驚く。もう十何年も見たことのない態度だ。


「私に家にいろって言ったのはあなたじゃないの!」

「確かに言った。子どもが可哀そうだ、と」

「じゃあ私は可哀そうじゃないっていうの!? 来る日も来る日もひ弱な子供の世話で明け暮れて、せいぜい高卒の、私の話すことの半分も理解ではないような大して学もないその辺の奥さん達とご近所だって理由だけで付き合わなくっちゃいけなくって、全然昔のようにアカデミックな話なんてできなくて、にこにこにこにこ毎日毎日笑顔ばっかり振りまいてろって?やっと手が掛からなくなったからそのご近所さん達に『良い品物』を教えてあげるのが何が悪いって言うの?」

「だから今は好きなことをしているのだろう?」

「いいえ好きって訳じゃないわ、そうよ楽しいのよ、ええ、あの無知な奥さん達にこれこれこういういい物を私は誰よりも早く知ってるんです、だから貴女方にも見せてあげましょう、分けてあげましょうって言うのはすごく楽しいわ、気持ちいいわよ、凄い優越感に浸れますからね。だけど別に『好き』で始めた訳じゃないわ、『暇つぶし』よ。家事なんて効率よくやればすぐ終わるわ。だけどその余った時間をどうすればいいかなんてあなた何も言わなかったじゃない! …あなたには判らないのよ。私の今の立場で選べることは少ないって!」

「確かに俺が悪い部分もある」

「そうよあなたが悪いのよ!」


 つかみかかりそうな勢いで彼女は彼に迫る。


「俺が悪い部分ならどれだけでも罵倒しろ、ずっと黙っていた分だけどんどん言え。殴るでも何でもしてみろ、好きなようにしてみろ。だけどトモコはお前の一部じゃない」


 彼女はびく、と手を止める。


「お前が、そういう感情を持つのは勝手だ。だがそれでトモコがずっと罪悪感を持ってきたなら… それは俺も含めて… 親として失格だ」

「何で罪悪感を持つ必要があるんですかっ」


 彼女は頭を振る。どうしても理解できない。


「誰があの子を責めたっていうんです? 私が何か言ったとでも言うんですか?一度だってありませんよ、そんなこと」

「だけどキッチンに入らせたくなかったんだろう?」

「ええもちろん」

「でもトモコは入っていたんだろう?」

「そのようですね」


 ややむっとしたように彼女は言う。


「どうしてお前は怒るんだ? ここは我々の家で、このキッチンは『我々の』キッチンの筈なのに、どうしてトモコはおびえなくてはならないんだ? お前に気付かれないようにしなくちゃならないんだ?」

「ここは『私の』場所です。トモコのものじゃあないわ」

「それがお前の本音か」

「ええ」


 そうか、と彼はあきらめたようにつぶやいた。


「トモコは短大にこのままなら入れるだろう? どの学科にせよ」

「…え? ええ」

「そして短大を出たらどうさせるつみりだ? 身体が弱いからってずっと我々の手の中で眠らせておくのか?」

「…論点がずれているわ。ロックバンドみたいなところで…」

「トモコが言っていたバンドはな、全部女なんだが… リーダーに会ってきた」

「…」

「『あんな恰好してるくせに』頭が良くて、音楽に真面目で、…俺もお前も知らなかったトモコの特技を俺に教えてくれたよ」

「あなたその女に変に…」


 目を吊り上げて彼女は聞こうとする。


「身長が俺より高い金髪の女に俺は何も感じん」


 やれやれ、と彼は思う。

 仕事が忙しかったのは事実だ。家は眠る場所に過ぎなかったのも事実だ。

 そして妻を欲求不満にしてしまったのも、どうしようもない事実だ。欲求は、単に良人がそばにいない、ということだけではない。大学のクラスメートが転じて夫婦になった自分達だから、社会に出る出ない、といったことも必ず何処かにあるのだ。

 だがそれは自分達の問題であって、娘をひきずり込む問題ではないのだ。引きずり込んではいけないのだ。自分達が親というものでありたかったら。

 だから彼は選択した。娘の美点一つ気が付けない一見「普通な」母親よりは、「まともじゃない」恰好でも、誰よりも先に娘の良い所を認めた者の方がましだ。

 少なくとも、あの連中に会うまで、トモコはずっと自分を責め続けていたのだろうから。

 その後どうなるかは判らないが、短大の時期くらい、この母親から解放してやってもいいのではないか。HISAKAも言っていた。うちの料理の達人は元医者だから多少のことなら大丈夫、と。

 他のそういうバンドがどうかは知らない。だがあの女達は大丈夫ではないか。

 彼は珍しく確信めいたものを持ったのである。



 学生時代以来の感覚だった。

 バイト先のレンタル屋には、出勤したら入口の名札をひっくり返す、という決まりがある。その日の番だったら表に返して黒い文字。休みだったり外出しているときは裏にして赤。黒札赤札とバイトも正社員も呼んでいるが、久しぶりに本城亜紗子さんの名が黒札になっていた。


「本城さん久しぶり…」


 そう声をかけた途端、キョウノさんは目を疑った。


「ど、どーしたの、その頭…」

「あ、似合いません? 今度のバンド結構派手だもんで」

「…は…」

「メンバーにもお客さんにも結構評判良かったんですがねえ… キョウノさん?」


 キョウノさんは固まっていたが、突然はっとして、


「かつらかぶってちょうだいっ!お願いっ」


 やれやれ、とP子さんは思った。

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