1 弦楽器隊に逃げられたドラマーは追い出されたベーシストに出会う
混雑… ではない。
これで混雑しているなんて言ったら完全に嘘だ。
詰めかけているのは前三列だけ。あとは後ろでつっ立っているか、カウンターで好き勝手な恰好で煙草をふかしてるか呑んでいるかどちらかだ。そうでなかったら今日のバンドの値踏みか、他のバンドの噂話。
そんなところだ。
彼女もそのご多分にもれなかった。
背の高い女が一人、カウンター近くの丸テーブルで呑んでいた。時々ステージに視線を送る。
さほど目立つ顔ではない。だが整っている。全体のバランスがとてつもなく良い。
髪はプラチナ色に抜いた、ざらっとしたストレートが長い。背中の真ん中で無造作に黒いゴムでくくってある。
身に付けているのは、細身の黒のジーンズ、そしてまるで画家のスモックのようなたっぷりとした白いシャツを引っかけているだけである。
その下の身体はさほど起伏がないようで、「やや」盛り上がっている胸がなかったら、細身の男と見分けがつかなかったかもしれない。
彼女は口紅の一つもしてなかったから。
そんな彼女に、一人の勇気ある少女が近づく。
「…あの、もしかして、PH7のHISAKAさんですよねっ」
ステージの光だけでも判るくらい、少女の顔は上気していた。
「そうだけど?」
彼女はふわっと笑う。少女は緊張しているのか、額から汗がどっと吹き出る。
「突然ですみませんっ… あの、PH7好きなんですけど…」
「ありがとう」
「次のライヴ、いつあるんでしょう?ここの予定にしばらく入ってないって聞くんですけど…」
「うーん…」
微笑が苦笑に変わる。どうしたものかしらね。HISAKAは思う。
「ちょっと今は答えられないな」
「残念です…」
とりあえず少女の手を握ってあげて、そのまま前方へ押し出した。とりあえず目の前のバンドにがんばってちょうだい。そうつぶやいて。
だって。
HISAKAは内心ため息をつく。
また弦楽器隊に逃げられたんじゃねえ。
*
PH7というバンドをHISAKA-日坂波留子が作ったのは、東京に越してきてすぐだった。もちろん当初は名だけの存在である。
だが住む所を決めて落ち着くと、彼女はヴォーカリストである相棒と実に精力的に動きだした。とにかく彼女たちは何も知らなかった。この辺りの状況も、バンドがどういうことをすれば発表の場があるのかも、何もかも、である。
こういうのは知識ではないのだ。とにかく動かなくては判らない。
とりあえず住んでいる所の近くにライヴハウスがあるかどうかを確かめた。あることはあった。だがどうやら自分達のしたいタイプの音楽とはやや違うようだ。
では何処に行けばいいのか。
「ぴあ」で首都近郊のライヴハウスを全部ピックアップした。そして片っ端から見て回った。相棒は、んー、とうめいた。
相棒は、とんでもない声の持ち主だった。日坂真帆子という、妹の名を使う彼女は、引っ越して、バンドをやろうと言うHISAKAがある日いきなり「マヴォ」という音で呼んだ。それまでは「まほ」と呼んでいたのだが、それがややずれたような感触があった。
何それ、とアルファベット表記でMAVO嬢は訊ねた。どういう意味?と。
「まあ表向きには」
―――と1920年代の日本に起こった芸術運動がどうのこうの、と説明した。
まあ実際そういうものがあったのは本当である。大正末期から昭和初期の時代。ドイツ表現主義映画が封切られ、ダダイストの詩人が言葉を記号にしてうたった時代。そんな時代に、「マヴォ」というのは、大正12年7月23日の「中央新聞」にその成立が発表された、「村山知義」氏らが作った芸術団体の名であり、その会誌の名でもある。当時の前衛芸術であったから、当局ににらまれることもあったようで、「第3号」は発禁になっている。…数年に渡って活動はあったが、大正という時代の終わりと共に消えていったようでもある―――
「…でそれがどーしてあたしの名になるの?」
それが付けられた当人の言であるが。
もっともそれは「表向き」と前述したように、確かに「裏」もあったわけで。MAVO嬢自体はそれまで自分が呼ばれていた名「もどき」だなあ、と考えていた。付けた当人は、こういう意味を考えていた。
Marvelous Voice.
「とんでもない声」。
それはHISAKAにとってのMAVO嬢そのものだった。その意味は本人には言わなかったが。
それはともかく、バンドネームHISAKAとMAVOはライヴハウスを探し、メンバーを探し、曲を作り、楽器の練習をし、馴染みの楽器屋を開拓し、と毎日毎日動き回っていたのだ。その間、どういうバンドにしたいのか、どういう宣伝方法を取ればいいのか、も手探り状態だった。
だったらとにかくまずは練習すればいいじゃないか。
そういう者もいるかもしれない。だが一日中練習だけで過ごす訳ではない。ただでさえこの二人は身体動かし系のパートである。ある程度は休む。
だが休むのは身体だけである。その間に頭はひっきりなしに活動している。暑いさなかだったら、夕方窓のそばで冷たいものでも飲みながら(アルコールではない)、アイスクリームでもなめながら、思いついたことをあれこれ言い合う。
時間だけは、あった。
髪の色が変わり、「ステージの顔」を考え、衣装も決める。いちいちレポート用紙にメモなんかもしたりして。
ひどく、楽しい。HISAKAは思った。
だが。
どうしてもこのバンドの難点があった。
メンバーである。
HISAKAはドラマーであり、MAVOはヴォーカルである。90年代に入ってからは、打ち込み関係の発達めざましかったから、何もギターだのベースだの、きちんと揃えることはなかったのかもしれない。だがまだこの時点ではその発想はなかった。弦楽器隊が必要だった。
ところがその弦楽器隊が揃わない。入ったと思うと辞めてしまう。男でも女でも同じである。どちらかと言うと、HISAKAはメンバーは女がいいと思っている。だが、「上手い」女は実に少ない。だいたいプレーヤーの女性人口は実に少ない。これがヴォーカルだったら、掃いて捨てるくらい居るのになあ、とため息ものである。
そしてその少ない中で、「上手い」人は本当にわずかであり、そういう人はだいたい既に売約済みである。
「…どっかに上手くてうちらとウマが合って恰好いい女いねーかなあ…」
最近のHISAKAの口癖である。この一年でめっきり口が悪くなった。
「そう簡単にいるわけないよお」
と、滅多にいない声のヴォーカルは言う。
そりゃそうだ、とHISAKAは思う。だけど。もう一方で考える。
だけどその「滅多にいない」奴を揃えられればとんでもないバンドになるんじゃないだろーか?
HISAKAの頭の中にはこの一年で、だんだん見えてきたものがあった。それは根拠のない成功の確信、別名「思いこみ」というものと同時にふくれあがってきたヴィジョンである。
ただ、そのヴィジョンにたどりつくには、段階を踏まなくてはならない。一足飛びに手に入るんだったら、そんなもの価値はない。思いこみと努力、それとそれに値する成功。それが理想。
…だが現実はとりあえずその最初の段階から試練をびしばしに与えて下さる。
ちら、とHISAKAはステージに目を移した。次のバンドに替わるらしい。
この日の出演バンドは三つ。それぞれHALF-BLOOD,BEHIND,CHAIN REACTIONという。どうやらその三つ目の「連鎖反応」という意味のバンドが登場するようである。
女の子が詰めかける。どうやら今日の三つの中ではここが目当てという子が殆どらしい。いきなり場所を移動する子が増える。客層もやや違うようである。
はて。
HISAKAはこのバンドを見るのは初めてだった。
やがて何やら「登場のテーマ」らしい音楽が鳴る。ファンらしい子達は、それが合図であるのを知ってるのか、メンバーの名を呼び始めた。
おやおや。
彼女の相棒がよく好んで着ているような可愛いワンピースを着た子がやはり叫んでいる。それも潰れるんじゃないかと思うようなダミ声で。似合わないよなあ。ついつい思ってしまう。
似合わないと言えば、その可愛い系を着た子が煙草をふかしているのもそう思う。まあ人の勝手と言えば勝手なんだが、どうもその光景にはバランス的に許せないものがある、とHISAKAは思ってしまうのだ。服の製作者の意図を無視しているような。もちろんそんなこと考えるのも自分のおせっかいだとは思うのだが。
可愛い系の服にぬいぐるみとお花は似合う。皮ジャン系に煙草やバイクは似合うと思う。暗黒どろどろ系のファンの子が着ているような黒いずるずるたらん、としたスカートや黒レースにも煙草は別に似合わなくもない。お水系のイメージもあるから。だが可愛い系に煙草は似合わないと思う。これはもう信念に近かった。
そういう服を着たかったら似合った行動をしろよな、と言いたくなってくるのである。実際には言わないが。
さて「連鎖反応」が出てきた。四人編成のバンドのようである。向かって右手にギター、左手にベースが位置につく。と、HISAKAは左手に目が止まった。
あれ。
入ってきた瞬間は野郎だと思った。だがよく見ると、ナイスバディの女である。ただ、身長が実に高くて、ヴォーカルの男より高い。180センチ近くあるんじゃなかろうか、と見た。
このステージの左手の柱には、ある位置に大きな落書きがある。HISAKAは自分が出たときに、それがだいたい目線くらいだ、というのを覚えていた。ところがそのベースの女、その落書きが口元にあるように見える。
とすると。
HISAKAは175センチだ、と最後の健康診断の時に測った記憶がある。あたしより何センチか高いってことか、と納得する。
それにしても派手な女だった。顔の化粧が濃いとかそういうことではない。いるだけで妙に目を引いてしまうのだ。
もう少しじっくり見よう、とHISAKAは呑んでいたコップを丸テーブルに置き、前に詰めかける少女とはやや距離を取ってステージの真正面で腕組みをした。
正面に視線を移すと、あ、そういえばヴォーカルがいたなあ、という感じだった。歌自体は下手ではない。音程も合ってるし、まあ声量もある。ややありきたりな声という気もするが、とびぬけて変でもないので、わかりやすいものではある。
右のギタリストも、テクニック的には実に上手い。「とても上手いコピーです」と拍手してやりたいくらいだった。はっきり言って、これまで一緒にやって、逃げていった歴代ギタリストなんぞよりずーっと上手い。
だけど、華がないなあ。
あっさりとHISAKAは判断を下す。
こういう見方をする客というのは、居ることに気がついてしまうと、プレーヤーの苛々の対象になるものである。案の定、ベースの女はHISAKAのその視線に気付いたようだ。まっすぐ値踏みしている、どうやらバンドをやっている奴。
派手な女である。
何が派手と言ったって、まずそのボディだろう。胸も腰も、HISAKAとは逆に、実に起伏が大きい。だが全体的に見ればスレンダーである。ウエストは実に締まっていて、ぜい肉の一つもなさそうだ。細身の皮パンに収まった脚も、すんなりと長い。髪は光があたると上のふわふわした部分も下の長くストレートに伸ばした部分も金色に透けて見える。
メイクはそうきつくはないが、素顔自体が日本人女性離れした彫りの深さを持っていた。眉は太く、ややつり上がり気味だったが、目自体はどんぐり目だったので、ややファニーフェイスの感がなくもない。タンクトップからはちきれそうな胸にはじゃらじゃらと木やメタルのペンダントやネックレスが幾重にもかかっていた。
重そう、とHISAKAは思う。
さてそのベーシストがHISAKAを捉えた。
目が合った、とHISAKAは思った。思ったからここぞとばかりににっと笑った。だが腕組みは解かない。この程度でノれるものか。そう言いたげに、つったったまま姿勢一つ崩さない。
ベーシストはその挑発にのった。ほとんど動かなかった彼女がいきなりぶん、とベースを振り下ろす。そしてちら、とギタリストの方を見ると、そちらはやや当惑したような表情になっている。それには構わず、彼女は次第に調子を変えていった。
あ。
HISAKAは足元から揺れた気がした。
ベースの音自体の音量は大して変わっていないのに、その振動は急に大きくなった。それまでの単純なビートではなく、気付かない程度に細かい音が入り込んでいる。手を見れば判る。
スピード自体は変わっていないのに、曲にスピード感が増した。こうなってくると、焦りだしたのはヴォーカルである。ドラムはそれでもついて行っている。
HISAKAは今度はジーンズのポケットに手を突っ込んだ。
ベーシストは持っていたおにぎり型のピックを口に加えると、指弾きを始めた。振動はさらに激しくなる。気がつくと、前で騒いでいた少女達のノリも変わって来ていた。気付かないうちに、彼女達の身体も微妙に震えている。気がつかないうちに、意識して聞いてはいない低音に引きずられていくのだ。
へえ。
その曲が終わる。ヴォーカルが一言二事喋る。その隙をついてギタリストがベーシストに近づき、こそっと耳打ちする。彼女は一瞬顔をしかめた。あ、注意されたな、とHISAKAは思う。ギタリストが去っていくと、彼女がまた自分の方へ視線を送ったので、HISAKAはひらひらと手を振って、今度は後ろの、先ほどまで呑んでいた丸テーブルへと戻った。
今晩はこれ以上見ていても仕方ない。HISAKAは残っていたドリンクをくっと飲み干すと、従業員入り口の方へ向かった。
マジックで大きく激しい字で「従業員入り口 関係者以外は入るな」と書かれた紙が貼ってあるだけのドアを開けると、このライヴハウス「オキシドール7」の店長エノキが何やら書類だの見ているのが目に入る。所々マジックや煙草の焦げ跡が残った白木のテーブルの上には小さいラジカセとヘッドフォン、幾つかのテープが転がっている。
彼は四十代後半、という感じの男である。奥さんはいないが息子は一名いて、結構な腕で、よくここへ出場するバンドのやとわれギタリストをしている。
「こんばんわ」
「おやHISAKAじゃないの。どーした?」
「暇なんで今日は客だったんだけど。今日のバンドはどーも…」
「好かね?」
「んー… いまいち」
「まあそう言いなさんな。いい所だってある」
そう言って彼は書類をざっと揃えた。HISAKAは空いている椅子に悠然とかける。
この部屋にまで音は響いてくる。ライヴの様子は近くの窓から見える。エノキはHISAKAに訊ねた。
「今やってるCHAIN REACTIONはどう思う?」
「まあ、上手いね」
「上手いよ。彼らはキャリアがある」
「うん。それは判るけれど」
「その批判癖は嫌われるよ」
「判ってはいるんだけどねえ」
音楽についてだけは嘘をつきたくないのだ。
「まあHISAKAの耳は確かだから、俺は怒らないけれどさ。何処が良くて何処が悪いと思った?」
「悪いって程じゃないけれど、インパクトに欠ける」
「そりゃあお前さんのバンドに比べりゃ何処だってそうだ」
「だけどインパクトは必要だと思うわ」
「それはお前さんの価値観だろ。あいつらはそれでいいと思っている。あれ以上売れようとはあいつらは大して思ってないね」
「どうして?」
「どうしてだろうね」
はぐらかす。そしていい所は? と彼は重ねて訊ねた。
「ベースの奴」
「ああ。あの子」
エノキは顔を上げた。
「さっきいきなりあの子の様子が変わったけれど、お前さん何かしたのか?」
「あ、ばれた?」
くすっとHISAKAは笑う。
「お前さんあの女の子の間にいちゃ目立つからな。また何か挑発でもしたろ」
「引っかかってくれたのはあのひとだけだったわよ」
「だろうな。そんな大人げないことに引っかかるのはあの子位なものだ」
へらへらへら、と笑いは大きくなった。
「あそこのメンツは大人野郎ばかりでね。まああの上手さは年の功もあるのかな」
「…あれ、あのひと幾つ?」
「お宅のMAVOちゃんくらいじゃないかな。高校中退って言ってたから」
「へえ」
身体だけ見れば二十歳くらい軽く越えてると思ったけど。彼女は自分の相棒のプロポーションを思い出す。絶対に同い年には見えない。
「会いたい?」
「んー。どうかな」
「まあ終わる頃に出口で待ってりゃ会えるかもな」
「そんな追っかけでもあるまいし」
「あそこはそう追っかけが多くないんだ。もともと打ち上げとかしない体質だし」
「へえ」
「もしかしたら面白いものが見られるかもしれないよ」
何なんだ。
*
「いったい何なんだよっ」
と、ギタリストが怒鳴った。まあまあ、とヴォーカリストが止める。
「止めんなよキョージ! あれ程言ったのにまたこいつ暴走して…」
「挑発する奴がいたからだよ」
腕を組んで、壁にもたれて、横目使いにベーシストは言う。本人気付いてか気付かずか、そんなポーズを取るとはちきれそうな胸が余計に大きく見える。
「見なかったのかよ! あんな真正面でガン飛ばしてた奴!」
「見たけどさ」
ヴォーカリストはギタリストを止めながら、
「だけどいつものことじゃん。ああいう奴はいつだって一人や二人」
「ありゃ違う!」
「まあまあ」
とドラマーが止めに入る。
「とにかくここで争ったって仕方ないじゃねえ?ほら、皆さん驚いてる」
最年長のドラマーは、一番年下のベーシストをなだめるように言う。確かに周囲には一目があった。3バンドが一緒にやっていりゃ、どうしたってその荷物置き場は人で一杯になる。特にこんな、インディでやっています歴が長いバンド達は。
「田沢さんは気にならないの!?」
「気にはなったけれどさ、いちいち気にしてちゃ演奏できないじゃねえ?」
「そうそう。判らん奴には判らん訳だから」
ぽんぽん、と肩を叩く。おっと、と手がすべったようなふりをして、彼はついでに彼女の大きな胸に触った。と。
反射的だった。狙い正しく、ドラマーの顔に彼女は右ストレートを食らわせていた。
そして騒動は始まった。
HISAKAは店長に言われた通り、終わったバンドが引き上げる頃、店の前に居た。
…まだかなあ。
いい加減お目当てがやってこないと、うちで待っている子が心配する。終電には間に合わせたい。
あたし今日留守番?つまんなーい。
まるで小学生の女の子みたいに相棒はぷうっと頬をふくらませた。
ごめんねMAVOちゃん。でも、どーも気になるのよ。HISAKAは心中つぶやく。何本目かの煙草に火を点けた時だった。
階段を勢い良く上がってくる音がした。ライヴハウスは地下にある。中の誰かが出てくるんだ。HISAKAは身構える。
ばたん、とドアが勢い良く開いた。ドアの付近に居たHISAKAは慌てて飛び退いた。
「とっとと行っちまえっ!」
「こっちの台詞だっ!」
ばたん、とすさまじい力でドアを叩き閉める音がした。ちぇ、と舌打ちするのは、アルトの声だった。ベースのケースと皮ジャンをかついでいる。
居た!
そう思った瞬間、HISAKAは彼女の前に飛び出していた。とても勢い良く。相手はうつむき加減に歩き始めていて…とても勢いが良かった。
見事にぶつかった。
「でーっ!」
そして見事に転がった。
「たたたたた」
「だ、大丈夫」
「そちらこそ…」
HISAKAはお尻をしたたか打った。先に復帰した相手は立ち上がり、彼女に手を差し出す。
「立てる?」
「ありがとう」
その時やっと相手はHISAKAの髪の色に気付いた。あれ。ちょっと待て。
よっ、とHISAKAは勢いつけて立ち上がる。立ち上がった姿は確かにあの時の…
あ、やっぱりでかい。HISAKAはそう思った。目線がやや上だ。どんぐり眼を大きく広げて、ベーシストの彼女はHISAKAを見ている。
「どーもありがとう」
にっこりとHISAKAは笑う。
「な…」
「さっきのステージ良かったから待ってたの」
「何であんたがそんな所にいるのよっ!」
女のアルトの声が響く。
「だから待ってたんですってば」
「こんな見かけの追っかけはいねーぜ… あんた一体何だよ」
「いないかなあ」
「いないっ!」
ほとんどむきになって彼女は言い返す。なるほど、大人げないわ。これなら確かに自分の相棒と大して年が変わらないと言っても納得がいく。
それから自分の恰好に目を移す。確かに追っかけの少女の一部には見えないだろーなあ、とHISAKAは思う。こんな飾りっけのない追っかけの女は見たことがない。
だいたい追っかけをしている少女連中は派手だ。少しでも相手の視線を引きたくて必死だから、自分を綺麗に見せようとする。実際に綺麗に見えるかは別だ。少なくとも自分はそう信じている恰好ではあるが。
どれだけ暑くてぐちゃぐちゃになることが判っていようと、運動には決して適さない恰好でライヴにやってくる。
まあそれが可愛いんだけどね、と彼女は思うのだが。
「ただのロックファンにしてはずいぶんとリキの入った頭だし」
頭のてっぺんの、根元くらいしか黒い髪は残っていない。それ以外は見事なくらいのプラチナ色。こんな頭にするのは自分でバンドやっている奴くらいだ。ちなみにベーシストの彼女はライトが当たっていないせいか、茶色に見える。そうそう完全な「金髪」ではない。それにこの女は濃い色の方が似合うな、とその時HISAKAも思っていたのだ。
「バンドやってんのよ」
「やっぱなあ。楽器は」
「ドラムス」
「そーだよなあ」
「何で?」
「筋肉の付き方がそれっぽい」
「何じゃそりゃ」
ほれ、とめくりあげた袖から見える腕、そしてぴったりしたジーンズの脚を指す。
「二の腕やふくらはぎのの筋肉が妙に発達してるじゃん。ドラマーの奴ってそういうの多いからさ」
ほー、とHISAKAは感心する。なかなか良く見てるなあ。
よっこいしょ、と彼女は一度下ろしかけたベースをしょい直す。
「ライヴあるの? あんたのバンドも」
「や、うちは今休業中。ギターとベースに逃げられたんでねえ」
「逃げられた?」
「なーんかうちってなかなかギターとベースが居つかないのよねえ」
「ギターとベース… 何、あんたんとこって今ヴォーカルとドラムだけっての?」
「そ」
「…悲惨…」
彼女は手で顔を覆う。
「まああんたはともかく、ヴォーカルが可哀そうだねえ、それじゃ」
「そ。可愛いけれど可哀そうなのよ」
「へ? 何て言った?」
おっと。HISAKAは口をすべらせたことに気付く。
「可哀そうって言ったの。あんたのバンドは?」
「…」
彼女は視線を宙に飛ばす。何と言ったものかなあ、と腕組をする。着替える暇も無かったらしく、タンクトップの上にかぶっただけらしい半袖のTシャツの中にちらりとタトゥが見える。きめの細かい肌にそれは鮮やかに映っていた。
「今の状態見ただろーに」
「あー、追い出されたんだ」
へらへらへらとHISAKAは笑う。顔一杯で笑う。
「…その笑いってないんでねーかい?」
「やー、似た境遇だなあと思って」
「だってなー、怒れるじゃねーの。腕でクビになったんならともかくだ、こんなこと繰り返してると気になって仕方ないからクビってのは何なんだーって思わね?」
「気になって?」
これこれ、と彼女はそのスレンダーだが出るところは出ている実によろしいボディを指さす。
「あの馬鹿野郎共、バンドメンバーにサカってどーすんだっての」
「…」
「じゃ初めっから野郎だけで選べっての。あいつらセクハラって言葉知らねえのかっての。じょーだんじゃねえ」
何があったんだか。セクハラという言葉から予想つかなくもないのだが、どうも想像するのが怖いような気もする。
「ということはあんた今フリーなんだ」
へー、と感心したように繰り返すHISAKAにじろり、と彼女はにらみを効かせる。最もHISAKAには全く効いていないが。
「仕方ねーからしばらくはバイトに精出すさあ」
「ふーん」
適当に会話に区切りがついたな、と思ったらしい女はそれじゃね、と手を振りかかる。と、HISAKAはその手をぐっと掴んだ。
「…何」
「お茶しない? 彼女」
「…何じゃそりゃ」
「いや、うちは今ベースいないのよ」
「…つまり? どーもさっきからどっかであんた見たことがあるような気がするんだが…あんたのバンドって何だ?」
「PH7って言うんだけど。あたしはそこのドラマーのHISAKA」
「へ」
女はそう言うと目を丸くした。そしてふっと手を離すと、
「あ゛ーっ」
「…うるさいっ」
「知らんわ。思いだしたぜえ。二ヶ月前にうちのバンドの客ごっそり持ってったバンドじゃねーのっ」
「今は『うちの』なんかじゃないでしょ?」
「う゛」
追い出されたんでしょーっ、とHISAKAはにたにた笑いながら追い打ちをかける。彼女は苦虫咬み潰したような表情でこのどう見ても楽しがっているHISAKAを見ている。嫌な奴だ、と思う。だがどうにも憎めない。
はっきり言ってどうしてHISAKAも自分がこの女に食い下がっているのか判らなかった。ただ、妙な自信というものがあった。
少なくともお茶くらいは誘ってみせるもんね。
「だーかーらー、まあその話はそれとしといて、どーせ今現在これから明日や明後日くらいまでは暇でしょーっ?バンド活動停止してるんだから」
「…」
「今夜の宿と、お茶とケーキと、お食事もつける。うちの御飯は結構いけるわよ」
「乗った」
ぱっと手のひらを前に出し、彼女は結構真面目な顔になる。この手が効くとは思ってなかったのでHISAKAは意外そうな顔をしつつも、内心にたりとして、
「じゃー行きましょ。…えーと」
「何?」
「名前。じゃなかったら何でもいいけど、あんたを何て呼べばいいの?」
「本名は佳西咲久子」
「さくこ?」
「予定日が桜の花の咲く頃だったんだ。だけど早産だったから生まれたのは三月始めだったけど」
「早生まれかあ。じゃあ、あの字か」
「でもバンド活動ではTEARって呼ばせてる」
「呼ばせてる? …『てあ』?」
「スペルは『涙』と同じ」
「…またわざわざ面倒なことを…」
今度はTEARがにたりと笑い、ひらひらと手を振る。
「いやいや、学校んとき、英語の試験でひっかかってさあ、それで英和辞典で調べたら『涙』と『引き裂く』って意味があったんよ」
「…まさかとは思うけどその『裂く』と名前の『咲く』を引っかけてる?」
「ほほほほ」
「笑ってごまかすんじゃなーい」