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11 FAVさんの身体の事情

「あのねー、お前そんなに強くないんじゃなかったっけ?」


 よれよれになっているFAVを半ば支えるようにしてイキは言う。


「…気持ち悪いーっ… 強くはねーけどさぁ…」


 何っか、楽しかったんだもの。


 FAVは思う。ついその場の調子につり込まれて、自分の限界忘れるくらいに。そしてイキに向かっては、


「いーんだよぉ? あんた家逆方向なんだしぃ、もうここからなら行けるからぁ」

「本当?」


 そう言って奴は手を放す。と、途端にFAVはぐらん、と街灯が回るのを感じた。慌てて奴は手を戻して、


「…やっぱ駄目だこりゃ」

「…ごめんよーっ」

「…慣れてる」


 慣れてる、ね。確かにこの男、そうだった。彼がFAVの前で羽目を外したことは一度もない。それこそ、彼女達が高校の頃から。


「そーいえば、あんたねぇ、全然呑んでなかったじゃん、あれから」

「…あのねえ、あの場の状態見ててあれ以上呑めるかっての」


 確かに。あの後は、もうごちゃまぜだった。何だか知らないうちに、あの大柄な女達の中に混じって、初対面だというのに、妙に話は合うわテンポは合うわギャグは飛ばすわ。

 笑い死にしそうになったのは本当に久しぶりだった。アルコール入っていたとはいえ、こういうノリは本当に久しぶりだったのだ。

 初対面の対バンなんだから、もう少し緊張するかと思ったのだけど、そんな感触何処にもなくて。彼女達の笑い声がまだFAVの耳に残っている。


「あのひと達あんた嫌い?」

「いや嫌いじゃあないな。上手いし、気が良さそうだし。でも女じゃねーなぁ」

「…それってけなしてる?」

「いんや、ほめてる。女にしとくのが惜しいって奴」

「あんたもそう思う?」

「うん」


 イキにしては何か含みのある言い方だった。


「でも」

「でも?」

「…いや、何でもない」


 それから彼は黙った。黙ったままFAVを部屋まで送り、いつものようにドアの前でまたね、と言った。いつもと変わらない。

 ある程度酔いは醒めたけれど、それでもまだ胃のあたりのむかむかは治まらない。


 …早く寝ちまおう。


 彼女は上着を取って、メイクを落として。

 着替えながら彼女は、自分の身体をまじまじと見る。


 …薄い。


 あのバンド、PH7のベーシストの女のぼよんとした胸を思い出す。

 確かTEARとか言ったあの女。大柄だが、別に太っている訳ではない。スレンダーな方だ。出るべきところは出て、締まるところは締まっている、といった理想的体型。上半身と下半身の比率が欧米人みたいだった。顔だって、かなり派手めで。メイクがなくてもあの目はくっきりしている。身長も高いし、モデルにでもなれるんじゃないかな、と彼女は思った。

 ただ、腕が妙に筋肉質だな、とFAVは巻き付かれた時感じた。

 だから、その点は見栄えという点ではややマイナスかもしれない。FAVはそういうのも格好いいと思ったけれど。

 それに対してFAVは、確かに細いけれど、スリム、という奴だった。TEARが出るべき所が出ているのに比べて、FAVのそれは、出るべきところまで平らなのだ。胸無し腰無し。高校の半分から、ずっとそんな体型だった。だがそれ以前はそうではなかった。

 高校の頃、バンドを始めた。それまでギターに触ってはいたけれど、本格的にバンド組んでやろうと思ったのは高校からだった。

 そしてその頃までFAVは細くはなかったのである。細くはなかった。太かった。


 太い、というのには、いろいろあるけれど、大きく分けて二種類ある。運動系筋肉太りと、文化系脂肪太りである。

 FAVは後者だった。どういう姿だったか、は彼女も思い出したくはない。ただいつもぴんぴんに張った肌と、締まりにくかった制服のスカートのスナップがいつも取れそうになっていたのは憶えている。

 ブルマは食い込む、さかあがりは出来ない、極めつけはマラソンである。

 例えばグラウンドを持久走のタイムを取るとする。二百mトラックを女子だから五周するとする。次第に遅れていく。別に手を抜いている訳ではない。本人一生懸命である。重いからその分疲れるのだ。遅れは周を増すごとに増し、やがて一周先に行ってしまった者が再び彼女を抜かす。周りは五周回る。終わったと思ってトラックのライン上を悠々と横切る。すると彼女はその連中を突き飛ばして蹴散らしてやりたい衝動にかられる。


 どいてよ。あたしはまだ終わってない!


 そして一周遅れでゴールすると、体育教師が拍手を強要する。ざけんじゃねえ、と言いたいが言える状態ではない。ひどい屈辱。まわりの、「普通の」体型の女の子も、体育が得意で体育教師になった奴も、全てその場に叩きのめしたいような衝動にかられたりもした。


 思い出したくもない。


 だからもう見ない。家族が保管している以外の殆どの手持ちの写真は捨ててしまった。

 だがイキは当時のFAVを知っていた。

 彼とバンドを組んだ当初はFAVも太かった。FAVは背は高いのだが、それより高いドラマーのイキよりも体重があったのだから、それはもう明らかに肥満と言えよう。

 子供の頃に、甘いものや油っこいものばかり食べて育ったことや、家の中に閉じ込もってばかりいたのが丸判りな体型、という奴だ。

 それでいて頭は結構回る方だったので、手に入れた知識であれこれと批評しまくる。語彙も結構豊富だったので、辛辣な言葉には事欠かない。

 まぁそういう女の子をやっているとたいてい男は寄りつかない。下手すると同性の友達も少ないかもしれない。

 どちらが先かは判らない。頭がよく回ったので、先が見えすぎて何もしようという気が起きなかったのか、動く気がなかったので、頭でカバーしたのか。ただ、彼女にしてみれば、これだけは言えた。その頃肥満しているということは、どんなプラスの点も打ち消してしまうくらいのマイナスの要素だったのだ。


 ところで、高校に入った当時、出会った当初はFAVはイキのことが好きだった。

 周りのムードに流されるのは基本的には嫌いだが、その時は確かに流されてしまっていたと言えよう。

 友達以上を望む「好き」。

 だから高校入って最初に配属されたクラスで、唐突にロックの話で気が合って、一緒にバンドやることが決まって嬉しくないといったら嘘になる。

 そしてその容姿故に、他の女の子が安心半分、冷笑半分で見ていたことも彼女は知っていた。

 きっかけはそういうことだった。

 そしてある日突然、嵐のように頭の中で「何とかしなくちゃ」という言葉がぐるぐると回り始め、止まらなくなった。もともと思い詰めたら、走りだしたら止まらない性質なのである。

 「まっとうな」ダイエットを研究して、成功して、…何かを失くした。

 ほっぺたにまとわりついていた肉が落ちたら、くぼんでいたような目が張り出して、大きくぱっちりとしてきた。一重だと思っていたのだけど、実は二重だったらしい。胸や腰についていたのは全部脂肪だったらしい。

 一気に取れたとき、起伏という奴が無くなっていた。身体が軽い。跳び箱も飛べるし、さかあがりもできる。肩こりも減った。


 そして、生理が止まった。


 さすがの彼女も驚いた。毎月のお客が全く御無沙汰になってしまったのだ。

 はじめは、変だなと思いはしたが、すぐ元に戻るだろう、とたかをくくっていたら、そうではなかった。一年もなにもなかったので、とうとう業を煮やして医者へ行って、最近SEXはしましたか、とかなかなかシビアな質問のあと、診察台に乗せられて、結局出た結論は、痩せたせいだ、と言われた。

 身体についていた脂肪の何十パーセントを一気に落とすと、一種の飢餓状態になるらしい。つまり身体がSOSを発する。何処かのエネルギー供給を止めないと、生命維持に危険がある、という訳だ。

 生殖機能という奴は、本人が生きていくだけには、別に必要な本能ではない。


「だからね、長沢さん、もしもあなたいずれ結婚して、ちゃんと赤ちゃん作りたいと思ったら、もう少し戻さないと駄目よ」


 婦人科の女医はそう言って、ホルモン注射をしてくれた。

 注射は何度か受けて、お客様は戻ってきたけれど、そのお客様はもうタマゴを持ってこない。だけど、太っているときには何にもなかった痛みという奴は連れてくるようになった。

 また体型を戻せばタマゴを持ってくるようになるのかもしれない。痛くもないのかもしれない。だけど、それだけは嫌だった。自分に関しては。

 それからは体質自体が変化してしまったようで、結構呑み食いしても、太ることはなくなった。と、いうより、好みがいろいろ変わってしまったらしい。FAV自身は気付かないが、前後を知っているイキはそう言っていた。

 だから、ダイエットしたいーっ、と軽々しく言っている女の子には、FAVは何も言わない。本当に思い詰めている子には、リスクを考えた上でそれでもやりたければやればいい、と考えている。

 絶対にリスクはあるのだ。それが未来にどういう影を落とすかも知れたものではない。

 そして、もう一つ。スリムになる目的の一つだったはずの彼に対して、友達以上の「好き」を感じなくなってしまったのだ。冷めた、とかいうのじゃないと思う。相変わらず音楽に対しては、執着に近い感情がむしろ、以前に増して強くなっていた。

 誰かのためでなく、自分のために、自分の音を出したくなっていたのだ。

 そしてその音を見つけたときの感覚は、何にも替えられない。誰かに動かされるのでもなく、自分の頭で肌で感じとって、自分の手で作り出す音。

 もちろんいつもいつも満足のいくものじゃないから、何度も繰り返した挙げ句、そうじゃなくても、何かの拍子で、思いがけなく「素敵」な音が見つかった時には、世界が光に満ちているように見える。


 こんなことは、昔はなかった。


 子供の頃から体育以外は優等生で、難が無い様に過ごしてきたから、ひどく辛いこともなかったけれど、息が詰まるほど感動することもなかった。それはそれで良かったのかもしれない。

 ところがある日、何の気なしに流れてきた「音」が、肩をわしづかみにして彼女を揺さぶった。そしてわずかに向いてた方向を変えた。

 少しの向きのずれは、年を経るごとに大きくなり、もう全く違う物になっている。

 だから、別に楽な生き方をしたい、という人には文句はつけない。それはそれでその人の自由。

 ただ、いくら楽な生き方でも、自分は絶対に戻りたくはない。FAVはそう思う。



「一度ちゃんと聞いておきたかったんだけど」


 メンバーに集合かけたある日、「スタジオ」でベースをいじくっていたTEARが真面目な顔をして、同じくスタジオでピアノでぽろぽろと遊んでいたHISAKAに言った。

 その表情があまりに真剣なのでさすがにHISAKAも焦って、目の前の譜面を取り落としそうになってしまった。


「な、何?」

「MAVOちゃんの名。あれどういう意味なのさ」

「ああ、あれ? だから前言ったじゃない、1920年代の芸術運動がどーのって…」

「あたしは聞いてないって」


 あれそうだったっけ、とHISAKAは首をひねる。

 結構初対面の人間に名前を言うと聞かれる話だったので、このメンバーの彼女に言ってなかったということを全く忘れていたのだ。


「それにただ『芸術運動』じゃあたしゃ判らないって。別にそういう歴史勉強した訳じゃねーんだから」

「あ、そーか」


 まあはっきり言ってHISAKAとてこれこれこういうものだ、と的確に説明できる訳ではない。


「あのさあ、あんたと会う一年くらい前にバンドは始めたんだけど、その時何て呼び名にしようかと話し合ったのよ」

「ふむふむ」

「ほら、あんただってそんな単純な呼び名じゃないでしょうに?」

「まあそうだけど」


 TEARと書いて「てあ」と読ませる女はうなづく。


「まあ名前みたいな奴の方がいいと思ったのね。やっぱり呼ばれ慣れてるでしょ」

「まあそうだな」

「あんたの場合、咲久子だからってそのままSAKUKOなんてやったらもの凄く女っぽくなっちゃうから止したんじゃない?」

「まーね…それに名字はあまり好きじゃないし」

「だからまあ、多少ひねって、どういう理由でもいいから覚えられるような方がいいな、と」

「ほー」


 そこまで考えるかあ? とTEARはマンゴーの種を無意識にしゃぶってしまった時のような顔になる。


「あんたの名は結構簡単だから覚えられるな。聞いただけじゃ名か名字が判らないけどさ」

「まーね。実際つけた理由も簡単だからね。で、その代わりMAVOちゃんには凝りましょうと思ったのよ」


 何故だあ? TEARは同じ表情を繰り返す。

 MAVOもマリコさんもHISAKAのことはハルさんと呼んでいる。最近は呼ぶ回数も減ったが、それでも時々ぽっと口にする。電話で紹介する名などでHISAKAの「ひさか」が名字だということは知っていたから、それが名前の方だと思いつくのは簡単だ。

 ところがMAVOに関してはそれ以外の呼称がないようにも聞こえる。まるで生まれた時からそれ以外の名がなかったように。


「1920年代に、日本でそういう名前の芸術グループがあったの。結構前衛的なことやっていたって聞いたわ。で、そのグループの会誌の名がそのまんま『マヴォ』」

「へー」


 よく知ってるねえ、とTEARは素直にそう口にした。彼女には全くもって興味のない部分だった。


「いや別に、たまたまその頃、都市文化がどーのこーの、ってのにキョーミあって、MAVOちゃん連れて美術館行ったのよ。それが面白かったんでつい」


 だから普通はそんな所でヒントは拾わないって。そう言おうと思ったがTEARはあえてパスした。結局HISAKAはその答を言うことに終始していても、その本当の意味を言おうとはしていないのだ。それは聞いていてTEARは思う。これは用意された答だ。

 HISAKAはちょっと待って、と言って本棚から当時のものらしい美術館の期間展示の図版を取りだした。レンガ色の表紙に黒で歯車をイメージしたような模様が描かれている。その上に、今では絶対使わないぞ、と思われるような字体で「モダン東京・1920年代」と書かれている。厚さ三センチはあるんじゃないかと思われるその図版の特定のページをHISAKAはすぐに出してみせる。

 TEARは特にその時代にも芸術運動にも興味はない。だからある程度話が進んだところで不意に訊ねる。


「あ、そういえば今日は全員集合だったっけ」

「うん。P子さんも来るけど」

「今日返事するって言ってたっけ?」

「うん。まあたぶん大丈夫でしょうけど」


 上手く話題は変わったようでTEARはほっとする。自分から切り出した話題とは言え、少しうんざりしかかっていた。


 P子さんはここの所ずっとサポートという形でライヴや、つい先日参加したメジャーレコード会社のオムニバスアルバムではギターを弾いてくれた。


「いつも思うけどあんたのその根拠なしの自信ってのは何処からくるんだ?」

「あれ? あんた無かったっけ」

「そりゃないとは言わないけど」


 あんた程にはないんだよ、とは言わない。


「ま、あたしもP子さんのギターも人柄も結構好きだから、入ってくれるんなら万々歳だけどね」

「それにMAVOちゃんが懐いてる」

「うん。あれは意外だった」

「あんたも」

「うん」


 まあ自分に対してよりはそうだろうな、とTEARは思う。

 と、窓の外に赤い髪の毛が見える。


「こんにちはー」


 例によってのんびりと、抑揚のない声が聞こえたのでMAVOは玄関まで出た。

 はーい、とドアを開けると彼女の好きな赤い髪のギタリストが立っていた。


「わーいP子さんだ」


 入って入って、とMAVOはにこにこ顔になる。靴を脱ぎながらP子さんは訊ねる。


「こんにちわMAVOちゃん、元気してましたか」

「元気よー? HISAKAーっP子さん来たあ」


 声がしたので、よっこらしょ、とHISAKAとTEARも腰を上げた。そして「スタジオ」の入り口からこっちこっち、と手を振る。


「お元気でしたかHISAKA? TEARさんや」

「ええ全く。で、こないだの返事」

「パーマネントなメンバーになるかってことでしたね?」


 ごそごそと上着のポケットをまさぐりながら、


「ま、あーた達面白そうですし、しばらく付き合ってみましょうかと」

「じゃOKなのね」

「そういうことになりますかね」


 あ、あった、とつぶやいてP子さんはポケットから何やら取り出す。テープ?とそれを見てTEARは訊ねる。


「行きに弦買いに『P-WAVE』へ寄ってったら、ナカタジマさんがよこしたんですよ。オムニバスん時の仮録りですとさ」

「仮録り? 別にうちのはあるじゃない」


 HISAKAは受け取りながら言う。P子さんはギターと自分を長椅子の上に投げ出すと、


「何でもうち以外のバンドがいくつか入ってるからってことですよ。まだもうちょいとリリースまでには時間あるし…」

「試し聴くにはいい具合、ってとこか」

「あ、そう言えばTEAR、こないだの対バンだった横浜のバンドも入ってますよ」

「F・W・Aも? そりゃ嬉しい」

「そんな嬉しい?」


とMAVOが訊ねる。


「そりゃ嬉しいよーっ。あそこ音源全然出さないからさあ」

「…それもそうだね」


 ちら、とMAVOは横目でTEARを見る。そしてにっと笑う。


「TEAR本っ当に好きだもんねー」

「MAVOちゃん何を言いたい?」

「いんや別に、こないだのさあ、対バンになる前にわざわざあたしを連れてって行ったのがあそこで、そのあたしを放り出して切れまくっていた、なんて言ーわない」

「…おい」

「ねー。登場したらすぐ、いきなり最前まで走って突っ込んでいたとか、アンコールでギタリストさんの投げ物必死で拾ってたとか、水かぶって喜んでいたとか、ダイブしてくるのを喜々として受けとめてたなんて、ええ全く口が裂けても」

「言っとるやんけーっ!」

「別に言わないなんて言ってないもーん」


 へらへらへら、とMAVOは笑う。そしてそれを聞いていたHISAKAは形のいい眉の片方を吊り上げて、


「ほー… こないだあたしに内緒で横浜までMAVOちゃん連れ出した時にそういうことがあったんですかあ」

「仕方ねーじゃんかよ? だってHISAKA、あんたあん時いなかったんだからさあ。あんたマリコさんまで連れていったから、つまらなさそうにしてたMAVOちゃん誘ったんだよーっ。あんた居たらあんたも誘ったよーだ」


 ぐっとHISAKAはそこで詰まる。確かにそうだった。

 だがその理由と行き先はまだ言えない。


「まあそれはそれとして、テープ聴きませんかね? TEARが『ふらっと』がずいぶん好きだってのはよーく判りましたし」

「P子さんまでーっ」

「事実でしょう?」


 はあ、とTEARは頭を抱える。まあ確かに事実なんだが。

 当初は偵察のつもりだったのだ。横浜あたりのインディーズ・シーンでなかなか話題になっているバンド。見た目もさることながら、そのギターにも定評のある女。噂はこちらへも結構広がっていた。

 だから、敵情視察のつもりだったのだ。


 ところが。


「…まさかあそこにいたとはなあ…」

「何か言ったあ?」


 耳聡くMAVOが聞きつける。何でもないよ、とひらひらとTEARは手を振った。そして自分の振った手で起こした風に甘い香りが漂ってくるのに気付いた。


「お、今日はチョコレート味」

「ザッハトルテだって」

「ああ全くこのバンドに居てよかったーっ」


とTEARはうるうるうる、と泣き真似をしてみせる。P子さんはそのあたりには構わず、HISAKAから借りたカセットデッキにテープを入れた。


「何曲目?」

「うちは三、四曲目。F・W・Aは七、八曲目」


 とりあえずは関係ない一曲目から聞き始めた。

 P子さんが加入するかしないか迷っているくらいの頃、このバンドにオムニバスアルバムの誘いが来た。話をもってきたのはオキシドールの店長エノキである。一応ハードロック/ヘヴィメタルというジャンルの中で、「有望株」というものを拾ってみたらしい。

 一バンド二曲で六バンド。その中にPH7もF・W・Aも入っている。


「エノキさんは妙にうちを推すと思わねえ?」


とTEAR。


「別に悪い気はせんけどさあ」

「推されて悪いということはないでしょう? だいたいPH7って同じジャンルのバンドには評判悪いんだから」


 HISAKAは言う。だったら少なかろうが味方である人は大事。

 ある程度自分達の地位を作り出したバンドはいい。自分達に自信があるから自分達のことだけで忙しくて、他のバンドをねたむ暇がないのだ。オキシで人気のあるラ・ヴィアン・ローズがPH7となかなか仲がいいのはそのせいである。PH7を嫌うのは、PH7よりやや動員の少ない「正統派」バンドに多い。

 一、二曲目が勝手に流れている。マリコさんはトレイ片手に「スタジオ」へ入った途端、こう言った。


「…雑音ですねえ」


 一瞬空気が凍り付いた。


「ちょっと真ん中空けてくださいな」

「あ、はいはい」


 TEARは急いでテーブルの真ん中に散らばっていた譜面や音楽雑誌をかき集めた。何はともあれ彼女はマリコさんの手料理のファンであった。


「これまた見事」

「ドイツ系の料理の本、こないだ買いましたからね」


 それですぐ作ってこれだ。基本的に料理ができないHISAKAも、「食えるものなら何でも」というTEARも「食える程度のものならまあ」というP子さんも感心せずにはいられない。


「ですから今夜はソーセージを…」

「濃そう…」

「あれだけ動き回っている人が何ですか」


 そう言ってマリコさんはテーブルの真ん中のザッハトルテにナイフを入れる。しっとりとしたチョコレートスポンジからはキルシュの香りがほのかに香る。


「あー… 上手く切ったつもりだけど」


 何じゃい、という表情でMAVOはケーキを眺める。


「もしかしてチョコにひびが入ったのを悔やんでる?」

「そうですよ。ここまでやったんなら完璧に」


 つまりは表面に掛かったチョコのことなんだが。それがナイフの入れ具合で切り口以外にひびが入ってしまったことを言っているのだ。


「はいできた。はいお皿。はいフォーク。取りたい人取ってください」

「あたしこれーっ!」

「ちょっと待ったそのでかいのは」


と甘いものが似合う子と甘い物も好きな子が続けて言った。その間にも音楽は延々流れている。HISAKAは続けて持ってきたお茶をティーポットから注いでいるマリコさんに訊ねた。


「雑音かしら?」

「とりあえず私の耳には」

「じゃあもう少し居てね。やっぱり第三者の御意見が聞きたいわ」


 はいはい、とマリコさんはうなづいた。

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