8 スタッフ「エナ」「マナミ」のできるまで
人は見かけによらない。HISAKAはそう思った。
窓の外から朝日の、まだ熱のない光が入ってくる。
屍累々、とはこういうことを言うんだろうか、と明るくなってくる辺りを見渡す。床だの椅子だのテーブルだの、思い思いの所に野郎どもが転がっている。しかもそれにいちいち毛布が掛けられているのが心憎い。どうやらこういうことは当たり前のようで、店の入口には初めからレンタルの毛布がカートンに山になっていた。
「どーやら残ったのはあたし達だけみたいね」
「そのようですねえ」
淡々とP子さんは答える。TEARとMAVOも一緒に毛布にくるまって自分達の隣にいる。
「アナタも強かったんですねえ、リーダー」
「あなたこそ… そうは見えないのに」
「いや別に… こんなのはまあ、慣れとかいろいろあるし」
「慣れるほど呑みなさんなよ…」
アッシュとの一気比べに簡単に勝った後もP子さんは淡々と呑み続けていた。時々料理に手を出すのだが、それもさほど多くはない。
一方HISAKAは騒いだ。現在はもうかなり覚めているのだが、時々ぷっつんと切れて、何やら訳の判らないいたずらを辺りにしていたらしい。ただ一度切れて、眠りもせずにまた正気に戻る、というあたりが珍しいのではあるけれど。どうやら自分のいたずらの産物らしい「らく顔」された彼らがやや遠くに転がっている。
「何か呑む? お二人さん」
そしてもう一人覚めている奴がいた。自分はアルコールを一滴も呑まないタイセイである。
「日本茶っ!」
「あ、ワタシもそれがいいですねえ」
「しぶいねえ」
そう言いつつも、タイセイはカウンターの簡易キッチンでお茶を入れてくれた。朝方ゆえやや冷える、とHISAKAとP子さんは毛布を半分かぶって引きずったまま、ずるずるとカウンター席についた。
「はいお茶」
とん、と横に梅干しや野沢菜の瓶詰めまで置く。
「タイセイさん絶対アナタ天職間違えてますよ」
「そおそお。ギター弾いてるだけなんてもったいない」
「人には趣味というものがあるでしょう?」
疲れ一つ見せない顔でタイセイはくすくす、と笑う。
「ま、それはそうですね」
「確かに」
ところがなかなかタイセイのくすくす笑いは止まらない。
「何、人の顔見てそんな笑うことないでしょ」
「いや、ここ最近思っていたんだけど、やっぱりそうだと思って」
「何ですか」
「あんた達二人とも似てるよ。全然一見そうじゃないんだけど」
「へ?」
「あん?」
同時に声が出る。
「この人と?」
そして互いに指差しあってしまった。
「何でかって言っても困るんだよね、だってここがこうしてどーの、という点で似てるんじゃないんだけど… ここまで周りがあーんな状態になるような時に残れるマイペースさってのは…」
「単に酒が強い同士ってことじゃないの?」
「あんた等どっちも呑んではいたけどね、呑まれてないから」
なるほど。そう言われてみればHISAKAも思い当たる。どうしても自分は自分を完全に失うほどには酔えない。多少の意識不明はあったにしても、必ず復帰するというのは。
「まあね、MAVOちゃんがP子さん気に入ったと聞いた時からそんな気はしてたんだけどさ」
「あれ? そーなんですか?」
「…そうなの」
やや複雑な表情でHISAKAは答えた。
「それは嬉しい」
「で結構最近HISAKA不機嫌だったじゃない。あんたにしちゃ珍しい…」
「うるさいわねっ」
そしてまたくすくす、と彼は笑った。P子さんはP子さんで首をひねっている。
「何でMAVOちゃんがワタシのこと気に入っててアナタ不機嫌なんですかね?」
「MAVOちゃんにでも聞いてみる?」
そう言うとHISAKAは立ち上がった。何やらかすつもりだ、とタイセイはカウンターごしに見ながら思う。HISAKAはソファで丸まっているMAVOに近付くと、屈み込んだ。ぽんぽんと背中を叩く。
「MAVOちゃん朝よ…」
「…眠いーっ」
「起きないとキスするよ」
「するから寝させて…」
まぶたが重くて重くて仕方がないから、最小限HISAKAだけ見える程度にMAVOは目を開けた。そしてのそのそと腕を彼女の首に回すと、そのままいつもしているようにくちづけた。回される腕が無性に暖かい。
「はいはい、じゃああと十分ね…」
「んー…」
そしてそのまままたずるずると丸まってしまう。ずり落ちそうな毛布の位置をきちんと戻してやると、HISAKAはP子さんの方を向きなおった。P子さんは相変わらず顔色一つ変えていない。そしてつぶやく。
「なるほど」
一方のタイセイは後ろを向いて洗い物をしている。別に今更、とは思う。彼とて経験は少なくはない。が、妙にこの二人が何やらしているところは心臓に悪い。見慣れないもの、ではあるのだ。
そしてやっとP子さんの顔に薄く笑いが浮かんだ。
「なんだ、アナタもしかしてワタシに妬いてました?」
「認めたくないけどそうらしい」
「だったら妬く必要なんてありませんよ。どーう見たってあの子アナタ好きじゃないですか」
「そお?」
「そおですよ」
「本当?」
「嘘ついてどうすんですか」
お茶のお代わり要りませんか、とタイセイが声をかけた。
*
ライヴ日程が決まった。十月はバンド強化月間、ということで、週一で出演するのである。ただしそれは全て対バンありである。
そしてスタッフ第一号となったナホコの元に電話がかかるのだ。
「…はい… ナーホーコーっ電話ーっっっっっ」
玄関近くの電話を取ったナホコの母親は二階の彼女に向かって叫んだ。はいよーっ、とか言ってどたどたと階段を駆け下りる。慌てすぎて踏み外すのではなかろうか、と受話器の向こう側の人間は考えずにはいられない。
だがどうやら無事だったようで、ナホコは母親からふんだくるようにして受話器を取る。と、いきなり爆笑が聞こえた。
一体何じゃ、と思いつつ、あまりの大きさに受話器をやや耳から離していたら、その笑い声とは別の声でもしもし、というのが聞こえたのでこれまた慌てて耳に当てる。
「もしもし?」
『あ、ごめんね、ナホコちゃん、HISAKAです』
「HISAKAさんっ!はいはいはい… あの、今笑ってたの…」
『あ、ごめん、あれTEARとMAVOちゃん』
「…」
『だってそっちの様子がすげえよく判っておかしかったんだよーっ』
TEARの声が混じり、また思い出したらしくげたげたと笑う声が聞こえてくる。
「おかーさんまた受話器押さえなかったでしょ」
「あれ? そーだったかしらねえ」
何のことかしら、と言いたげな顔をしてそのまま母親は茶の間へと退場した。
『今もナホコちゃん押さえてなかったって』
『遺伝だわっ遺伝っ』
HISAKAとMAVOの声がだぶる。
「で、…あの… 用件」
『あ、ごめんごめん。ライヴのお知らせ。今度**日にあるから、日曜日だし、手伝ってくれるんでしょ?』
「あ、はい!」
『でも無理はしないこと』
「もちろんですっ… あ、友達連れて行っていいですか? こまごましたことなら出来る子だから」
『女の子ね? 一人?』
とHISAKA。
「一人です」
『もしもあの時の子なら、よく目開いてみな、と言っといて』
MAVOはそう言った。
『じゃあ日曜の、昼くらいにオキシに来てね』
「はいっ」
電話はすぐに切れた。ナホコは少し考えると、そのまま指が覚えている番号を押した。
何をMAVOが指摘し、何にトモコが怒ったのか、そのあたりはナホコにはいまいちよく判らなかった。だいたいトモコの悩んでいること自体がよく判らない。
考えなくてもいいようなことまで考えてるんだもの。
ナホコは基本的には悩まないことにしている。と、言うか、悩んでどうにかなることと、そうでないことを生活と本能で掴んでいるのだ。
悩んで悩むだけで解決するものごとなんて無い。悩むのもいいが、結局悩むのは動くための答えを選べないだけのことじゃなかろーか、とナホコは思う。
だったらどうせ悩んでも悩まなくても結論が同じなら、悩むのはエネルギーの無駄だと思う。とりあえず当たって砕けろ。それがわが家のモットーなのだ。
母親と父親の結婚だってそうだった。国立大学に通う、あんまり裕福ではないがのんきな恋人達が、とりあえず結婚してみるか、で始めたらしい。それが結局ここまで延々と気楽な状態が続いているのだから立派である。もちろん苦しい家計の時もあったし、ケンカはそれなりにしてはいる。だけど結局、「ま、いーか」で最後は収拾がつくのである。終わり良ければ全てよし。
「あ、もしもしタカハシさんのお宅ですか…」
*
P子さんは課題を提出されていた。呑み会のあと、HISAKAに「髪染めて派手にしてきてね」と言われていたのだ。
美容院に行ったはいいが、P子さんはどうしたものかなあ、と珍しく悩んでいた。HISAKAの言い方がいまいち抽象的だったので、ただ単に金髪にすればいいのか、それとももっと別の色に染めればいいのか、予想がつかなかったのだ。
「…どうします?」
と若い店員が訊ねる。
「…そーですねえ…」
どーせ派手なら、ま、いーか。
「赤にして下さいな」
*
最初に驚いたのはマリコさんだった。
「は?」
次に驚いたのはMAVOだった。
「わー… 真っ赤…」
「似合いません?」
P子さんは言う。
似合うとか似合わないとかそういうことではない、とマリコさんは思う。よく思い切ったなあ、とMAVOは思う。やっている本人は実に淡々としたもので、実際HISAKA宅へ来るまで結構周囲の目を引いていた。何しろ住宅地である。非常にその髪の色は風景から浮いていた。
「おやまあ」
「ほほー」
とHISAKAとTEARは立て続けて声を立てた。
「これはこれは」
TEARはにやにやと笑う。
「派手にという御注文でしたからね、派手にしてきましたよ」
「上等」
うんうん、とHISAKAはうなづく。まさかここまでしてくるとは彼女だって思わなかった。せいぜい色を抜いてくる程度かな、と思ったのだ。
だがよく考えてみたら、P子さんはあんがい合理的考え方の持ち主でもあった。どうせ派手、がエスカレートするなら、当初から人の度肝を抜く方が楽。「楽」という方向に考えが向くのが彼女と言えばそうなんだが、実はHISAKAの「合理的」も、「厄介なことはなるべく簡略化」というのと根の部分では変わらないのだ。
「…さてこれをどうデコレーションするか…」
ふむ、とHISAKAは考え込む。
「あの子そういうの結構得意そうじゃねえ? ナホコちゃん。いつも結構凝った髪型してるじゃん」
「そーねえ… じゃ日曜に来る時に聞いてみよう」
「あんた方はいつもどーやってんですか?」
「あん? あたしは立ててもらってるけど」
とMAVO。確かに、とP子さんは思い返す。さすがにアレを自分一人でやるのはなかなか苦労するだろう。
「であたしはそのそのまんまで、HISAKAはまあ演奏する時にかけている扇風機、かな」
「…何ですかそりゃ」
「髪が自然になびくのが一番恰好いい髪型なんだとさ」
「悪いーっ? 暑いからちょうどいいのよっ」
「別に悪いなんて言ってやしねーって」
げらげら、とTEARは笑う。
*
「…派手に、ですか?」
ナホコはどちらかと言うと、P子さんの髪の色より、それを自分に何とかしてみろ、と言われた方がショックだった。
「ナホコちゃんいつも結構面白い頭してるじゃない。手先器用でしょ? 髪立ての方法は説明するから」
「は、はあ…」
どーうしましょ。ナホコは気が抜けるのを感じていた。ほー、と感心したように横でトモコが聞いていた。何やら大きなバスケットを下げている。
「…ああやっぱり来たんだ」
そのトモコの姿を認めるや否やMAVOはそう言った。
「来ました」
「じゃあしっかり見ていって」
「…はい」
P子さんはその様子を表情も変えずに見ていたが、すれ違い際ぽんぽん、とトモコの肩を叩いた。何ごと、とトモコは思ったが、P子さんの表情からは何も読みとれなかった
*
取り立てて本日のライヴは変わったところはないな、というのがナホコの感想だった… 音に関しては。
確かにP子さんが入って最初のライヴであったに関わらず、音に関しては全く違和感がなかったのである。だが。
まず客がどよめいた。
登場用の曲は大して決まっていない。だからHISAKAが「これ使おう」と言った時、皆「ああいいよ」で済ませたものだった。その時HISAKAの口元がやや緩んだことには気付かず。
じゃん、とスピーカーから音が溢れた。
何何、と「関係者入口」からフロアに出ていたナホコはトモコと顔を見合わせる。MAVOがフロアで見ていきな、と言ったためだった。
それはあまりにも「ロック系ライヴハウス」とは無縁の音だった。
「…これってブラスの曲じゃない…?」
先に気付いたのはトモコの方だった。
ブラスぅ? とナホコは口を歪めた。生きのいいトランペットとトロンボーンの音がチューバとユーフォニュームとティンパニの音に乗っかって客に襲いかかった。
一瞬呑まれるかと引いた客もすぐさま体勢を立て直した。
腕を高々と上げて登場するTEAR。HISAKAはいつもよりのんびりと歩いてドラムセットの所へ行く。
そしてMAVOと、その少し前をP子さんがのそのそと歩いた。
あん? とナホコは一瞬首を傾げた。自分で作った髪型なのではあるが… 楽屋で見るのとステージで見るのではこうも違うのか、と。
あまりたくさん時間がある訳ではないから、「とりあえず派手」というリーダー殿の御意見に従って、立てたり結ったりして広げる所は広げて、締める所は締めてみましょう、とやってみた。茶髪の発展形の色でもなく、赤毛のアンの「にんじん」色でもない、本当に「真っ赤」な髪なぞ触るのは始めてだった。
まあ編み込みだのウェーヴ付けるのは自分ので慣れてる。自分の頭で後ろに編み込みができるくらいだからナホコは器用である。だがこのP子さんの顔にウェーヴくるくるは似合わない、と思った。あまり派手な顔ではないし、甘い顔立ちでもないので、どちらかというと髪はまっすぐのままの方がいいと思った。
「…どうなっても知りませんよ…」
「別にどーなってもいーですよ」
そうP子さんが言うので、ナホコはお言葉に甘えさせていただくことにした。
結局、全体を上部と下部に分けて、上部は始めて使う、超ハードな(その後これは別名スプレーのりとMAVOに命名された)ダイヤスプレーで立てて固めた。長さが均一という訳ではないので、根本は固めたが毛先の方は広がるにまかせた。
「…おー派手なほうき」
鏡をのぞき込んだP子さんは、ぼそっとそう言った。ナホコも的確な表現だ、と鏡の中のP子さんに苦笑いを返した。
残った下の髪はどうしよう、と思った結果、もうさほど時間もなかったので、細かい三つ編みを大量に作ることにした。三つ編みは誰でもできるが、「綺麗に・細かく」という条件をつけると、手先の器用さが物を言う。
どうなったーっ?、とセッティングを済ませて入ってきたHISAKAがのけぞったのを筆頭に、その後入ってきたメンバーとマリコさんとタイセイとオキシの照明スタッフを驚かせたのは言うまでもない。だが作ったナホコですら驚いているのに、当の本人は振り心地を面白がっていた。
TEARはそれを見ると、面白いからあたしのもやって、とストレートになっている部分の三つ編みを頼んだ。そしてHISAKAはどうしようかな、という顔をしていたが、まあいいか、と自分の髪に手は加えなかった。ただ、出る寸前に、いつも後ろでくくっているゴムを外した程度だ。従って、いつもならせいぜい乱れ飛ぶのが前髪くらいなのに、実に本日は広がったと言っていい。MAVOは、というと三つ編みと聞いて、あたしもやらせてやらせて、とTEARの髪を半分編んでいた。
「何かこれだけじゃ淋しいな…」
「何かつけよーよ」
と言う訳で、近くの手芸屋に急ぎトモコが走らされて、カラフルなビーズを買ってきてつけた。
結果として、見かけに関しては、いつもの倍以上のインパクトのある状態になってしまったのである。
髪型を変えると服の方だってやや変えたくなるのが人情である。服を買えればアクセサリーだって変えるなり増やすなりしたくなってもおかしくはない。
さらに結果として、TEARはいつもの倍のアクセサリーをつける羽目になってしまった。ペンダントと腕輪の数が遠目で見ても判るくらいに増えている。
見た目が変わったら、何となく登場のパターンも変えたらいいんじゃないかな、とリーダー殿がのたもうた。いきなり何、と驚くナホコにお構いなし、メンバーは「あ、それ面白え」とパチパチと手を叩いた。HISAKAは電話で後から来るというマリコさんにに何やら指令していた。言葉の端に何とか序曲がどうとか、あまり聞き慣れない単語があったのをナホコは記憶している。
「何とか序曲」の正体は結局知れないが、自分の知識の範囲外のものであるのは確かだった。
その間いまいち暇そうだったトモコはちょこちょこ、とそこいらを歩き回っていたが、見当たらないのに気付いたナホコが捜したら、簡易キッチンの中にいた。
「何してんの」
「あ、飲み物用意しようと思って…」
ナホコは直接メンバーにこの友人が今は声を掛けづらいのを知っていたから、何気なくライヴ中とライヴ後の飲み物は何がいいか訊ねた。
「あーそうね。ライヴ中はウーロン茶とかミネラルウォーターだから、マリコさんが来る時持ってくるわ。ライヴあとは…」
そう言いかけて、ははん、という表情になってHISAKAは、
「まかせるわ。欲しそうなものを考えて」
「はい?」
にっこりとHISAKAは笑う。彼女のファンであるナホコがその笑いに逆らえる筈はない。
簡易キッチンで小さくなっているトモコにそれを伝えると、しばらく考えていたが、やがてごそごそと動き出した。
*
演奏が始まった。だがいつ終わったかは覚えていない。
気がついたらトモコは、人混みの後ろ、段差と柵にもたれさせられて、チラシで扇がれていた。
「あ、気がついた。大丈夫タカハシ?」
「あれ?」
トモコは自分の置かれている状態がいまいち把握できなかった。
「何でここにいるの?」
「…いきなり最前に突進したのはだあれ?」
「…あ、そーか」
「大丈夫?」
マリコさんが出てきた。
前の連中は終わってもなかなか動こうとはしない。結構疲れているということもあるが、まだ物足りない、という少女達が大半である。
対バンが本日は二つ、ということもあって、曲数も少ない。この月のライヴは何よりも本数、だった。ただしその少ない曲は、毎回メニューを変える予定である。もちろんそれは「新曲もあるのよっ」と嬉しそうに言うリーダーの御意見の反映したものである。
「脈も呼吸も大丈夫… と。頭くらくらしてない? 立てる? 気持ち悪くない?」
人混み酔いと酸欠の典型的症状を起こしているのだ、とマリコさんはすぐに気付いた。立てる、とトモコが言うと、じゃおいで、と再び二人は関係者入口から中へ入る。
「野戦病院みたいに全員の手当してあげたくもあるんだけどね」
だけどそんなことしていたらきりがない。マリコさんは別にこのライヴハウス専属の医者ではないのだ。あくまで自分はこのバンドのためだけのもの、そう考えて、その態度にはけじめをつけることにしていた。
もともと彼女は関心のない人物には冷淡とも言えるくらいの態度を取ることが多い。ナホコはHISAKAがスタッフと決めたからであり、そのナホコの友達だから構っているが、これがただのナホコの「知り合い」程度だったら放っておくだろう。その点がほぼ「顔見知り」程度でも世話を焼いてしまうナホコとは違う点であり、まだナホコには理解できない人種なのである。
ただ無論、この時点のナホコやトモコにそんなことは判らない。マリコさんはあくまで親切なお姉さん、という印象しか持たれていないのだ。
ナホコが肩を貸す恰好でトモコは中へ運び込まれる。既に楽屋には汗をかいたメンバーが戻ってきていた。HISAKAはいつもの通り整理運動と称して肩や腕や首をぐるぐる回しているし、取ったペンダントやタオルが散乱しているテーブルにはドリンクのポットがでん、と置かれている。
「これいーんでしょ飲んでも」
とMAVOが顔中にクリームを塗ったくりながらポットを指す。
んじゃ、と汗で半分メイクが落ちているTEARが取り上げてそばにあった大きなコップに注いだ。あ、麦茶?と誰かが言う。トモコは何か言おうとしたが、まだ頭の中だの胸のへんだのがぐるぐる渦を巻いているようで、言いたいことが言葉にならない。
おー冷た、と言いながらTEARは口に含む。お、と微かに表情が変わる。そしてにんまりと笑うと、もう一度ポットを取り上げて、他のコップにも注ぎ始めた。
「どしたのTEAR」
「まあ飲んでみMAVOちゃん」
勧められるままにMAVOは急ぎクリームをぬぐうと、コップに口をつけた。
「…あ、おいし」
一口飲んだ瞬間、そんな言葉がもれた。
「どれどれ」
とP子さんもHISAKAも手を出す。そしておやまあ、と二人して顔を見合わせた。
「でもこれいつものマリコさんのじゃあないな」
TEARは一杯飲み干して、二杯目に口をつけながら言った。
「ええまあ。今回は私じゃあありません」
マリコさんはそう言って、隅の椅子にちょこんと座らされているトモコを指した。
「へー… 意外な才能」
? と何のことやら判らない、という表情でこの事態を眺めていたナホコに、TEARは自分の二杯目を押しつける。だが飲んでもただのやや香ばしいお茶、という感じしかしない。
「…運動した後のひとに、美味しくなるようなものにしたんです」
ナホコが首をひねっているのを見て、ようやく口のきけるようになったトモコは言う。
「だから今アカサカが飲んだって別に大したことないよ」
そこまで考えたことはなかったわ、とマリコさんまでも感心してみせる。TEARとP子さんはトモコに偉い偉いと頭をくしゃくしゃとかき回す。身体は大丈夫、とHISAKAは訊ねた。
「あ、もう大丈夫です。さっきは気持ち悪かったけど…」
「で、どうだった?」
TEARはにっと笑う。
「…うん、やっぱり… 凄いな、と」
「とーぜんよ」
ふふん、とMAVOはにっこり笑う。
「あれ、もう普通のお茶になってる」
P子さんが自分のコップに残ったお茶を飲んで言う。HISAKAも試してみて、あ、本当とつぶやく。
「才能あるお茶くみのお嬢さん、名前はタカハシ… 何て言ったっけ?」
「あ、トモコです。タカハシトモコ」
「うちの専属お茶くみ主任になってくれない?」
「はい?」
「いやこれは才能だってば」
「そうそう」
口々にメンバーは言う。そしてしばらくその騒がしいメンバーの中で、何やらMAVOは考えていたのだが、
「…あれ、名字で呼んでるんだ」
ナホコとトモコの会話を聞いていて、何となく引っかかっていた疑問が形を取ったのだ。
「え?」
「仲いいのに」
「…いや別に… でもいまいちこのヒトにトモコって名前ぴんと来ないから…」
「あたしも」
なるほど、とHISAKAは思う。ライヴで出会った相手は教室のなれ合いの友達とはややニュアンスが違う。共通の興味を持った「仲間」である。そのニュアンスの違いが、教室の友人とは別の呼び方を互いにさせるのだろう、と理解した。
「では何とか持ちこたえたタカハシトモコちゃんとその同志アカサカナホコちゃんにコードネームをあげよう」
リーダーの一言は鶴の一声。だがどんな名がいいか、まではHISAKAのこの思いつきの中にはなかったんで、これまた自分の「同志」の方を見る。
と、MAVOは不意に右の人差し指を立てて、トモコの方を指した。
「こっちが『エナ』ちゃん」
え、とHISAKAの口から小さく声がもれた、とP子さんは思った。実際には出ていなかったのかもしれない。コンマ1秒のことだったかもしれない。既にHISAKAはもとの笑いを浮かべていたから。
「でこっちが『マナミ』ちゃんね」
「は? はあ…」
言われた二人は突然の事態に茫然としていた。そしてその茫然を破ったのは楽屋へやってきたタイセイだった。
「あれ二人ともまだ居たの? 時間いい?」
「はい?」
ナホコ=「マナミ」は壁の時計を見上げた。丸い、白地に黒の大きな文字盤に針はしっかり現在の時間を指している。
「…げっこんな時間… おいっタカハシっ急げっ!」
「送っていきましょうか?」
とマリコさんが声を掛ける。
「あ、いーです、こいつはあたし送っていきます。この子のうち、もともとロック駄目なんですよっ」
「ありゃりゃ」
やっぱり環境のせいだわ、とMAVOは内心つぶやく。どうして似た人間は似た環境の元に育ってしまうのか。ややMAVOの顔に苦笑が浮かんだ。P子さんは何を考えたかそんなMAVOの後ろに回ると、いきなり肩をもんだ。
「な、何?」
「ああやっぱり凝ってる…」
「はい?」
「あまり悩むと肩こりますよ」
はあ、とMAVOは答えるだけだった。
「やっぱり駅までは送るわ、いらっしゃい」
マリコさんは車のキーをジーンズのポケットから出してみせた。
「ハルさんこっちは渡しときますから」
「はいな」
マリコさんはぽん、とキーを放った。綺麗な孤を描いてそれはHISAKAの手に収まる。
「反対されてるん?」
TEARは帰り支度をするトモコに訊ねる。トモコは黙ってうなづく。
「本当にそう言われた?」
「父さんから直接言われた訳ではないんです。いつも帰り遅いからそうそう会う機会ないし… だからそう直接言うのは母さんなんだけど」
「じゃあ一度直接聞いてみな」
「え」
「うちはあんたのお茶くみの腕が欲しい。マリコさん以上にうまく煎れられる奴なんて滅多にいないしね。でもあんたに無理強いはしたくないし、あんたにはあんたの事情もあるだろうし」
「参加はしたいです」
「本当に?」
ああまたか、とTEARは割り込んできたMAVOの背をぽんと叩く。
「ちょっと今はあんたは黙っといで」
はーい、とMAVOは大人しく引き下がる。
「別に皆が皆興奮して参加しなくちゃいけないということではないからね。あんたに少しでもそういう気があるなら、うちは歓迎する、ということだよ。ただ『エナ』ちゃん、それでもそこんところは気になるんだ。親父さんと最近マトモに話したことない訳だろ?」
「…ええ」
「話さないうちからあきらめるのは、最初っから負けてると思う」
「…それは判るんですけど」
「けど?」
「だけど… どう言っていいんだか判らなくなるんです。言いたいことはたくさんあるんだけど、それを何処から言っていいのか、どうやって言っていいのか、全部言っていいのか、それが本当に言っていいことなのか、突然混乱しちゃって、言葉が出なくなるんです。父さんだけじゃない、『強い』人の前に出ると…」
「…でもな」
TEARはトモコの肩をぽんと叩く。
「それでも言わなきゃならねえことだってあるんだ」
「それでも言える勇気が出なかったらどうすればいいんでしょう?」
「ふむ」
肩を叩いた手でそのままトモコの頭をくしゃくしゃとかき回す。
「とりあえず三つ数えな」
「三つ… 数ですか」
「うん。まだ中学くらいの時に好きだったバンドの曲にそういうのがあってさ、とりあえずそれだけできる余裕があれば大丈夫だ。ただしほとんど祈るくらいの感じでさ」
「それで大丈夫ですか?」
「本当に大丈夫かどうかは判らないさ。だけど、別に全くあんたの話を聞く体勢もない奴が相手って訳じゃないんだ。あんたがそうする程度の時間は待っていてくれるだろうし… 待ってくれないような相手なら、あんたと話をする資格はないさ」
「そういうものですか」
「そういうものです」
HISAKAも同意する。
拒否しているのはトモコの方である部分が強い、とTEARは思う。だがそれを言ってしまったらトモコは余計に言えなくなる。
「人のことを考えるのはいいけどさ、誰も辛いあんたを見てしあわせにはなれないよ」
「辛そうですか?」
「さあ」
行きますよ、とマリコさんが声を掛けた。