そのに
アライトとイヴリンの案内で領主の屋敷を訪れると、すぐに用意された部屋へと通され……それほど待たずにエルヴィラが現れた。
後ろの男が吟遊詩人なのだろうが、そちらは後回しだ。
「……お、オーウェン、兄上」
「エルヴィラ、か」
……確かに色は変わってしまったのかもしれない。声も以前とは違っている。だが、目に宿る光も表情も、以前のエルヴィラと変わらないことに安堵する。
しかしオーウェンへと向けられたエルヴィラの視線は、どことなく不安げにゆらゆらと揺れている。そこまで気に病んでいたとは……つくづく、肝心なときにエルヴィラの傍にいられなかった自分が腹立たしい。
「ああ……かわいいエルヴィラ。髪も目もこんなになってしまって……怖かったろう? もう大丈夫だ。私が来たからね」
大きく両手を広げ、エルヴィラをしっかりと抱き寄せる。いったいどんな堕天に触れられれば、こんな風に変わってしまうというのか。
「あ、あ、兄上、大丈夫だ。怖くなんてなかったし、別にこれで困ってもいないぞ」
「強がらなくていいんだよ、エルヴィラ。よく頑張った。それでこそ我がカーリス家の娘、私の妹だ」
慌てて取り繕うように、けれどおずおずとエルヴィラが見上げた。
オーウェンはエルヴィラの視線を受けて首を振り、よくがんばったねと頭を優しく撫でる。
これほどの“変容”をもたらすものを相手に、怖くなかったはずがないのだ。変わってしまった自分にも、さぞかし怯えたことだろう。
ほんとうに、なぜついていてやれなかったのか。
「もう安心しなさい。大丈夫、ちゃんと元に戻るからね。
私はもちろん、父上や祖母上も皆が都の大司教猊下にかけあってくれるよ。お前が“神の奇跡”を受けて、元のお前に戻れるように。だから安心おし」
オーウェンは優しく宥めるように言って、いつもそうしていたようにゆっくりとエルヴィラの背中をさすった。
そう、“変容”であれば、“神の奇跡”によって治るはずだ。エルヴィラの身体になおも残った“邪悪の残滓”を浄化し、起こった変化を巻き戻す。単なる癒しの神術では無理なことも、“奇跡”であればできる。
“都”の大司教であれば“奇跡”の行使も可能だ。
幸い、我が家にはその伝手があるのだし、そのための寄進であればいくらでも用意する。
困ったように眉尻を下げておろおろと周りを見回すエルヴィラを覗き込むように、オーウェンは首を傾げた。
恥じらうようにほんのりと顔を赤らめる妹は、たとえ色が変わってしまった今であっても変わらずにかわいい。
「あ、兄上、私は、も、もう、子供じゃないんだから……」
「ああ、わかってる。もうこんなに大きくなって、お前は立派な淑女になったな」
おろおろとそんなことを主張する妹は、ほんとうにかわいい。
いつも後ろをついて来ていた頃に比べてずいぶん大きくなったが、いくつになってもオーウェンのかわいい妹であることには変わりはない。
「だが、久しぶりにようやく会えたんだ。少しくらい、兄としての幸せを味わわせてくれてもいいだろう?
さあ、いつものように甘えてくれないか、エルヴィラ」
オーウェンは額に軽くキスをして、よしよしとエルヴィラの頭を優しく撫で回す。
「体調はどうだい? どこか身体を痛めたりしていないだろうね? 風邪などは引いていないか?」
「大丈夫だ、兄上。私は頑丈にできてるんだから」
「いや、だからこそ、お前は無茶をするからね。あまり自分の体力を過信してはいけないよ」
オーウェンは心底心配だという表情で、次々癒しの神術を使って行く。
怪我なんて何もないし、体調だって崩してないのに、とエルヴィラはどうにか兄の大袈裟な振る舞いを止めようと、やっぱりおろおろするだけだった。
「あ、兄上、兄上、ほんとうに、大丈夫だから……」
呆気に取られたままじっとそのようすを眺める他のものなどまるで眼中にないように、オーウェンはエルヴィラを甘やかす。
ひとしきり状態を確認し終わったところでもういちどしっかり抱き締め……オーウェンはようやく、背後で引き攣った笑みを浮かべっぱなしの吟遊詩人ミーケルを、じろりと睨むように見遣った。
「……それで、エルヴィラ? お前が都を出なければならなくなった原因の、吟遊詩人ミーケルというのはそいつだね?」
ゆっくりとエルヴィラの頭を撫でながら、オーウェンは剣呑な声で問い質す。
ミーケルはそんなオーウェンに優雅に微笑み、一礼を返した。さすがに、この程度でこの場から逃げ出すようなことはなかったか。
「──なるほど、多少なりとも肝は座っているようだ。だが我が妹の名誉を穢した罪は重いぞ、吟遊詩人。貴様は行きずりのつもりでエルヴィラにちょっかいを掛けようとしたのだろうが……我が妹が相手ではそうもいかぬと思い知れ」
ふ、と笑って告げるオーウェンに、ミーケルが小さく首を傾げる。
まるで、いったい何のことを言っているのかという態度に思えて、オーウェンの目が細く眇められた。
ここにきて惚けようというのであれば、戦神の輝ける剣にかけて、決して許してはおかない。
「あ、兄上、待ってくれ。何をするつもりだ」
エルヴィラが慌てて取り縋るようにしがみ付く。
何をも何も、エルヴィラの名誉のために、この男には然るべき報いと償いを求めなければならないのだ。
オーウェンは甘く優しく微笑み、エルヴィラを落ち着かせようと背を叩く。
「安心しろ。殺しはせんよ。戦神は無益な殺生を戒めておられるからな。
ただ、お前に不名誉な嫌疑を掛けたことを後悔する程度に、少しお灸を据えるだけだ。剣も鞘に入れたままにしよう」
「な、な、な……」
目を丸くして口をぱくぱくと開閉するエルヴィラの額に、また口付ける。
「何を慌てることがあるんだ、エルヴィラ。お前の被った不名誉に比べれば、これでもまだ軽いくらいなのだぞ」
「お、お、オーウェン兄上!」
オーウェンがミーケルのほうへと振り向いた。何とか止めようと、エルヴィラの腕に力がこもる。
「たとえ峰打ちだろうが鞘打ちだろうが、ミケに手を出すなら私を倒してからだ。私はミケの護衛騎士なのだからな!」
「……なに? エルヴィラ、今、何と?」
オーウェンがぴくりと片眉を上げて振り返った。エルヴィラはごくりと喉を鳴らし、それからなんとか笑みを浮かべようと、口角を吊り上げる。
「わ、私だっていつまでも昔のままではないぞ、兄上。クラーケンとも竜とも戦ったのだ。もう兄上に負けたりはしないし、ミケにも指一本触れさせない」
じっと見つめるオーウェンに、エルヴィラは背を伸ばし胸を反らす。
「……そうだな、今こそ私の成長を見せてやるぞ、兄上。私はもう小さな子供でないと、その脳味噌に叩き込んでやろうじゃないか!」
「ほう」
きっぱりと述べるエルヴィラの手は、しかし、わずかに震えていた。
妹の成長は喜ばしいものだ。離れていた1年の間にも、エルヴィラは忘れずに鍛錬を続けていたのかとうれしくなる。
……だが、クラーケン? 竜?
そのようなものと戦った程度で増長しているというなら、話は別だ。
「可愛い可愛いエルヴィラ、お前が私を打ち負かせると、そう言うのか?」
すうっと目を眇めたオーウェンが首を傾げる。
そう。
魔物や竜を相手にした程度で慢心し、足元を掬われることなどあってはならない。慢心すれば戦神の加護は失われる。それが戦場であれば、生命を落とすことにもなってしまう。ならば、ここで自分がエルヴィラの戒めとならねばならない。
エルヴィラはきらきらと目を輝かせ、すっと手を挙げた。まっすぐにオーウェンへと指を突きつけ、高らかに宣言する。
「戦神の猛き御名と天空輝ける太陽、そして詩人のリュートにかけて、オーウェン兄上がミケに手を出せるのは、このエルヴィラ・カーリスを打ち負かした時のみだと知れ! これまでの私と思うなよ!」
ふん、と鼻息荒く自分を見つめるエルヴィラは、やはり変わっていない。
どこまでもまっすぐに正面から挑んでくる妹は、ほんとうにかわいい。
オーウェンも微笑み、まっすぐエルヴィラへと指を突きつける。
「猛き戦神の輝ける剣にかけて、ならばお前の増長甚だしい鼻っ柱をへし折ってやろう。
……妹の傲慢を正すのもまた、兄の役目だ」
そう、カーリス家の名にかけて、ここで妹を正せずして、何が兄か。
「このオーウェン・カーリス自らがエルヴィラ・カーリスの成長と自信とやらを試してやろうではないか」
※大王イカ先生も竜も、並の戦士が一騎打ちでそうそう倒せるようなものではない。





