第26時限目 競争のお時間 その61
一瞬、バトンが手に触れた感覚はあった。
だから、それを握って走り出すだけ。
……そう思ったのだけれど、私が掴んだのは“無”だった。
「ああっ」
手の違和感に気づいて振り返ると、青ざめた谷倉さんの顔が見えたのと同時に、カラン……と無情な音が足元に響いた。
その落ちたバトンに、そして私に視線を向けた谷倉さん。
その目にはじわりと涙が浮かぶ。
「谷倉さん!」
「こ、こや……」
「持ってきて! バトン!」
まだ、私はバトンを受け取っていない。
だから、足元のバトンには触れてしまえば反則になってしまう。
でも、肝心の谷倉さんはバトンパスを失敗したことで自信を喪失して、体が硬直している。
その脇を3のBと3のEの最終ランナーがバトンを受けて、駆け抜けていく。
……駄目だ、このままじゃ駄目だ!
『多分失敗したら……特に大舞台で、人前で失敗したらもう立ち直れなくなるタイプだよ、アレ』
ライブ前日の、羽海の言葉がふいに思い出された。
『そんなときはアンタがお尻叩いてあげなさい』
……確かに、私にしか出来ない。
私は大きく息を吸い込んで、叫んだ。
すぐ目の前に居るから、普通に喋っても聞こえるけれど……涙で霞んだ、谷倉さんの心の中まで届けるため。
「真理!」
びくりと体を震わせた谷倉さん。
「私が勝たせるから! バトン、頂戴っ!」
「…………!」
馬鹿みたいに大きい私の声。
でも、足が止まった谷倉さんを動かすには十分だったみたい。
「……ごめんなさい! お願いします!!」
バトンを拾った谷倉さんが、今度こそ、私にそのバトンを渡す。
「オッケー!」
バトンを受け取った私は全力で走り出す。
『惜しかったけど、頑張ったよね』
『残念だったけど、悪くはなかったんじゃない』
このまま2位や3位でゴールしたら、きっとそう言われるだろう。
そして、そのときには同時に私と谷倉さんの名前も出されるに違いない。
『勿体なかったね』
私だってそう言われたら辛いけれど、ちょっと屈折してしまった谷倉さんが時間を掛けてようやく”普通”の女の子になれそうだったのに、ここで負けたら逆戻り……どころか、心がどうにかなってしまうかもしれない。
「絶対に……勝つから!」
がむしゃらに走る私。
先行していたEクラス……なのかBクラスなのか分からないけれど、とにかくまずは2位を追い抜く。
ただ、1位の女の子はおそらく真帆が自分でも負けるかもしれない、と言っていた陸上部の子なのだろう、必死に追いかけてもなかなか距離が縮まらない。
こんなに全力で走ったことなんて、練習中も……いや、今までの人生を遡って全て探してもないだろう。
たった1つの目標……『勝つ』ということだけのために全力で走る。
それがこんなに辛くて……楽しいものだとは思わなかった。
相手は陸上部(多分)。
真帆でも負けるかもしれないと言っていたくらい早い子。
……そんなことはどうでもいい。
ここで、私は、絶対に、勝つ!
悲鳴を上げる足を宥めすかしつつ、全力疾走で私は1位の女の子の影を捕まえた。
じわりじわりと距離が縮まるけれど、まだ足りない。
……もう少しなのに!
「準、もうちょっとだ! いけぇ!」
声が聞こえた。
アナウンスは何を言っているか聞こえないのに、星歌のその声だけははっきりと聞こえた。
そして、他にも。
「ぶっちぬけえぇっ! 準ーっ!」
「準なら行ける!」
羽海の声、真帆の声……そして、最後に。
「小山さん! お願いしますっ!」
谷倉さんの声。
……絶対に、負けないって決めた!
終焉を告げるピストルの音。
ゴールはほぼ同時だったから、念の為設置しておいたビデオで判定……なんてことになっていたなんて、ゴール直後の私は全然知らなくて、後から教えてもらったのだけれど。
しばらくの間、周囲のざわざわした声を切り裂くように、結果の放送が流れた。
「えー、判定の結果……1位は――」




