第9時限目 旋律のお時間 その23
「面白くない、とは……」
地雷を踏んだかもしれない、と恐る恐る私が尋ねると、
「ああ、いや、そんなに心配することではない。単純に、オバサンの昔話に付き合っても面白くないだろうという意味であって、言いづらい過去があるとか、そういう訳ではないからな」
と益田さんが笑顔で答えた。それなら良かった。
「食べながらで構わないから、まあ何となくで聞いてくれ」
益田さんはそう前置きをして、私たちが頷くのを確認してから、再度言葉を繋げた。
「昔にクラスメイトにピアノが大好きな子が居てな。将来は絶対にピアノの先生になると公言していて、休み時間は頻繁に音楽室へ通い、練習しているような子だったんだ。私も彼女のピアノに聞き惚れて、私がピアノを始めるほど、小さい頃から上手だったな」
過去の映像を見返すみたいに虚空を見上げて、益田さんがぽつりぽつりと語る。
「ああ、ちなみにそれは中学のときだな。もしかすると小学校の頃にも練習していたのかもしれないが、私は中学で初めて会ったから、それまでのことは良く知らない」
益田さんは噛みしめるように思い出を言葉に出していく。
「そんな折に、私も通っていたピアノ教室の発表会があって、音楽室で練習をさせてもらっていたら、彼女が来て、熱心に教えてくれたことがあって。それから、休み時間には良く2人で音楽室でピアノの練習をしていたっけな」
頬をほころばせて、一旦喉を潤すために持ってきたコーヒーを一口含んでから、益田さんは続けた。
「ただ、そのピアノ好きの彼女とは高校で別々になってしまってね。学校では良くピアノの話などはしたけれど、彼女はピアノを弾くことに生きがいを感じるタイプだったみたいで、友達と外で遊ぶとか、その日のテレビの話題とか、そういうものには一切興味がないようだった。それもあって、家に遊びに行くとかもしたことが無かったな」
「益田さんはどんな高校へ行ったんですか?」
少し気になって、私が手を止めて尋ねると、
「ん? ああ、私は普通科の地元の高校だ。まあ、そもそも近場の高校の方が色々と都合が良いからな」
「……その彼女を追いかけることはしなかったのですか?」
同じく、片淵さんも手を止めて尋ねた。
「ん、そうだな。確かに最初は彼女と同じ高校へ行こうと思ってはいた。彼女が行こうとしていた高校は音楽で有名だったらしいからな。ただ、中学3年間通して練習して、あまり私自身ピアノが得意ではないと気づいたんだ」
「得意じゃない?」
「ああ。練習が足りなかった、というのは確かにあるのかもしれないが、やはり幼少期から始めているか、ミーハー……という言葉は最近あまり使わないか? まあ、流行り廃りというか、人に流されて始めた人間かの違いは明確で、彼女はどんどん上手くなっていくのに、自分はいつまで経っても同じレベルだと気づいて、ついていけないなと感じたのが素直なところだった」
ははは、と乾いた笑いを浮かべて、益田さんが答えた。
「だから、私はピアノ奏者やピアノの先生になることは諦めて、他の道に進んだ」
「そうだったんですか……」
私の声色から、残念そうな雰囲気が伝わってしまったみたいで、
「まあ、あのときの選択が正しかったかはわからないが、少なくとも後悔はないさ。あのとき、彼女を追いかけるというためだけに高校を変えていたとして、劣等感を抱きながらピアノを引き続けられたかは非常に怪しいしな」
掛ける言葉が見つからない私と片淵さんに、笑顔で再度コーヒーを飲んだ益田さんは、ふうと小さく息を吐いてから言った。
「ピアノ奏者になる夢は止めたが、それでもふとピアノの音が聞きたくなってしまうことはあってな。CDでクラシックを聞くのでも良いんだが、自分で触りたいという欲もあって、こうしてたまに弾いている、というわけだ」
「なるほど……」
いつの間にか、私と片淵さんは完全に手が止まって、折角のオムライスが冷め始めていたけれど、気になったことはどうしても聞いてみたくなる。
「その彼女は……今どうしているとか知っているんですか?」
私の質問に即答する益田さん。
「全く分からん」
「何処に住んでいるか……とかもですか?」
「ああ。高校で分かれてから、1度も会っていないからな」
「高校のときの家とか……」
「彼女も良い年だ。もう結婚しててもおかしく……い、いや、この話は止めておこう」
自爆というべきか、私の質問による誘爆というべきか……後者の方が正しい気はするけれど、とにかく益田さんが慌てて話題を逸した。
「彼女がまだ元気にしているのであれば、まだピアノを頑張っているのか、聞いてみたいところだな」
ピアノへの熱は冷めていても、当時のその友達への思いの火はまだちらちらと揺らめいているようだった。




