第1時限目 初めてのお時間 その8
遅くなりましたが、続きです。
「……うん、大丈夫。多分、ひっくり返って頭を打ったから、ちょっと気を失ってるだけのようですね」
校舎1階、私と咲野先生が不法侵入してきたトイレとはほぼ真逆の位置にある保健室。そのベッドの上に正木さんが横たえられている。
猫耳少女に呼ばれて着た眼鏡の女性は保健室に置いてあった白衣を着て、胸元に聴診器を当てたり、正木さんの体の色んな所を調べてから、頬を緩ませる。
ちなみに、聴診器を当てるときなどに服をはだけさせていたところで、あからさまに顔を背けると男とバレる可能性があったので、視線だけ別なところに向けた。断じて、直視はしていない。直視はしていないけど、白いものが見えたとか、手に触れた丘陵はやはり間違いなく自己主張していたとか……いやいやいや、何でもないですよ?
「あー、良かった良かった」
眼鏡を掛けた三つ編みの白衣の人が咲野先生の言葉に対して、ぷくっ、と頬を膨らませて、人差し指を振って子供を叱るように言う。
「むっ、良かったじゃないですよ、全く。たまたま、私が綾里の部屋に居たから良かったものの、何かあったら……」
「あ、す、すみません。ぼk……わ、私のせいで」
僕と言い掛けた私は、言い間違えそうになったことと正木さんが気を失った原因であることの両方について慌てながら、頭を下げる。
頭を下げた私の姿を見て、何故かその女性が慌てて手だけじゃなくて、首まで左右に振る。
「ああ、良いんですよ。さっき事情は聞いています。確かに飛び出して捕まえようとしたのは危ないので、めっ、ですけど、そもそもこんな時間に貴女を連れて行ったのは真弓ちゃんなんですから、真弓ちゃんが悪いんです」
「ええー? アタシが悪いの?」
「女生徒を1人、暗がりの校舎に置いて、自分だけ先に校舎を出るなんて言語道断。反省しなさいっ」
女生徒、と言っていることからして、この白衣の人も私が男だということは知らない様子。うーん、ということはこの場で私を男だと知っているのは――
「うむうむ、大事にならなくて良かった。ああ、もちろんのことだが、今回のことは真雪に報告しておくぞ」
私の背後で、腕を組んでしきりに頷いている、あの面倒くさ……いや、非常に特徴的なキャラクターをしている益田さんくらいってことになる。何故か、益田さんは正木さんを診察し始めた女性と共に部屋に入ってきて、私を見て目を丸くしていた。いや、目を丸くするのはこっちの方なんですが、と言いたかった。美夜子ちゃん、というあの猫耳娘ちゃんが一緒に呼んだのかな?
「やーめーてー! 綾里のいけず!」
益田寮長にすがりつく咲野先生、その2人の姿は身長差のせいから、さながらおもちゃを買ってとせがむ娘と駄目だと言って聞かないお母さんに見えなくもない。
……ん? 綾里?
そういえばさっき「綾里の部屋に居た」って言っていたから、つまりこの眼鏡の女性が益田さんの部屋に居たってこと?
だから一緒に来た、ということであれば益田さんがこの場に居る意味は分かるけれど、こんな時間に2人で一緒に居るというのは、もしかして所謂女子会的なものをしようとしていたのかな?
「そもそも、真弓は忘れ物が多すぎる。真雪にお灸を据えてもらって、根性叩き直せ」
「ぎゃわん!」
「あはは……と、とりあえず」
益田咲野母娘の様子をほほえまーな感じではない、やや呆れ笑顔で見ていた白衣の女性が私に話を振った。
「正木さんの様子は私が見ておきますから、えっと……貴女、お名前は?」
私に対して、言いにくそうにフレーム無し眼鏡のずれを人差し指で直しながら、保健の先生らしき女性が尋ねてくる。
「あ、すみません。私は小山準です。明日から3年1組に編入することになりました。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。私は坂本公香です。この学校の養護教諭をやっています。ちょっと諸事情で養護教諭でありながら医師免許も持っているので、学校医も兼ねています。保健室に来てもらえば、簡単な診察なら出来ますよ」
しとやかに、肩より少し長いくらいの三つ編みを掻き上げながら微笑む坂本先生は、そのまま言葉を続ける。
「それで、小山さん。私が正木さんの様子は見ておきますので、今日はもう帰っても良いですよ」
「あ、でも……」
「夜遅くまで起きているのは良くないですよ? 若いときに遅くまで遊び過ぎると、大人になったとき、お肌にですね……」
「坂本先生」
自分の頬をふにふに触り始めた坂本先生の言葉を、物理的に遮るように頭をにゅっ、と出してきたのは何処までが黒髪で何処からが黒猫耳なのかが分かりづらい少女、美夜子ちゃんだった。ずっと黙っていたから、居るのに気づかなかった。
良く良く見ると、猫耳は本当に付いている訳ではなく、ヘアバンドみたいなものに付いているだけのようだった。最初、現実に猫耳少女が居るのかと驚いたけど、さすがにそんなファンタジーがあるわけないですよね、あっはっは。
……でも、時折ぴくぴくと動いているのは何故? 本物でないのは間違いないけれど、どうやって動かしているんだろう。
「どうしました、美夜子ちゃん」
「みゃーって呼んで欲しいにゃ。……小山準と話が終わったのにゃ? 終わってたら、ちょっと小山準を借りるにゃ」
「構わないですけれど……何故?」
「ちょっと、話するにゃ」
「あら? あまり他の人と関わらない美夜子ちゃんにしては珍しいですね」
「ちょっと思うところがあるにゃ」
「あの……」
当事者なはずなのに部外者扱いで話が進められているのは何故? 私以外に小山準って居ないよね? 私、この子に何処に連れて行かれるの? ドナドナ先は何処?
「んー……そうですね。まあ、早く帰してあげてくださいね」
「それは小山準次第にゃぁ」
そこまで坂本先生と話してから、美夜子ちゃんは振り返ってジト目――眠いわけじゃないと思うけれど、瞼が幾分か下がった無感動を湛えた目で私を見て、言う。
「こっち来いにゃ」
「え、あっ……うん」
現状、登場人物の半分以上が、かなり年上の女性というのはどういうことなの……!?
残念ながら、そういうお話ではないので、この先も期待されている方はごめんなさい。
12/30 誤字修正
「私に対して、言いにくそうにアンダーリムの眼鏡のずれを人差し指で直しながら、保険の先生らしき女性が尋ねてくる。」
↓
「私に対して、言いにくそうにアンダーリムの眼鏡のずれを人差し指で直しながら、保健の先生らしき女性が尋ねてくる。」
正木さんの様子を見ておいてくれる、と坂本先生が言ったシーンです。
保険ではなく、保健でした。申し訳ありません、修正させて頂きます。
8/20 文章見直し
細々な言い回し以外では「綾里」という名前からイコール益田さんと結びつくようにしました。
一応、太田理事長が益田さんのことを綾里と呼ぶシーンはあるんですが、そこだけで益田さんの部屋に坂本先生が居たことに繋がるのは難しいので、こんな感じになりました。