第17時限目 水際のお時間 その35
「た、確かに私はそれなりに喧嘩もしてきていますが、それが良いとはあまり思わないですし……」
むしろ情けないと思うのだけれど、と思ったら正木さんの表情の輪郭が、笑顔に変わった。
「前にも言いましたが、私は一人っ子だったので、姉妹で喧嘩するなんてこともできなかったんです。それに友達も居ないから、友達とも喧嘩していないですし、お父さんやお母さんとも全然……ですね」
うん……?
正木さんが腹を立てることってあるんだろうか。
「……あ、もちろん私だって腹を立てることはありますよ」
心を見透かされたような気がして、ぎくりとした。
いや、でも話の流れからしたら当然思うことだよね。
「ただ、言い合いになった結果、疎遠になってしまうとかが怖いので、何も言えず。だから、喧嘩することも……そしてその後に仲直りすることも、やっぱり私にとっては羨ましいことなんです」
確かに、あのとき真帆と喧嘩したけれど、あのままどっちも折れなければ、真帆と喧嘩別れしてたということもありうるわけで……。
うん、良く考えると、私が良く考えて行動していないことが良く分かる。
「それと……さっき、真帆が言ったことも正しいです」
「真帆が言ったこと?」
「はい。親友が増えたから、私が変わったって」
……ああ、そうか。
あのときは何気なく耳に入ってはいたけれど、その後に真帆とわちゃこらし始めたから、その言葉の意味を十分理解していなかった。
「多分、真帆も分かってるんだと思います。小山さんが来てから、私が変わったっていうこと」
「……」
そうなんですね、と簡単に流せる雰囲気ではない。
正木さんの吐息は、確固たる意思を感じた。
「もちろん、片淵さんとも仲良くなって、いつも一緒に居るようになってから少し変わったところもありました。ただ、今なら分かるんですが、多分片淵さんも家の事情を抱えていたから、私たちと少し距離を取っていたんだと思います」
確かにあの状況では……うん。
「どちらかというと、片淵さんも私と同じ側の人間かもしれないですね。私や真帆と会って変わった以上に、小山さんに会ってから色々変わった側という意味で、です」
ふふふ、と小さく笑う正木さん。
「自分自身、自分がどこまで変わるのか、興味があるんです。こうやって、私が一方的に喋るなんて今まで全然無かったですから」
「あ、えっと……」
そうだった。
ついつい、頭の中で考えてばかりで言葉として出すことが疎かになってしまうことが多い気が……あ、今もそうだ。
まあ、その沈黙が喋りやすい雰囲気作りに貢献していたのであれば、一概に悪いことだとは言えないのだけれど。
「小山さんに甘えてばかりですけど……」
正木さんが少しだけ背筋を伸ばしたのが見えた。
そして。
「これからも甘えさせてくださいね」
えへ、と少しいたずらっぽく笑う声が聞こえたから、
「私で良ければ」
と私も笑って返した。
「それでは、これからもよろしくお願いします」
正木さんがそう言って、頭を下げた。
だから、私も。
「あ、いえ、こちらこそ、よろしくお願いします」
――慌てて頭を下げたから。
ごちん!
「……あいたっ」
「いたっ!」
深々と頭を下げていた正木さんの後頭部に頭突きを食らわせることになってしまった。
私も痛かったけれど、私以上に正木さんの方が痛かったと思う。
「……ご、ごめんなさい! 正木さん、だ、大丈夫ですか?」
私が後頭部を抱えてうずくまってる正木さんに声を掛けると、
「……酷いです、小山さん。もう絶交です」
と弱々しく言って、そっぽを向く正木さん。
「あわわ……、すみません! わざとじゃ、わざとじゃないんです!」
しまった、折角いい感じだったのに、もう縁を切られた!
どうやってこのお詫びを――
「……くすっ」
「えっ」
突然、暗闇の中に笑い声が聞こえて、幽霊!? と思ったせいで一瞬脳が停止した……気がした。
まあ、もちろんそんなわけがなく。
それが正木さんの笑い声だとに気づくのには、少しだけ時間が掛かった。
「……ぷふっ、冗談です、小山さん。怒ってないですよ」
正木さんが立ち上がってそう言ってから、
「あ、でも、とても痛かったのは事実です」
と付け加えるから、私はやっぱり、
「本当に、ごめんなさい……」
とやっぱり頭を下げ……かけて「あ、またぶつけるかもしれない!」と脳が反射的に頭を上げる方に戻し、でもやっぱり頭を下げ……という、傍から見ると挙動不審にしか見えない行動をしてしまう。
それを見て、正木さんがまた笑う。
「ふふふ、本当に、小山さんと一緒だと楽しいです」
そうして、正木さんは私の手を取って。
「これからも、ずっと友達で居てくださいね」
月明かりの中、表情がはっきり見て取れる距離まで近づいた正木さんに、胸の鼓動を隠せないながらも。
「……はい、こちらこそ、ずっと友達で居てください」
そう言って、私たちの小さな笑い声は夜の闇に溶けていった。




