第29時限目 出立(しゅったつ)のお時間 その21
猫ちゃん救出作戦中というのにも関わらず、親の心子知らずとばかりに、救出対象は私に威嚇を繰り返す。
これは君の為なんだよという思いを秘めつつ、私は優しい声を掛け続けながら着実に手を伸ばす。
手が3センチ近づくと、猫が1センチ離れる……くらいのペースで、何秒後に手が猫ちゃんに到達するか求めなさい、という計算をしたらきっと答えが20秒掛からないくらい? という程度の距離感。
「あ、危ないからやめた方がいいにゃ」
「みゃーちゃんが言いたいことも分かるけど、今やらないとこの子、きっとこのままここに取り残されちゃうから」
普段から人通りが多いところなら、私が頑張らなくても誰かが通りかかって助けてくれるかもしれない。
でも、この周辺にはさっきからずっと私たち以外の人間の存在がない。
つまり、この場所は今日はもう誰も通りかからないかもしれない。
誰か通りかかったとしても、日が暮れてしまって見つけられず、そのまま通り過ぎてしまうかもしれない。
そのまま猫ちゃんも眠気に誘われて、木から転げ落ちて落ちてしまうかもしれない。
かもしれない、かもしれない……が積み重なって、私は見過ごすことが出来なかった。
「……だから今、助けてあげたいの」
じりじりと手を近づけると、シャーシャーモードの白黒猫は、私から更に距離を取ろうと背中を向けて、更に枝の先へ向かう。
さっきの計算だと20秒くらいだったのに、これじゃあ30秒経っても捕まえられない……けれど、こちらを見ていない今がチャンス。
多少のダメージは覚悟して、私はぐいっと体を乗り出し、猫の首根っこを掴んだ。
当然、大暴れするのだけれど、もう片方の手で木の幹を抱えてから、木から駆け下り――下り際で足を滑らせて、柔らかい落ち葉の上に背中から倒れ込んだ。
「ふがっ!」
「大丈夫にゃ!?」
「……う、うん、大丈夫」
落ち葉が沢山あったお陰で、自然のクッションになってくれたこと、長袖に長ズボンだったことで、少し手の甲を擦りむいただけで済んだ。
もちろん、猫ちゃんの方も無事。
猫ちゃんを庇うため、倒れ込む前に体を捻って背中から落ちたから、背中とお尻は強かに打ち付けたけれど、大怪我はせずに済んだ。
今までも色々と前科があったから、これでもし怪我なんかしようものなら、先生たちから『卒業まで旅行絶対禁止令』とか出ていただろうし、それよりもまず目先の問題として、明日からの自由時間が私だけゼロになっていただろうと思うから、本当に良かった。
……うん、だったら無理するなと言うのはよく理解は出来るのだけれど。
歩道に救出対象を座らせると、猛スピードで私たちの前から走り去って、途中の植え込みの中に消えた。
あの子も今回の失敗から学んで、あんな高いところにもう登らないようにしてくれたらいいけれど……少なくとも、自分で下りられるようになるまでは。
一安心したところで、そういえば私、何をしていたんだっけ……? と考え、記憶を遡ってみると、
「あ゛っ!」
と思わず大ボリュームの声を発してしまったから、慌ててボリュームを再調整。
「……あ、あの、みゃーちゃん? さっきの話の続きだけど……」
隣のみゃーちゃんを恐る恐る見ると、さっきの猫が逃げていった方を私と同じようにぼんやりと見ていたのだけれど、私が掛けた言葉に対して、
「……もう、大丈夫にゃ」
と返す。
「いや、でも……」
視線を空に向けたみゃーちゃんにつられて見上げた空は、紅色と紺色に混じり、我先にと輝きを主張する星が幾つか見え始めていた。
「もう、時間はあまりないにゃ?」
そう言われ、またまたはっとしてスマホの画面を見ると、確かにそろそろ帰らないと夕食に間に合わない。
でも、みゃーちゃんが抱えている問題は――
「ピーマン」
「え?」
「……あの雨海とかいうやつ、みゃーが嫌いなピーマンを食べろってうるさいんだにゃ」
ふんす、と鼻息を飛ばすみゃーちゃん。
「…………えっ」
「その文句を言いたかっただけにゃ。だから……」
みゃーちゃんはそこで1度言葉を区切ってから、
「心配しなくていいんだにゃ」
にっこりと笑った。
「…………」
ピーマンの話自体は本当だろうと思う。
でも、みゃーちゃんの視線はそれだけじゃないことを物語っていた。
とはいえ、今ここで無理に話を掘り下げようとしても、みゃーちゃんは応じてくれないと思う。
……だから、今は。
「……それじゃあ、帰ろっか」
「うん」
私はそれ以上何も聞かず、みゃーちゃんの、夜風で少し冷たくなった手を取って、共に旅館へ歩を進めた。




