第4時限目 変化のお時間 その16
暗い海に溺れるような感覚の中から、不意に手を伸ばした私の手が、がしっと掴まれたことで暗黒宇宙水泳から急激に引き戻された。
「準、起きた」
「……ああ、工藤さん、おはよう」
目の前に今朝もドライヤー掛けをしてあげたふわふわ髪のクラスメイトが私の手をがっちり掴んでいるのを見て、気を失う前のことを思い出す。
……そうだ。私は吸血鬼に血を吸われた。そして、その吸血鬼はこの学校の生徒の服装をしていた。そしてまた、吸血鬼被害者の傍に居合わせたクラスメイトが目の前に居る。
「……やっぱり、くど――」
「駄目だって言ったのに、準の血まで吸った」
「だ、だって……ちょっと味見のつもりだったのに、美味しかったから止まらなくなって……」
「――へ?」
話を遮られた上、工藤さん以外の女性の声がして、私はそのまま視線を部屋の隅、長い黒髪を人差し指でくるりくるり弄りながら椅子に座っていた女子生徒へと視線を向けた。
「…………園村さん?」
「おはよう、小山さん。お加減は?」
ボリュームのある膨らみを更に主張するように伸びをしてから、園村さんが答える。
「転校してすぐなのにクラスメイトと吸血鬼の話を追いかけている上、ここ最近私の方をちらちらと見ていたから、もしかしてと思って貴女の行動を監視しようと手芸部に呼んでみたところにあの電話。もうバレていたとは思わなかったです」
「え? ……え?」
ズゴゴゴゴゴゴ、と後ろから謎オーラが立ち上がっている園村さんに対して、見に覚えのない濡れ衣で問答無用の有罪判決を下された人みたいな心持ちで園村さんを見上げる。脳内で疑問符妖精があっちにふらふら、こっちにふらふら飛んでいる状態で、一体何が何だか。
いや、見ていたのは工藤さんの方ですよ、確かに工藤さんが居るところには常に園村さんが居たかもしれないですが、と弁解したいけれど、今その弁解に意味があるかと問えば……まあ多分無いよね。
「いつも通り、私が代わりに吸われていれば問題無かった」
「いつも華夜に頼ってばかりで、ここのところふらふらじゃない」
「でも、代わりに準が死にかけた」
「うっ……」
工藤さんの言葉に私は背筋がぞくっとした。
「ち、違うから! 小山さんの場合は……血が何故か今までの女の子とは凄く違って美味しくて! そう、小山さんの血が美味しかったのが悪い!」
コミカルな動きでビシィ、と私を指差す園村さん。
「駄目。反省しなさい」
「……はい」
そして、工藤さんに叱られて小さくなるしょんぼり顔の園村さん。
……駄目だ、やっぱり頭が働いていないからか、理解が出来ない。
吸ったって何を?
血が美味しいって?
園村さんが言ってるの?
誰の血?
私の血?
……じゃあつまり。
吸血鬼は工藤さんじゃなくて、園村さんの方だったってこと?
少しずつ頭が働き始めた気がする。
確かに、工藤さんが吸血鬼だとして、私の首元に噛み付くには工藤さんの身長は低すぎるし、血を吸われて私が倒れそうなのを抱えられるような力があれば、桜乃さんを保健室まで連れて行こうとした際、彼女をおろし金の上の大根みたいに地面にゴリゴリすることは無かったはず、と全て明かされた今なら思える。
でも、じゃあ工藤さんの低血圧の原因は……まさか?
「工藤さんが去年くらいから急に低血圧になったのって……」
「千華留が学校の女の子の血を誰彼構わず吸うから、代わりに私が吸わせてあげてた」
「……」
工藤さんと園村さんが仲良くなったのも去年から。工藤さんが急に低血圧になったのも同じ頃。
つまり、私は間違って工藤さんをずっと疑っていたということ?
工藤さん……ごめんなさい。
「本当に……そ、園村さんが……吸血鬼? いたっ……」
体を起こそうとしたところで、首筋の右後ろに走った鋭い痛みでソファの上で蹲る。痛みの場所はさっき園村さんに噛まれた辺り。理解を超えた状況と痛みが脳内でカオスフィーバー中の私に、不敵な笑みを浮かべる制服姿の園村さんがのしかかる。
「そう、私が吸血鬼。でも大丈夫、今から私が吸血鬼だということに関する記憶だけ消してしまいます。終わったら綺麗さっぱり、吸血鬼のことは覚えていないでしょう」
少しずつ言葉が砕けてきた園村さんは、自分の唇で私の痛む場所、つまりさっき園村さんが噛んだ部分を唇で覆って、舌でゆっくりと這わせた。当然、まだ体がまともに動かない私は全て園村さんの為すがまま。
……この感じ。あのときの首元で動いていたのは園村さんの舌だったんだ。
「吸血鬼だからか、私の唾液は血を早く固まらせる能力と血を吸ったときの痛みを和らげる能力があるようなので、これですぐに痛みは引くはずですよ。ただ、この効果だけでは血を吸った後に誰が吸血鬼かバレてしまうからなのか、吸血鬼である私たちは記憶を改竄する能力もあるんです。まあ、同性にしか効かないという問題があるから、血を吸う相手は同性に限られてしまうのですが……まあ、こんな話をしてもすぐに貴女の記憶は無くなってしまうから、意味は無いでしょう。じゃあ、私の目を見て……」
記憶を消される、と宣言されていても私は目を瞑ることすら出来なかった。濡れ羽色は髪の毛にしか使われないのかもしれないけれど、その瞳には同じように表現したくなるしっとりとした黒に吸い込まれそうな感覚に襲われる。
数秒の視線合わせで満足した様子の園村さんは、
「さあ、これでいいわ。華夜、手芸部の子たちへの言い訳は、小山さんは電話中に倒れてしまったから、先に帰ってもらったということにしましょう」
と言いながら、私の上から降りる。
……あの、いや、ちょっと待って。
「……分かった。準はどうする?」
「悪いけれど、目を覚ましたときに簡単にさっき言った事情を説明しておいて。ああ、小山さんの携帯はそっちのテーブルの上に置いてあるから」
いや、ちょ、ちょっと待って。
「うん」
「後は手芸部の子たちに不信感を抱かせないように――」
「いや、ちょっと待って!」
「………………え?」
「………………?」
園村さんの疑問顔、工藤さんの珍しく訝しがる顔、体を起こした私の首を傾げる姿。三者一様、皆疑問を呈した態度だった。
「あ、あら、失敗? ほら、もう1度横になって!」
確かに園村さんに舐められたところは痛みが引くようで、ようやく体を起こせたと思ったら、また園村さんにのしかかられた。それも今にもキスしそうなくらい超ドアップに迫られて。
「じっとしてなさい!」
5割怒り、3割苛立ち、2割焦燥の目が私を再度見つめるけれど、綺麗だという感想以外で何か変わるものは無かった。
「ど、どう?」
「どう、と言われても。園村さんが吸血鬼なんですよね」
「…………ど、どうしよう華夜!」
突然、ひーん! と泣きながら工藤さんに泣きつく園村さん。その姿は今までのクールな感じとは打って変わって、どちらかというと子供みたいな可愛さと情けなさが共存した表情だった。
「な、なんで? なんで効かないの? 今までの女の子は全員効いてたのに!」
どうやらさっきみたいに視線を合わせると記憶を操作することが出来るんだろうなあ。何故か私には効いていないみたいだけれど。
……いや、何故かも何も、さっき園村さんが言っていた言葉にヒントどころか丸々答えが隠れているんだけど。




