第8時限目 変身のお時間 その29
「うん、分かった。ありがとう、繭ちゃん。片淵さん」
「んにゃー、良いってことよー」
「いって、らっしゃい」
「いってらー」
私は2人に見送られて洗面所を出て、部屋に舞い戻る。そして、ジャンパーを掴んで袖を通しながら、部屋を出るときに、
「テオ、お留守番よろしく」
とだけ声を掛けて鍵を掛ける。まあ、テオはそもそもお昼寝ならぬお夕寝していたけれど。こんなに寝てるから、朝早くから起き出して、朝5時とかに私に猫パンチを食らわせたりすることがあるんじゃないかな。
階段を慌てて駆け下り、玄関を飛び出そうと靴を履いたところで、
「…………また貴女なの?」
静かな炎を纏った声が背後から響いてきた。
もう慣れっこ、というか誰なのかがすぐに分かるようになってきたなあ。それだけ、彼女の腹を立てた声しか聞いていない気がするのだけど。
意を決し、立ち上がって振り返ると、やはり眼鏡の奥に怒りを湛えた太田さんが立っていた。
「貴女は、何度、幾度となく言っても直らないようね」
ギロリ、という表現では生ぬるいような太田さんの視線が私を貫いている。
……多分、普段なら私も竦み上がっているかもしれなかったけれど。
「ごめんなさい。苦情なら後で幾らでも聞くから……急いでいるの」
つれない態度と言われても仕方がないとは思うけれど、本当のことだから仕方がない。太田さんに怒られることよりも、困っているかもしれないクラスメイトの元に行く方が大切なことだと思うから。
「貴女ね……!」
バックドラフトみたいに、怒りの炎が一瞬で全身に回ったように見えた太田さんは、
「分かってる。言いたいことは分かるけれど、今は……」
と言いかけた私の声を掻き消すように、
「何も分かってないわ!」
なんて耳をつんざくような声量で叫ぶ。
流石にその声量と反応に尋常じゃないと思ったらしい片淵さんと繭ちゃんが慌てて脱衣所から出てきたけれど、私と太田さんの姿を見て、ほぼ同時に立ち止まった。
……ええ、こんな状況です。
「こんな時間に勝手に出歩こうとすることも! 足音を立てて寮内を走り回ることも! 非常識も良いところだわ!」
まくし立てるように言う太田さんの言葉に、私は静かに耳を傾ける。言い方は悪いけれど、言いたいだけ言わせて、満足したら出ていこう。その後のことはその後考えよう。
……そう考えていたのだけど。
「だから、あの最低でクズな大隅、中居みたいな人間とつるむようになるのよ!」
太田さんにとっては何気ない言葉だったのかもしれないけれど、その言葉を聞いたとき、太田さんの怒りの炎を点火剤として、私自身の怒りも一瞬で頂点に達した。
「訂正しなさいッ!!」
発声した自分自身が驚いてしまうほど、大声で私は怒鳴っていた。私の怒鳴り声で、あれだけ怒りが灯っていた太田さんの顔が一瞬で青くなるくらいに。
私はまた自分が激情に囚われて、道を踏み外しそうな状況にいることを意識しながらも、靴の踵を踏んで脱ぎ、太田さんに詰め寄った。
「確かに私は今までの彼女たちを知らないけれど、貴女に一方的に最低だのクズだの言われるような子たちじゃない!」
「で、でも――」
「でもじゃない!」
太田さんの言葉の横っ面を弾いて掻き消すように、私は更に語気を強めて言う。
「確かに彼女たちは今まであなたに迷惑を掛けたりしたこともあったのかもしれない。私が来る前の彼女たちは知らないけれど、ちゃんと話せば分かるって、あの日分かったわ」
学力の向上はやる気があるからどうにかなる問題でもない気はするけれど、少なくとも現状に対する問題意識は持っていて、ちゃんと勉強をする気には……ちょっとはなってくれたのだから、彼女たちが単純な分からず屋みたいに言うのは許せない。
「わ、私だって話はしたわよ!」
私が声量を大幅に落としたからか、太田さんもようやく言い返すことが出来るようになってようで、消え失せていた怒りの色が再び表情に戻り始めている。
「ええ、そうよ。私は何度も彼女たちをまっとうな道に戻そうと話をしてきたわ! でも彼女たちは毎回反発して!」
さっきの一瞬の燃え上がりで落ち着いたのか、息巻く太田さんの様子を冷静に見つめていた私は真摯な目で太田さんを見つめて尋ねた。
「今みたいに高圧的に言われたところで、言うことを聞く人間がどれくらい居ると?」
「……ぐっ、あ、あの子たちが悪いんだから……っ」
最後、言葉に詰まった太田さん。多分、自分自身でもその辺りは何となく思い当たる節はあるのだろう。
初めて会ったときもそうだし、今もそうだけれど、彼女も私と同じで一旦頭に血が上ると止められない性格のようで、言ってはいけないこととか、相手が態度を改めたくなくなるような態度だったりするんだろう。
……そっか。
今まで自分に足りなかったのはそういう“謙虚”だけれど“真摯”な態度だったのかな。怒りに任せる喋り口ではなくて。
「正直、この学校に来たばかりのとき、益田さんとかにも頼りにされているし、きっちりしていて凄いとは思っていました。でも、今日良く分かりました。太田さんのやり方は間違っています」
「……!」
怒りだけではなく、深い藍色みたいな感情が目の奥に見えた気がしたけれど、ここでは言わなければならない、はず。
ただ、今まで失敗してきたただ単に相手を傷つけるような言い方ではなく、出来るだけ言葉に気をつけつつ。
「規律、規範。そういうことから少しでも外れたら許さない。それじゃあ誰もついてこないし、むしろ背を向けられるだけです」
「じゃあ、見て見ぬふりしろというの!?」
なおも食って掛かる太田さんに、私は深呼吸してから――
がばっと、抱きしめた。
「な、んなぁっ!?」
今まで聞いたことのないような声色が耳元で炸裂する。
正直、一連の流れだけを見たら私の頭がおかしくなったとしか思えない気はするけれど、私なりに考えはある。片淵さんのアレとは違って。
多分、彼女の求めているものは“それ”だと思うから。




