第1時限目 初めてのお時間 その6
窓に手を掛けて、先生がぽつりと呟く。私の懐中電灯の辺りに照らされた横顔は、さながら名探偵……ではなく、冷蔵庫に入れていたケーキを勝手に食べられたみたいなしょんぼり顔で、ちょっと笑いそうになるのを堪えるために、慌てて言葉を出した。
「……本当ですか?」
「間違いない。だって、今日帰るときに窓をチェックしたときには完全に閉めていたのに……ほら、見て見て」
肩をポンポンと叩かれつつ見ると、確かに窓が段ボールの厚みくらい開いていた。良く良く気をつけないと分からない隙間だから、ある意味この先生は観察眼が鋭いのかもしれない。
「勘違いではないですよね?」
「じゃないから! 絶対、誰か開けてる!」
「でも、先生が自分で言っていませんでしたか? この学校は外から簡単に入れない、って」
「うーん、そうなのよねえ」
腕を組んで、うぬぬと呻く先生。
他の人が開けたということは、多分誰かが学校内に忍び込んだ可能性があるということ。外部から人が簡単に入れないのであれば、教師か生徒としか思えない。教師だったら怒られるかも、と思ってはみたものの、普通の教師だったら普通に教職員証を使って入ればいいし、こんなところから忍びこむ人ならきっと同じ穴の狢なんだから、私たちだけが批判される言われはないという考え方はますます泥棒と同じのような気がするけれど、この先生だから窓を閉めたとか言っておきながら、実は窓をバーン! と勢い良く閉めて、その反動で開いてたと種明かしがあってもおかしくなさそう。うん、きっとそうだと思う。
「よし、悩んでても仕方がないから、あまり気にせず突っ込もう!」
新人OLにしか見えない先生が、唐突にタイトスカートを見えるか見えないかギリギリのところまですっと上げ、黒タイツの足を上げようとしたのを見て、慌てて私は目を背けた。先生、後ろに人が居るのに、スカートの中を隠さないのは……って、今は女同士だと思われているから、気にしていないのかな。
……あれ? もしかして咲野先生、担任なのに私が男だって知らされてない?
ああ、でも理事長さんや寮長さんと違って、この性格じゃ、うっかり私が男だって皆にバラしそうだし、黙っていてもらった方が――
「はーやーくー」
「……あ、ああ、すみません」
お悩みモードになった私は、小声で自分が呼ばれていることに気づいて、とりあえず思考を停止して、建物の中に入る。
スカートが捲れ上がるのも気にせず、窓を通り抜ける。少し小さいけど、何とか通れるかな。
「あ、懐中電灯はもう1回電源ボタン押して、ちっちゃい光にしといて」
「え?」
「ほら、先に誰か入ってた場合、懐中電灯の光でバレたらまずいっしょ? ボタンをもう1回押すと明るさが半分くらいになるから」
そう言って、自分が持っている懐中電灯のボタンを押して見せてくれる。確かに、LEDの懐中電灯の明かりが小さくなった。倣って、私も懐中電灯の明かりを1段階落とす。
トイレの中はひんやりとしていて暗く、気の弱い女の子だったらもう入った瞬間に気絶してもおかしくない怖さ。誰も居ないからか、建屋内には暖房は掛かっていない。ダッフルコートを着てきて良かった。きっと、お風呂から出たばかりの格好だったら湯冷めして風邪引いていたと思う。
それはさておき、先に入った人がトイレに隠れていないとも限らない。まあ、こちらを見逃してくれるのであれば、向こうも見逃していいと思うけれど。
「準ちゃんってさ、意外と怖がんないんだね」
周囲をきょろきょろとしていた私に対して、先生がパンパンッとスカートの埃を払いながらそんなことを言った。
「はい? あ、ええと、いえ、怖いですよ。でも、幽霊とかはあまり信じていないですし……」
「そっか。まあ、アタシも幽霊とか信用してないし、何よりも幽霊よりもよっぽど怖い子、知ってるし」
僅かに窓から入り込む月明かりに照らされ、ブルブルとその場にうずくまっている咲野先生。まあ、誰だかは分かります。というか、そんなに理事長って怖いんだろうか。
「と、とりあえず、職員室行こっか。さっさと取りに行って、さっさと出た方が良いよね」
「ですね」
ただでさえ、これから1年間性別をかくして生活しなきゃいけないという重荷を背負わなきゃいけないことになったのに、初日から学校に忍びこむなんていう非日常イベントをこなさなければいけないのだから、何事も無く、早く終わらせて帰りたい。というか、もう眠りたい。
トイレを出てすぐ目の前の部屋に掛かっている室名札を確認すると『学園長室』と書かれている。先生の後を付いて行くと、頭上に今度は『理事長室』の表札。
そういえば、パンフレットとか見たけれど、理事長さんの名前はあっても、学園長の名前が無かった気がする。普通、表立って出てくるのって理事長ではなく、学園長じゃないんだろうか。いわゆる、校長先生みたいな立場だと思うし。
意識を、学園長とは誰だろうというどうでもいいようで、生徒としてはちゃんと知っておかなければならないんじゃないかと思う内容に持って行かれていたお陰で、目の前で足を止めていた先生にぶつかった。
「あいたっ」
「ちょっと、キミ! ちゃんと前見て歩いてよね!」
「すみません……あれ、着いたんですか?」
「んっん」
小声で咳払いする先生が指差した室名札を確認すると『職員室』の文字。はい、着いてましたね。
「さて、職員室で荷物取ってくるから、待っといて」
「待っておく、ですか?」
「そうそう。ほら、教室の外に誰か居るかもしれないから、見張り役がね、必要だと思うの」
「はあ」
外に見張りを立てているとか、まるで財宝を盗むための窃盗団みたいな気がする。
「べ、別に、先に誰か見つかった場合のトカゲのしっぽが欲しいとか、そういうわけじゃないんだからね!」
「そんなことしたら、見つかった相手が学校関係者の場合、今回のこと全て話しますよ」
「鬼! 薄情!」
「可愛い生徒を放って逃げなければいいだけの話です。とにかく、早くやること済ませてください。ずっとここに居た方がよっぽど人に見つかりますよ」
「むー」
鍵を開けて、チラ見をしてから、渋々部屋の中に入っていった先生を見送り、ふと真上に掛かっている『職員室』の札を見上げる。職員室って理事長室の隣にあったんだ。理事長室に呼ばれたときは、理事長さんの後ろを付いて行っただけだったし、何よりも理事長ともあろう人に呼ばれたということと、周囲の視線ばかりに神経を使っていたから、何処に何の部屋があるかなんて確認していなかった。
暗くてほとんど見えないけれど、目の前の方に学校の昇降口があったことが何となく思い出せる。そんな視線の先。
コトン。
「ん?」
何かを踏んだような音というべきか、それとも何かを倒した音というべきか。とにかく、それなりの大きさの音だったから、気のせいではないと思う。
職員室の中なら先生が書類を探しているから、別段不思議ではないのだけど、今の音は周囲の見張りをしている私の目の前、つまり昇降口の方からしていた。おそるおそる懐中電灯を向けるけれど、靴箱以外は何も見当たらない。もしかすると、さっき言ってた侵入者が靴箱の陰に隠れている、とか?
もしかすると、お風呂の時みたいに不安定になっていた傘が倒れただけだったりするのかもしれないけれど、さっきの窓が開いていたと咲野先生が言っていた件も気になる。
「あったあった。いやー、机に出しっぱな、むぐっ」
気が緩みまくりの先生の口を手で塞いで、耳打ち。
「さっき、妙な音が玄関の方からしたので、早く出ましょう」
「……」
黙ってこくこく、と頷く先生。こういうところは意外と理解が早くて良かった。ここで「え? マジで? 誰か居るの?」とか言い出したらもう放って帰ろうかなって思っていたから。
先生の手を引いてトイレに逃げこむ、という文章のみを見ると、些かではないレベルの卑猥さを感じるかもしれないけれど、今の私たちにそんな状況を省みる余裕は無い。まあ、よく考えると、先生と生徒というところを除けば、女性同士でトイレに入るだけなのだから、別にやましいことも何もないのだけれど。
……無いよね?
先に先生をトイレの窓側に押しやり、トイレの入り口の方を私が向く。単なる勘違いだったり、学校の教師とか生徒ならいいけれど、泥棒とかだったりする可能性もある。その場合は、私が先生を守らなきゃいけない。
咲野先生が窓を飛び越える際に、声を押さえずに私に言う。
「私、支え棒探してくるから待ってて。もし、中に誰か居るなら、外に出ないように閉じ込めておかないと」
「え? あ、はい……?」
トイレの入り口の方を向いていた私は、思わず咲野先生の言葉で振り返る。
「いや、でも支え棒で窓を押さえても、逆側の窓が、」
開いちゃうので意味が無い気がするのですが、と言い切る前に先生は既に闇の中に消えてしまっていた。ああ、ええと……まあいいか。
後になって冷静に考えると、捕まえて警察に突き出すつもりでもないのに、閉じ込める意味は無かったような。
先生もかなり焦っているなあとか笑っていたら、背後、つまりトイレの外からこちらに向かって、慌てたような足音が近づいてくる。まさか、本当に誰か居た? そして、さっきの先生の声が聞こえた?
このまま私自身が帰ってしまえば、足音の主も逃げてしまう。それはそれで、誰も傷つかない可能性もあったのだけど、もし先生がすぐに戻ってきたら足音の主と鉢合わせになってしまうこと、本当に泥棒だったら捕まえた方が良いこと、かといって武器も持っていないし、この暗闇の中であれば、相手も視界が悪いため、私を見つけられないこと、トイレに入ってくるタイミングを見計って突き飛ばすのが一番成功率が高いだろうと推測したこと、それなりに力と体力に自信があったから相手がよっぽどの男の大の大人でなければ大丈夫だと考えたこと、そんな様々なことを考慮して、私はトイレの入り口直ぐ側に立った。
落ち着いてから考え直したら、なんて私は無謀なことをしようとしたんだろうと反省。体格差だけではなく、相手が武器を持っている可能性も考えると咲野先生を追いかけつつ、この場から逃げるべきだったと思う。
足が震えている。
ホラー映画とかの主人公が、ゾンビだとか殺人鬼に追い立て回されて隠れているときのように、早鐘を打つ鼓動がうるさい。ダッフルコートの上から胸を押さえて、呼吸を整える。
足音が近づいて、誰かがトイレに飛び込もうとした瞬間。
「やああぁっ、あっ」
勢い良く相手に組み付こうとして、やはり足の震えが止まっていなかったからか、私はその暗闇の人物に抱きつくような形になって、倒れこんだ。
「ひゃあああぁぁっ、むぐっ」
一度、耳元に近い場所をハイトーンの悲鳴が掠め、その直後、悲鳴は私の顔の前で唐突に止んだ。
「んんっ……ん!?」
一体、何でその声が遮られたのかと理解するのには時間を必要としたけれど、結局のところ、その原因は私の唇が、倒れこんだ際に相手の柔らかな唇を、恋人同士がするそれよりも濃厚なくらいに塞いでいたからだったと気づいたのは、見事にドタバタ恋愛コメディよろしく、私の右手がご丁寧に相手の、自己主張がそれなりにある柔らかな膨らみの上に乗せていて、相手が女性だと気づいて飛び起きたタイミングだった。
いつもは2000文字目安ですが、今回はちょっと長くなりました。
ちょっと伸ばしたら新しい女の子が出せる! と思ったら、そっちを優先したくなったからです。
2015/10/19 誤字・脱字修正3箇所
申し訳ありません。誤字・脱字修正です。
<誤字>
「良く良く気をつけないと分からない厚みだから、」
↓
「良く良く気をつけないと分からない隙間だから、」
トイレ侵入前のシーンです。
ダンボールの厚みに釣られて厚みと書いてしまっていますが、実際は窓の隙間の話ですので、文章中は「隙間」とすべきでした。
<脱字>
「この先生だから実は窓をバーン! と勢い良く閉めたから反動で、」
↓
「この先生だから実は窓をバーン! と勢い良く閉めたから反動で開いた、」
窓の隙間が空いているのが本当に勘違いじゃないか、確認しているシーンです。
この言葉を追加しておかないと意味が通りにくくなるため、修正しました。
<誤字>
「この暗闇の中で私自身も相手のであれば、トイレに入ってくるタイミングを見計って突き飛ばすのが一番成功率が高いだろうと推測したこと、」
↓
「この暗闇の中であれば、相手も視界が悪いため、私を見つけられないこと、トイレに入ってくるタイミングを見計って突き飛ばすのが一番成功率が高いだろうと推測したこと、」
文章の修正途中で、別の文章の作成に進んでしまったため、いろいろと足りていませんでした。
これからも、このような修正があるかもしれませんが、お付き合いいただけたら幸いです。
2016/8/19 文章見直し
上記の前回直した部分や職員室前で準くんが見張っている部分などの言い回しを修正しました。
ついつい変わった言い回しを使おうとして意味が分からなくなっていたりする部分とかもありますね……反省です。
2017/10/25 誤字修正
2015/10/19の誤字修正で修正したつもりになっていたところが直っていないと指摘を頂いたため、再度修正させていただきました。