第9時限目 旋律のお時間 その2
鍵盤に指を走らせていたのは、最近エプロン姿ばかり見ていた益田さんの姿だった。
ころころと転がるような優しい音色がふわりと耳をくすぐっていた音に少しだけ目を閉じて耳を澄ましていたら、途中で弾き間違えてしまったところでぴたりと演奏を止めてしまい、
「ふう……」
と溜息を鍵盤の上に転がした益田さんは立ち上がってこちらを向いたから、必然的に私たちは目があってしまった。
「……うおぉぅ!」
多分、私と片淵さんが居るとは思っていなかったからだろうけれど、数拍の思考停止の後、素っ頓狂な声を上げた益田さん。
「い、いつからそこに……?」
悪戯が見つかってしまった子供みたいに焦った表情の益田さんだったけれど、私たちはほぼ同時に、
「さっき来たばかりです」
「さっきですねー」
と答えていた。まあ、所謂待ち合わせでの「今来たところ」パターンというか、1番当たり障りのない回答かなと思っていたら、片淵さんも同じことを思っていたらしい。
「はは、恥ずかしいところを見られてしまったな」
「別に恥ずかしくはないと思います、とてもお上手でしたし」
私がそう言うと、
「いや、まだまだだ。どうも指の動きがいまいち思った通りに動かなくてな」
と首を振って不満足げな表情を見せる益田さん。
「指の動き以外にも、後半に入るトリルの最中に打鍵回数が分からなくなって手が止まることもあるから、完全に練習が足りていないな」
「トリル……って何でしたっけ」
聞き覚えがある言葉ではあるけれど、意味を忘れてしまっていたから尋ねると、
「2度違いの音を交互に弾くことだよー。同じ音を連続で弾くのがトレモロ」
と益田さんではなく隣に立っていた片淵さんが答えてくれた。
「おや、ピアノやっているのかい?」
片淵さんの解説に、目をぱちりと大きく瞬かせた益田さんが食いついた。
「はい。幼稚園くらいからです」
「おお、そうか。私は小学校の頃に始めて、高校になってから一時的にピアノを離れていたんだが、諸事情で大学に入って再度始めて、また止めて……と弾いたり止めたりを繰り返している。まあ、だからさっぱり上達していないのだが、たまにどうしても弾きたくなるときがあるから、寮にピアノを置かせてもらって、誰も居ない時間とかに練習させてもらっている」
「置かせてもらって……ってもしかしてこのピアノって益田さんのなんですか?」
私が尋ねると「そうだ」と首を縦に振った益田さん。
「中古で買ったものだが、寮長室に置くにはちょっと大きいのと、私以外にもたまに弾く子が居るから、こちらに置かせてもらっている」
「あ、調律はされているのですか?」
益田さんも益田さんでピアノネタに食いついていたが、片淵さんも片淵さんでやはりこのネタには食いつきが良いみたい。というか片淵さん、幾分かお家モード、つまりお嬢様モードが入っているなあ。
「ん、ああ、そうだな。大体、ゴールデンウィークか夏の長期連休の前にしてもらっているな。その時期なら寮の生徒も減って、タイミング的にも丁度良いし、落ち着いてピアノの練習も出来るからな」
「あ、調律はどこに――」
徐々に専門的な話題に入っていったようで、私には全くついていけなくなったのだけれど、とにかく2人はピアノトークで盛り上がっているから、私も邪魔しないようににこにこするだけの機械になろう。
しばらく途切れなくトークが続いていたところで、
「……ああ、すまない。小山さん、そういえば何か要件だったのかな?」
と私に話題を振ってくれた。
「あ、いえ。ちょっと……」
私が事情を説明しようかとしたところ、
「私がちょっとピアノを弾かせていただけないか、相談させて頂こうと思って来たところです」
かなりお嬢様モードにスイッチが切り替わった片淵さんがそう言った。
「ああ、そういうことだったのか。それなら構わないさ。ここに置いてあるから好きなときに使ってくれ」
と快諾を貰った。
「でも、益田さんがピアノ弾くなんて知りませんでした」
転入してきたばかりのときの益田さんは、ハイテンションというか何だかネジが数本吹き飛んだようなキャラクターだった気がするのだけど、あの頃のキャラクターは一体どこへ行ったのだろうと思うくらいに最近はまともだと思う。
というかよく考えると、料理は上手、ピアノも弾ける、容姿も良い大人の女性って改めて考えると、かなりハイスペックな気がする。旦那さんは居るんだろうか。
……あれ、いやそういえば独身貴族がどうとか咲野先生が言っていたような。あれかな、高嶺の花過ぎて皆から敬遠されていたらいつの間にか、というパターンだったりするのか、あっちのネジぶっ飛びキャラしか外に見せてないとか?
「まあ、歳を取ると色々あってな……とオバサンの昔話は聞いても時間の無駄だろう。ピアノは好きに使ってくれて良いから、終わったらカバーを掛けておいてくれ。私は寮長室に戻るよ」
「はい」
「分かりました」
私たちが肯定の態度を取ったのを確認して、益田さんは食堂を出ていった。
「良かったね、片淵さん」
「うん、そだねー。楽譜持ってこないと。ちょっと部屋戻るねー」
「分かった」
食堂を出た片淵さんを待つために、私は手近な椅子に座った。




