序
「あにうえ!」
泣きそうな声で自分を呼ぶ幼い妹を背に庇い、オーウェンは正面に立つ。目の前の敵をぐっと睨み付けて、「お前になど屈するものか」と吐き捨てるように言い放った。
兄として、今この場でエルヴィラを……妹を守れるのは、自分しかいないのだから。
* * *
付けていた胴鎧を外し、オーウェンはひとつ息を吐く。
妹がこの“深淵の都”を出て既に1年近くが経とうとしている。時折神術で神に妹の無事を伺い、元気でいることだけは確認してはいるが、いったい今どこでどうしているのか。
毎日毎日、戦いと勝利の神に仕える司祭として相応しくあれと修行を続けたところで、自分の妹ひとり救えないとは……忸怩たる思いに苛まれつつ、もうひとつ溜息を吐く。
この地上にひととして暮らす以上、ひとのしがらみに囚われずにいられないことは理解している。だが、それでももう少しやりようがあったのではないのか。
大丈夫だ任せろと笑って出ていった妹の顔を思い出す。
せめて自分か長兄……最低でも末弟の誰かがついていければよかったのに。
「オーウェン、またエルヴィラ嬢のことを考えているな」
「……ああ」
さっきまで共に鍛錬をしていた同僚司祭が声を掛けてくる。
妹であるエルヴィラは、この戦神教会の騎士隊に所属する数少ない女性騎士だったのだ。おまけに、故人ではあるが名高い戦神教会の“猛将司祭”との二つ名を戴く祖父ブライアン・カーリスの孫娘でもある。この教会にいる司祭や騎士で彼女を知らない者はいない。
「もう1年か……」
「まあな」
オーウェンが困ったように竦めた肩を、同僚が励ますように軽く叩く。
エルヴィラが侯爵家の姫君の護衛騎士の役割を解かれ、不名誉な言いがかりをつけられてからもうそんなに経つのだ。続けて流された噂には、カーリス家の者はもちろん、戦神教会だって怒髪天を突く思いだった。
なのに、相手がかの十大貴族のひとつである侯爵家だからという理由だけでことを構えることを避け、ひたすら耐えなければならなかったのだ。
考えるだに腸が煮えくり返りそうだった。
「よりにもよって、カーリス家のお嬢さんにあんな噂を流したんだ。ただで済むわけがないだろう。
そもそも自分の娘がこれまでにしでかしたことも忘れてあれでは、戦神教会に喧嘩を売ったも同然だ。少なくとも、都の教会の騎士隊と司祭は全員敵に回したようなものさ」
今後、あの侯爵家とまともに付き合おうという戦神教会の者など、ひとりとしていないはずだと言って鼻を鳴らす同僚に、オーウェンは困ったような笑みを浮かべる。
「妹を信じてもらえるのはありがたいが、我が家も表立っての対立は望んでいない。あまりことを大きくはしないでくれ」
そうは言っても、“深淵の都”を治める十大貴族のひとつが相手だからこそ、父であるクィンシー司教は対立を避けようと娘の勘当という決断を下したし、兄弟たちもどうにか堪えたのだ。
「教会のお偉方も侯爵家とまともにことを構えようとは考えてないのは知っている。
ただ、ブライアン殿の名誉にも関わることだ。教会だって必死に火消しはしているし、相手が相手だ、もう噂だって下火になっているよ」
「ああ。これ以上向こうだって何か言い出したりはないさ。さらに失笑を招くようなこともやらないんじゃないかな」
「……それにだ、オーウェン」
急に、同僚が声を潜め、オーウェンに耳打ちする。
「これはまだ不確定な情報なんだが、さすがの侯爵閣下も放蕩が過ぎる娘にとうとう呆れて、遠い田舎の親戚に預けると言い出しているらしい」
「それは、本当か?」
その話はさすがに初耳だった。だが、それが本当であれば、エルヴィラも都へ戻りやすくなるはずだ。
「それはいいことを聞いた。感謝する」
「いや。それには及ばない」
ひらひらと手を振って立ち去る同僚に、オーウェンは小さく礼を送った。
やはり、あの時になんとしても引き留めるべきだった。こうなることは見えていたのだ。
……急に流された、侯爵家の姫君が思いを寄せていた吟遊詩人を寝取った、などという不名誉極まりない噂には根拠も何もなかったのだから。
純潔が疑わしいというなら、神の御前で堂々と裁定を受けることだってできた。エルヴィラが出ていく必要など何ひとつなかったのだ。
娘に勘当を言い渡した父には少しなりとも失望したし、尻を叩くように家名のことばかりを言う母にも呆れた。弟の意見はまだ成人ぎりぎりという年齢であってまともに取り合われず、長兄は「時期を選ぼう」と繰り返すばかりで当てにならなかった。
だが、問題の姫君がその振る舞いと放蕩に相応しい処遇を受けるのであれば、いい加減エルヴィラの勘当を解いて呼び戻してもいいはずだ。
「オーウェン。ちょっとこちらへ来てちょうだい」
屋敷に戻り、イライラと自室へと向かう途中で、祖母に呼ばれた。
「婆様、何か?」
「そろそろだと、思うのよ」
「婆様、何がそろそろなんですか?」
小さく首を傾げながら目を伏せ、そんなことを言い出す祖母を、オーウェンは訝しげに見やる。いったい何のことを言い出しているのか。
「そろそろ、エルヴィラを迎えに行ったほうがいいんじゃないかしらねえ」
「……婆様?」
1年前にはまったく口を出そうとしなかった祖母が……。
オーウェンはごくりと喉を鳴らす。
「婆様、では、婆様もエルヴィラを戻したほうがよいと考えておられると?」
「ええ。私も、そろそろクィンシーとコンスタンスにも、そう話をしてみようと思うの。オーウェン、お前、エルヴィラを迎えに行ってくれるわね?」
「──もちろんです、婆様!」
目の前が明るくなり、道が開けたように思えた。
いかに頑なな父や母といえど、祖母の言葉になら頷くのではないか。
オーウェンはさっそく準備を整えるべく、祖母に一礼すると走り出しそうな勢いで自室へと向かった。