第3時限目 日常のお時間 その20
「な、何ですか益田さん」
太田さんの動きを止めた声の主は、食堂からエプロンと三角巾を外した益田さんだった。
そういえば、太田さんの下の名前を聞いたことが無かったけれど、益田さんが萌と呼ばれて反応したってことは、下の名前は萌って言うのかな。
あ、でも初めて咲野先生と会ったときに、萌がどうこうって言ってた気がする。あれって、太田さんのことだったんだ。
何にしても名前とは似ても似つ……いや、これ以上は言わないでおこう。
良く考えたら、前に益田さんと電話しているときに名字を聞いただけで、太田さんとはちゃんと自己紹介もしていない。階段で叱られた印象が強すぎたから少し苦手意識があって、ちょっとお近づきにはなりたくないと思っている自分も居るし。後は、既にある程度知り合っているのに、今更自己紹介するというのも何だか気恥ずかしさを感じるところもあるかな。
「その猫の飼育については私が許可を出した」
「な、何故ですか!」
食って掛かる太田さんに対し、益田さんは腕を組んで冷静に答える。
「既に前例があるからな」
「前例……もしかして、あの地下室の少女が、学校に猫を持ち込むときに作ったという何の効力もない屁理屈塗れの紙切れを使っているとでも言うんですか!?」
「ああ、そうだ」
理事長の娘だからなのか、学校での周知の事実となっているのかは知らないけれど、太田さんもみゃーちゃんのことについては知っているみたい。猫の入学許可書の情報についても知っているのは理事長の娘権限で入手した情報だと思うけれど。
「馬鹿馬鹿しい! そんなものが何の意味があるんですか」
「美夜子だけに特例を出す訳にはいかないだろう。同じように猫を飼いたいと言っている人間が居るのだから、生徒は平等であるべきだ」
いえ、飼いたいとまでは言っていないんですが、と訂正しようかと思ったけれども止めておいた。だって、間違いなく今口を挟むのは火にガソリンタンクを投げ込むような行為だから。なので、私は「そうですねー」風の表情を作って太田さんに笑い掛ける。
「そんなことをして、寮の中が傷だらけになったらどうするんですか!」
「そうならないように、ちゃんと躾けているんだろう? 小山さん」
「え? あ、は、はい!」
突然、話を振られた反動で私は頷いてしまい、落ちてきたテオはくるりんと1回転しながら見事な着地。流石猫。
「……ということだ」
「…………っ、勝手にしてください」
腸が煮えくり返るどころか、圧力鍋で強火で煮込んでいるような目でこちらを睨み、太田さんはずんずんと足音を立てて自分の部屋に戻っていってしまった。
やれやれ、と頭を掻きながら益田さんは私に微笑を湛えながら言う。
「彼女は彼女なりに色々気を遣っている……いや、気を遣いすぎているから、これは仕方がないことだ」
「気を遣って……?」
申し訳ないけれど、彼女の行動は気を使った人の行動とは思えない。どちらかと言えば、自分の考えで当たり散らしている様子にさえ見える。
益田さんに直接そこまでは言わないけれど、私のやや疑惑の念のこもった声に益田さんは心中を察してくれたようだった。
「そうだな……言葉の選び方が悪かったか。彼女は彼女なりに学校の規則に則り、在るべき学生、ひいては学校の姿の在り方を考えているんだろうと思う」
「在り方?」
「彼女は理事長の娘だからな。その肩書は自分自身が見て見ぬふりをしても、周りはそうしてくれない。つまり、どんなときも『理事長の娘』であるから、清廉潔白であろうとしているのだろう。だからこそ、稀に母親にまで噛み付いているところも見るが、あれでは彼女自身、疲れて体を壊してしまうだろう」
去り際の太田さんの表情を思い出すと、言われてみれば険のある表情の中に何処か憂いを……ううん、私には感じられなかった。と言うよりも、そこまで表情を良く見ていなかった。
……そうだ。私は太田さんを良く知らないし、良く見てもいない。ただ少し関わっただけで嫌な人間だとか、距離を置きたい人間だって勝手に判断している。
「そう、なんでしょうか」
「そうなんだよ。まあ、彼女も友達があまり多い方ではないようだから、仲良くしてやってくれ」
「そうしたいのは山々ですが、太田さん自身がどう考えているかは分からないですよ」
「別に今日明日で親友になれという訳ではない。なあに、心配しなくても、同じ寮内に住んでいるのだから、嫌でも顔を合わせることは出てくるから良い面も悪い面も良く見えてくるだろう。それからでも遅くはないさ」
くすり、と笑ってから益田さんが靴を履いて、
「ああ、食事の準備はもう出来たから好きに食べてくれ」
私に笑いかけながら寮を出ていった。
「仲良く……とは言っても私がどうにか出来る問題ではないと思うのだけど、ねえ、テオ?」
苦笑いを隠さずに頭の上に乗っけたテオを見て呟くように言ったけれど、ただ気の緩んだ「なーぉ」という声が返ってきただけだった。




