4 穏やかな夏のごはんと穏やかではない彼女のトラウマ
午後六時のチャイムが何処かで鳴っている。
「こんちはーっ」
「あ、TEARさん、ごきげんよう。今日はどうしました?」
にこやかに鉢植えの観葉植物に水やりをしているマリコさんの姿が目に入ったから、何となくさわやかな気分になってTEARはあいさつをする。
マリコさんはグレーの長袖Tシャツにパステルカラーの大きなエプロンをかけている。いつも上の方だけで止めている髪は首のあたりでくくっているので、ちょっといつもと印象が違う。
「いや、電話しといたはずなんですけど。あたしの曲あったら持ってきてとか言ってたから」
「あらあら」
鉢植えは、あまり広くはない庭にありったけ並べられているようにも見えた。アジアンタムくらいなら友人が前持っていたから、とTEARも名は知ってるけれど、他の鉢植えはよく判らない。
ちら、と目を移すと、鉢でない地面に、柔らかそうな花が優しい色合いで咲いている。
「何ていいます? あれ」
「ああ、あれ? ゼラニウム」
「…聞いたことない」
「あっちの方には桔梗が植えてあるから、もう少ししたら青紫の綺麗な花が咲くのよ。その向こうはインパチェンス」
と赤い花を指す。
「へえ」
TEARは花のことなどさっぱり判らなかったが、この人が花にたわむれているのはなかなかいいものだと思う。
マリコさんに関しては、TEARは最初から好感を持っている。まず料理が上手いというのが最大のきっかけだったが、それだけではなく、彼女は実にいろいろなことをこなしていたからである。それを鼻にかける訳でもなく、ごくごく自然に。
そう思えば思うほど、この人とHISAKAとMAVOってのは何なんだろう、と思う。
姉妹だろうか。でも姉妹だったら… どう見ても「姉」の年齢のマリコさんがHISAKAに敬語使ったり、HISAKAがマリコ「さん」というはずもないし… さらに言うならMAVOはさらに判らないのだが… 居候と冗談めかして本人は言っていたが、単純に信じるにはその単語はあまりに似合わない。
「夏の向日葵だの朝顔くらいなら判りますけれど、そういうのは初耳で」
「そういうものよ、誰だって。私はたまたま好きなだけ」
「たまたまですか」
「だってあなた達の楽器を見たって私には何処のメーカーも一緒に見えますもの。それと一緒でしょう?」
「なるほど」
そう言われるとそうかもしれない。
「今日も暑かったわね。バイト帰り?」
「ええ。稼げる時にはそうしておかないと、食っていけないし」
ふうっとマリコさんはため息をつく。
「偉いわね… うちのあの子達は今日も一日楽器と戯れてたけど」
「出来ればあたしだってそうしたいですよ。でも食わなきゃならないからそうしてるだけで… できるんならそうした方がいいですよ」
「そおかしら」
「そうですよ」
そうかもね、とマリコさんはつぶやく。
「ごはん食べていくでしょう? 今日は暑かったから冷やし中華にするつもりよ。好き?」
「マリコさんの作るものなら何でもっ。実はもの凄くお腹空いてるし、目当てにしてたんですよっ」
「そう? 頼もしいわ。うちの連中ときたら全く少食なんだから」
後で冷たいもの持ってくからね、と言ってマリコさんはキッチンに引っ込んだ。
「うちの連中」は楽器を使える部屋にいるという。
この家は、まあありきたりな一軒家ではある。ただし、その「ありきたり」は、並以上のサラリーマンがある程度の年齢になって、ローンで建てる類の2階建て5LDKという奴であり…少なくとも、こんな若い女三人が住んでいるというのはとても妙だった。さらにその中の一つの部屋には防音までしてある。
いったいこいつら何やって生活してるんじゃ?
それは出会ったその日からの疑問ではある。が、あまりにもその家で与えられるものが気持ちいいので、ついつい疑問を持つ心に鍵をかけてしまう。
防音の効いた部屋は1階にある。2階がそれぞれの私室になっていて、下は防音の部屋とリヴィング、そしてLDKである。明かに「音楽をする」「三人で住む」ことを前提にした家だった。
HISAKAはその防音の部屋を「練習室」と呼んでいたが、MAVOは面倒だから、と「スタジオ」と言っている。
その「スタジオ」はだいたい十畳くらいの大きさで、中にはアプライトピアノとドラムがどん、と鎮座ましましている。
「引っ越してくる前はグランドピアノだったんだけどね」
とHISAKAはぽろっともらしたこともある。
「弾けるの?」
TEARはその時訊ねた。HISAKAはその時はこう答えた。
「少しは」
じゃあよくある、子どもの時レッスンさせられたアレ、かなとTEARはその時はそう解釈した。
「アンプとか置いてもいい?」
「持ってこれるならいいよ」
で、現在はTEARのアンプもその部屋の仲間入りをしていた。
楽器だけではなく、居心地のいいカウチもあって、フローリングの床に寝ころぶには疲れている日にはそこを占領したりする。だが、本日はそのカウチには先客が居るようだった。
ドアがぴったりとは閉まっていない。閉まってなくともいいのだろう、音は出ていない。入っていいのかな、とそっと重い扉を開ける。
誰も、いないように見えた。
…
だが気配はある。
何をしとるんじゃ、とTEARはふと中を見渡す。
カウチの向こうに薄い色の金髪が動いた。あの色はHISAKAだ、とTEARは声を掛けようとした。と。
「…」
声を立てようとした瞬間、もう一人の気配を感じた。この気配は。
TEARは知っていた。
人間が絡まる音だ。微かな濡れた音、押し殺した喉の奥から漏れる声、細かな家具の振動。
息を飲む。
こん、とTEARはドアを指で弾いた。
はっとHISAKAは身体を起こした。そしてその半ば下になっていたもう一人も。
「…TEAR」
「来てたの?」
甘ったるい体臭が微かにその瞬間部屋中に広がった。それは彼女達の髪の香りだの、見られたことに対する緊張の汗の香も混じっているかもしれない。見られた。
「うん」
あっさりとTEARは答えた。
「前から作ってた曲のテープがあったからさあ」
「あ、曲…」
「あるなら聴いてみたいって言ったのはあんたじゃなかったか?」
「…そうだね…」
「TEARいつから居たの?」
MAVOは起きあがって訊ねる。さほどに服は乱れてはいない。ついさっき、とTEARは答える。
「じゃあ見たのね」
「何を?」
「…」
そう問われると答えにくい。
「何をしていたのかを、ならYES。邪魔して悪かった。でもこっちの約束が先だからね」
「…はあ」
「とにかく曲!」
TEARは荷物を床に置いた。
HISAKAもMAVOも自分の気が抜けるのが判った。
実際曲を聴き始めたら確かにそんなこと考える余裕は無くなってしまったのだ。HISAKAは音楽が鳴り始めたら別人になる。そこからはTEARと意見の応酬だった。
テープには五曲が入っていた。ギターでおおよそのリフを入れたもの、ベースをかぶせたもの、まあ本当に「原型」という感じである。HISAKAはそれを聴いたとたん、断言した。
「これ駄目ボツ!」
「何でだよーっ。あたしゃこれが一番好きなんだ」
「わからねえってのよ。同じ音の繰り返しじゃ飽きる」
「インパクト勝負ってコトバ知らねえ!?」
「インパクトはインパクトだけど」
だけどそれだけじゃ駄目、とHISAKAは思っていた。TEARもHISAKAの言いたいことは判らなくもない。だが。
「保留にしとこうよ、次聴きたい」
MAVOが口をはさまなかったら、緊迫した状態が続いたはずである。
「これだけ?」
「んにゃ。こっちにもう一曲だけ」
と別のテープを出した。
「別?」
「録音したのが結構前なんだわ。それに部屋で何となく録った奴だからそう音は良くない」
HISAKAはテープを受け取ってデッキに入れる。巻き戻して再生ボタンを押すと、やや空白ののち、ガラス箱の中のようなノイズが聞こえた。外の車のフォーンの音まで入っていて、MAVOはくすっと笑った。
やがてぽろぽろ、と音が流れてきた。HISAKAはぴくん、と眉を動かした。アコースティックギターの乾いた音が聞こえてきた。
「…」
HISAKAの目が真剣になる。
やがて曲が終わった時、三人とも息をついた。HISAKAは全身耳にして聞き入っていたし、MAVOとTEARはそんなHISAKAの様子に思わず緊張してしまっていたのだ。
「どお?」
TEARは訊ねる。
「いいわっ」
にっとTEARは口の端を上げる。
「あんたこれ取っといたんじゃないの?」
「んなことぁないけどさ」
ただ、HISAKAの趣味は判ったような気がしたのだ。
7月の後半に初めて会って以来、何でこんなに会ってるんだ?というくらい、ほとんど毎日のように会っていた。もっとも、お目当てが食事という点もなくはない。だがもちろん、メインは音楽だった。
HISAKAはメロディがなくては認めない。これは彼女の作った曲を見れば一目瞭然としていた。
彼女の曲は、コード進行… 曲の流れ自体がメロディアスだった。実際、そのメロディアスな部分は面白い、と思った。ただ、一歩間違うと、歌謡曲すれすれ。それがちょっとTEARの気に触った。
「これ、使おう」
「これを?」
「これはいい曲だもの」
「…でもHISAKA、あんた判ってるか? あたし等はロックバンドなんだぜ?」
「そうよね」
「ナメられるぜ」
「誰に」
「あのガキどもにさ」
「あのガキどもって… ねえ、何かあったの?」
MAVOが言った。
「あんたこいつに言ってないのか?『連鎖反応』のファンのこと」
「言っても言わなくともそう変わらないと思ったからね」
「HISAKA」
何と言っていいのか、TEARは困った。この女は時々自分一人で解釈して納得して完結している部分がある。おそらくこの女はかなり頭が回るから、たいていのことは正しいのだ。だが。
それでもTEARの中では「違う」と何かが言っている。
「それは違うぜHISAKA」
「何が違うのよ」
「MAVOちゃん、あたしの前いたバンドのファンはあたしを嫌ってるから、もしかしたら今度のライヴの時、何かしてくるかもしれない。それを覚えといて」
「…妨害工作?」
「そう」
違和感がある。あまりにもこの子の口からそんな物騒な言葉が出ると。そのくらいこのヴォーカリストはここではただの女の子に見える。どうしても、以前自分のいたバンドの客を横からかっさらってしまったあのバンドのヴォーカルとは思えない。
「判った。覚えとく。でも、どうでもいいと思うから」
「…」
「だって妨害工作ったって、大したことしやしないじゃない。ナイフで切りつけられる訳でもなし、爆薬しかけられる訳でもなし」
…
「…まあいいや。でも気をつけて」
「ん」
何なんだ。TEARは頭が混乱しそうだった。
*
ごはんですよ、とマリコさんがドアを開ける。軽く回しているらしい扇風機の風で、やや酸っぱい香りが漂ってきた。
「冷やし中華だって」
「あ、あたし好きっ」
「あたし卵焼き多くしてっ」
好きなことを言いながら四人は正方形のテーブルを囲む。注文通りに好きなものをそれぞれやや多くした皿が各人の前に置かれる。
ああ、久しぶりだな、とTEARは思う。家を出てから、まともな食事を多人数で囲んだことなどほとんどない。多人数であっても、それは外食であったり、コンビニの弁当だったり、決して自分のために作られたものではない。
一人暮らしをしていると、時々そんな雰囲気に飢える。貧乏なのは昔がそうだったから、そう苦ではない。それはそれで日々の励みになるものだ。日々の糧を稼がなくてはならない人間には、退屈だの神経衰弱になる暇はないのだ。
ただ、それでも、時々その失くした「雰囲気」が欲しくなる。
「TEARさん麦茶お代わりは?」
「あ、ください」
もちろんこの三人の女達の「家庭」がやや奇妙なものであったとしても、その「雰囲気」は本物だった。
「それでさあTEAR、さっきの曲は使おう」
食事後に出された冷たいフルーツパンチに手をつけながらHISAKAは言った。
「アレだろ?OK。でも詞はどうしようか」
「詞無し?」
「どうもあまりコトバというのは得意じゃない。HISAKAの曲は誰がつけてんだ?」
「あたし。だいたい曲と詞は一緒にイメージするから」
「へえ」
と、すると。TEARは思う。HISAKAにとって曲と詞は同じくらいの重みがあるってことだな。そこまで思ってふと彼女は気付く。
「…あれ、MAVOちゃんは書かないの?」
「あたし?」
「歌い手の歌いたいことってのは?」
「…あたしの?」
MAVOはスプーンを置いた。
「MAVOちゃんにじゃあこの曲の詞まかせるから」
「TEAR?」
「…たぶんHISAKAのコトバとはこの曲合わないんじゃねえ?」
「ふむ」
HISAKAは視線を宙に投げて、先ほどのメロディを思い出す。
「そうねえ。そう言えばあんまりあたしの語感とは合わないかも」
「だからさあ」
「そうねえ」
ふむふむ、とHISAKAも納得顔になる。
「面白いかもねえ」
MAVOは困った顔をして、
「HISAKAあ」
「まあいいんじゃないの? いつかはつけてもらおうと思ってたし」
「いつか?」
MAVOの目が一瞬細められた。上目使いにHISAKAを軽くにらむ。HISAKAはにっと笑い、指先で軽くMAVOの喉をくすぐる。やだ、と逃げる彼女を見てHISAKAは更にくすくすと笑う。
「そう、いつか」
今度は目が笑っていない。
「…判った」
何なんだ、と二人を見てTEARは思った。
*
変と言えば変である。
だが疑問には鍵をかけておく。
この急ぎ足の世間で生きていくときにはそれは不可欠な手段でもある。
とは言え全てのことから目を逸らす訳ではない。ただ疑問を持つ価値が自分にとってあるかどうか。それを見分ける時間が必要なのである。
TEARにとってHISAKA宅の三人に関する疑問は鍵をかけて置きたいことではあった。だが鍵を外せ、と自分の中で騒ぐものがあるのも確かである。
何をして暮らしているのだろう。
あの三人はどんな関係なんだろう。
HISAKAとMAVOはそういう関係なんだろうか。
まあ下世話な興味だとは思う。おそらく知ったところで自分がこの三人が結構好きだということは変わらないだろう。だから別にこの疑問は知りたいとは思うが、どっちでもいい。
だが次の一点は重要だった。
HISAKAにとって音楽は何なんだろうか。
時々疑問になるのだ。例えば彼女のライヴハウスの事務所での発言、時々マリコさんと何やら話し合っていること等々、音を出している時の彼女とは別人の顔になっているような気がする。
無論音を出している時の彼女については文句はない。ドラムの練習ぶりだの、何やらアプライトピアノで編曲の試行錯誤しているところだの、その時の彼女はちょっと声をかけるのが怖いくらいに見える。
「だってあたしだって怖いもの」
とMAVOが言ったのには驚いたが。
「あんたが?」
「うん」
「どうして?」
「どうしてって…」
首をかしげる。そしてどうしてかなあ、といまさらのようにつぶやく。
アプライトピアノをHISAKAが占領中だったので、TEARはリヴィングの方へ来ていた。アコースティックギターをぽろぽろと時々思い出したようにつまびく。
「TEARギターも弾けるんだ」
「はじめはギターだったんよ」
「でも今はベース?」
「まあね」
当初は、ギターだった。小さな頃から近くに「あった」から。だからある程度は弾ける。だけど家から消えた人が持っていってしまったから、熱が失せてしまった。埋めてくれたのがロックであり、バンドであり、ベースだった。
「器用だな… あたしなんて何の楽器もできない」
「そのかわりあんたにゃその声があるだろーが? 何なのその音域」
「ははは」
MAVOの音域はめちゃくちゃだった。…まあ普通3オクターヴも出れば「凄い」のだが、彼女は4オクターヴ半ある。無理せずに出せる音域が通常の倍はあるということである。
歌う際に自分の音域ぎりぎりの低音を出そうとすれば声量が全くなくなる。高音を無理して出そうとすれば勢い余って裏返るのがせいぜいである。
ところが音域が広ければ、それだけ歌える曲が広がるということである。だいたい4オクターヴ半もあれば、男性ヴォーカルの曲も女性ヴォーカルの曲もこなせるということになる。あとは声質の問題である。
TEARはMAVOの声質については、「奇妙」という感覚があった。少なくとも、今こうやってフローリングに寝ころんでTEARのギターを聴いている彼女からは想像ができない。最もこの子がHISAKAと「そういう関係」ということ自体想像ができなかったので、何が起きても怖くないような気もするのだが。
ステージの彼女は、「性根が座った女だなー」というのが第一印象だった。
HISAKA程には大きくはないので、ライヴハウスによっては、少し後ろへ行くと見えないくらいである。実際TEARが最初に見たときも結構後ろだったんで、客に埋もれて見えない状態だった。
見えないせいもあってか、声だけが飛び出して突き刺さってくるのだ。どうしても聴かずにはいられないような。
それはまるで…
「別にいーのよ」
「何」
「この声は遺伝の産物。だったらせいぜい利用してやればいいのよ」
「遺伝? そういう声の親だったの?」
「すっごい声のね」
一瞬ぞくり、とした。何だ? 寒気がする。
「ねえTEAR」
「ん?」
「こないだ、見たんでしょ」
「こないだ? うん」
「でもいいの?」
「何が?」
「気持ち悪かったり、しない?」
「どうして?」
「そう言った奴がいたもの」
なるほど、とTEARは手を止めて近くの大きな犬のぬいぐるみに埋もれてじゃれているMAVOを見る。
「別にいいけどね。でもTEARは?」
「こないだ言ったんと同じ。別に好きならいいんじゃねーの?」
びっくりはしたけどね。それは言わない。
「別にHISAKAはあたしのこと好きって訳じゃないでしょ」
「え?」
「あたしは彼女好きだけど」
そう言ってじゃれているぬいぐるみを抱きしめる。相変わらず大人しい色の、大人しい部屋着の上下を付けている彼女は、確かにぬいぐるみと居るのはよく似合っていた。
あれ?
ふと違和感に気付く。
何か、変だ。
それはぬいぐるみを抱きしめる彼女の手を見た時に気付いた。何でリストバンドなんてしてるんだ。そこだけが色合いがずれていた。
「…いつもそんなものしてたっけ」
「え?」
それ、と彼女の手をTEARは指した。突差にMAVOは両手を引っ込めた。隠したいものか?TEARは急に好奇心に襲われた。悪気はない。ただ隠されると見たくなる。それだけなのだが。
「ちょっと見せて」
「嫌!」
「別にいいじゃないの」
TEARの手は素早かった。ぬいぐるみが突き飛ばされる。
「やめてよっ」
ずる、と右手の一つが抜けた。まさか、と思ったものがあった。手首の内側、小指側から斜めに走る、深かったことが容易に想像させられる…反射的に手を引っ込め、TEARは口走っていた。
「…ごめん…」
「*******!」
何、と口にするより早く、MAVOがTEARに飛びかかっていた。
意味不明のコトバが機関銃のように飛び出す。それがコトバになっているのか、それすらはっきりしない。
くらくらする。
何だこれは。
TEARはめまいがしそうになるのを感じていた。
MAVOの口から出るコトバは意味こそ判らなかったが高低高低、大きくなり小さくなり、それ自体一つの強力のメロディのようにもとれた。うっとりして自分の動きが止まりそうになるのが判る。だけどそれではいけない。リヴィングのテーブルに置いてあった果物ナイフがいつの間にかMAVOの右の手にあった。
これは、まずい。
錯乱している相手はとにかく黙らせなくてはならない。ナイフを向ける相手が自分であろうが相手自身であろうが、とにかく。
TEARは気を取り直すと、声の波の中をくぐりぬけてMAVOに近づくと、左手でMAVOの右手を掴んだ。
手の平をぐっと押さえると手の力が抜けてナイフが落ちた。そしてもう片方の手で、正面からMAVOをぐっと抱きしめた。ちょうど彼女の大きくふくらんだ胸のあたりだった。
不安だった。TEARの耳には時計の秒針の音すらひどく大きく聞こえる。
遠くでHISAKAのピアノの音が聞こえる。気付かないのかよ馬鹿野郎!自分の心臓の音すら聞こえてきそうだった。
それは抱え込んでる彼女の頭から力が抜けて、TEARの胸に重みが一気にかかってきた時にやっと終わった。MAVOはずるずると床へ崩れ落ち、TEARはその落ちる勢いをゆるめながら、ほっとため息をついた。
落ちているナイフはキッチンの方へと持っていき、MAVOは壁に立てかけたぬいぐるみにもたれさせておく。
マリコさんは外出している。
TEARはドアを開けた。
「ひさか…」
スタジオの、ドアを大きく開けて呼んだ。
「HISAKA!」
ピアノが驚いて不協和音を上げる。
「…TEAR?」
「MAVOが…」
「え?」
「何なんだ?! あいつは! あの子は! どういう子なんだ?」
HISAKAは自分の前に立ちはだかるTEARを見上げながら、二秒ほどその言葉の意味を考えていた。そして眉を寄せて、言う。
「あんたあの子の手首の、ひっぱがした…?」
「ああ」
「…あちゃーっ…」
ぺし、とHISAKAは手のひらで自分の額を打つ。
「また、か」
「また!?」
「ここしばらくは良かったのに」
「だから何なんだ、ってんだよっ!」
「トラウマ」
「虎馬?」
「…精神的外傷って奴。隠してる所なんて見たがっちゃ駄目よ」
「…確かにそうだけど…」
「それに、別にあれはあの子がつけたんじゃないから。念のために言っておくと。あれはつけられたんだから。それは覚えといて」
「つけられた?」
「それ以上は言いたくないし、言っても仕方がない。そのくらいのデリカシィはあるでしょう?」
そう言われては。
「つけられた」。「手首に傷」を「つけられた」なんてのは尋常な事態じゃない。それもあれだけ残るくらいのものを。それは明らかに敵意か悪意がある。
悪意を、誰かから受けていた?
そう考えれば、MAVOがそのことをフラッシュバックさせていきなり半狂乱になってもおかしくはない、とTEARも思う。…思うが。
いや違う。
TEARは自分を引き合いに出す。
それこそ誰かとケンカすることなんか多々あったことだし、その間に傷の一つや二つ、つくことだってある訳だ。だがその一つ一つにいちいち残るような「精神的外傷」とやらをつけていたら、たまったものではない。
もちろんTEARは自分とMAVOが別の人間だということはよく判っている。だがMAVOとここしばらく一緒にいる限りでは、かなり精神的にタフな所であると気付いていた。少なくとも、あのステージで平気で4オクターヴ半の声をかっとばしているくらいである。度胸がないとは言わせない。
なのに。
HISAKAはそれ以上聞くな、と言う。
「聞くなと言われても」
「じゃあもう一つ。あの子は家族とトラブルがあった子なの。どう?それでいい?」
HISAKAは「家族」にアクセントを置いた。
「…判った。ごめん。もう聞かない」
それ以上は絶対に、HISAKAは言わないだろう。TEARにももちろんその程度のデリカシィはあった。
家族の絡んだトラブルというのは、他人相手のトラブルより重い。
なまじ、血がつながっている、育ててもらった、「愛さなくてはならない」といった思いこみが、他人相手なら縁を切ればすむ程度のトラブルをややこしくややこしくしてしまう。
誰も悪くないのに、誰も自分と相手の幸せを願っているだけなのに、誰も幸せになれない状態を作り出してしまうのも、家族がらみのトラブルに多い。それをTEARは自分でもよく判っていた。
HISAKAはため息をつく。ピアノの丸椅子に足を大きく広げてくるりと回し、手は足の間に置いた。そしてそのまま落ち着かず、丸椅子をふらふらと揺らせている。
「TEARさんあの子、どう思う?」
「そうだね」
そう言ってTEARは正面からHISAKAの肩に手を置いた。HISAKAの動きが止まる。HISAKAは見上げる。
「何だろうな、と前から思ってたけどさ、やっと判った」
「何」
「あの子の声さあ、…歌ってる時とか…何かに似てると思ってたんだけど」
「似てる?」
「似てるって言うか…そういう感じってだけど… 赤ん坊の泣き声みたいだ」
「へ」
思わずHISAKAはそんな声を立ててしまった。
「どうゆう意味」
「声の質どーのじゃなくてさあ、何か、泣いてる赤ん坊の声って、『何がなんでもこっち向け!』みたいじゃん。命関わってるからさあ、あの泣き声には」
「ああ、そう言えば…」
全身の力を込めて、必死で一番自分を守ってくれる相手を呼ぶ、その声に。
自分は守ってくれる者がなくては無力なのだ。だから誰かを呼ぶ。だからその呼ぶ声は、どんな大人の叫びよりも強烈である。時には聞いていていたたまれない思いにかられてしまうくらいに。
「ああいう感じ」
「…」
「正直言って、さっき聞いた奴って、訳の判らんコトバだったんだけど…それでもくらくらしたもんな… このあたしがさあ」
「へえ…」
あ、こいつもか、とHISAKAは思った。MAVOの「声」がその名の通り「とんでもない」ものになるのはそういう瞬間だ。怒りがその引き金になる。
「…だから」
「あたしまた何かしたの!」
言いかけた時だった。MAVOが部屋に飛び込んできた。
「MAVOちゃん」
「したのねっ!」
猪突猛進、という単語がTEARの中に浮かんだ。そのくらい勢いよくMAVOはTEARに突進してきたのだ。…いや正確に言えば、「飛びついてきた」。…その勢いが良すぎてTEARは後ろにひっくり返ってしまったが。
ひっくり返ってもMAVOはしがみついたままだった。
「こら、離しなって」
「やだ」
ぶるんぶるんと頭を横に振りながら言う。
「ごめんごめんごめんごめん… どっかけがした? 大丈夫? ねえねえねえ」
どちらかと言うと、今転んだ時のお尻の打ち身の方がひどいような気もするが。HISAKAは思う。
TEARは上半身を起こすと、大丈夫大丈夫、とMAVOの頭を撫でた。赤ん坊の声を上げる奴ならこうしましょ。
彼女は何となく、このトラウマ持ちのヴォーカリストが可愛くなってきつつある自分に気付いていた。