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生物兵器な神子

般若犬の女

作者: 胡摩 餡子

「生物兵器って響きがちょっと格好良くね? とかそれなんて厨二病」及び「神子が来たりて歌を歌う」関連作です。

拍手御礼画面にてネタばらし兼ねた人物設定を公開しています。

「課長、お先失礼します」

「はい、お疲れ様」

 部下に挨拶を返しながら、飯崎はちらりと時計に目を走らせた。10時を回っていたのを確認すると、一つ息を吐いて背もたれに体を深く預ける。このところの忙しさのせいで、疲労が澱のように体に積もっていた。飲み物でも買ってこようかと腰をあげると、一つだけきれいに片付けられたデスクが目に入る。

 このところの忙しさの原因である部下は、消息不明のまま本日付で退職していった。ロッカーや机に残った私物の引取りも兼ねて挨拶に来た両親を飯崎と部長で応対したが、僅かの間にげっそりとやつれた様子が他人事ながら胸に堪えた。


 今年で入社三年目の古河ふるかわ美子はるこが無断で会社を欠勤したのは二ヶ月近く前のことだ。周囲が「もっと肩の力を抜け」と口を出してしまうほど生真面目な古河には珍しい失態に課内の人間が驚き、何か抜き差しなら無い事情でもあるのかと楽観的予測を立てつつこちらから電話をかけてみても不通のアナウンスが流れるのみだった。連絡がつかないまま三日が経過したところで飯崎から彼女の実家へ事情を説明、そこから泡を食った母親が上京してアパートを訪ねてみるも、彼女の姿はどこにも無い。すぐに父親も上京して警察に捜索願を提出し、その日から彼女の両親の苦悩の日々が始まった。

 大家が店子及び近隣のネットワークを生かして聞き込んだところ、朝いつものように彼女が自宅を出て会社へ出勤するため駅に向かって歩いているところを目撃されたのが最後の姿だった。その後の足取りは杳として掴めず、彼女の両親と友人が思いつく限りの場所をあたってみても立ち寄った様子はない。実印は家の中、銀行口座も動いた様子は無く、携帯電話に電源が入った様子も無く、身代金を要求する連絡も無かった。

「何か会社のこととか、人間関係で悩んでたりとか無かったんですかねえ」

 彼女の両親に付き添って飯崎も警察に行くとそんな言葉で言外に事件性の無い「自発的失踪」を匂わされた挙句、課長さん良い男だし何かあったんじゃないですかと痛くない腹を探られるような真似までされた。彼女の両親がその一瞬、自分の様子を窺ったことが飯崎にはきつかった。勿論古河と飯崎の間には上司と部下という関係しか存在しなかったのだが。


 飯崎は自動販売機に寄りかかり珈琲を飲みながら、姿を消した部下のことを考える。口数も少なくその上無表情、愛嬌があるタイプではないが真面目で素直な性格から年配の女性社員に殊に可愛がられていた。黙っていると不機嫌に見える顔と不器用で朴訥とした人間性から、ハスキー犬みたいでどこか放っておけないと女性主任が話していたことも思い出す。仕事ぶりも地味で堅実といった按配で、同期の”ふわふわした”女性陣からはやや浮いていた。そんな彼女の最大の特徴といえば稀に見る音痴だったことだ。

 研修後の配属先による新人歓迎会の二次会でそれは発覚した。ドアの横の椅子に張り付いて必死に注文をしたりグラスを集めたり手拍子をしたりと歌うのを避けていたが、ついに断りきれずマイクを押し付けられてしまう。悲愴な面持ちで彼女が歌い始めた瞬間、またまたそんなこといって本当は上手なんじゃないのと笑って肩を叩いていた人間のみならず、今までカラオケそっちのけで話をしていた人間も口を開けたまま固まった。音程が外れているという次元の話ではなく、知っている曲のはずなのにまるで聴いたことがないような音楽に聞こえてくる。いやその場に漂っていたのは音と表現されるものではなかった。しかし何と表現したら良いのかも分からない。聞いているだけで異空間に連れ去られたような、このカラオケルームが丸ごと宇宙船の中に吸い込まれたような、何ともいえぬ不安感。結構な大きさの音量で曲と歌が流れているはずなのに、針が落ちた音でも拾い上げられそうな緊迫感と静寂に支配され誰も身動き一つ出来なかった。

 本人が真面目に歌っているのがわかるので、ふざけてやっているのかという野次すら飛んでこない。歌っているうちに少し気分が良くなった彼女の頬が紅潮し表情が明るくなったが、反対に他の人間が大仏のように無表情になっていった。

 曲が終わり彼女がマイクを置くと、やっと世界が戻ってきた気がした。どうフォローして良いのやらとぎこちなく会話が始まるものの目が死んでいる。雰囲気の居たたまれなさに彼女は無表情のまま落ち込んでいた。

 その後一年ほどはどこから漏れ伝わったのか彼女の歌を聴きたいという者がちらほら現れ迷惑そうな彼女を顧みずカラオケに連れ出すことがあったが、同じ人間から再び誘われることは無かった。こういった誘いをかけてくるのは概して厄介な人間が多いのに彼女の歌を聴いたあとは毒気を抜かれてしまうのか、妙に彼女に対して大人しくなってしまうのが常だった。そういう意味では「天使の歌声」とでもいうのか。

 同年代の男受けはしなかったが、年寄り連中からは可愛がられ、よく飴をもらっていた。御礼を述べた後いつも不思議そうに首を傾げてポケットに飴を入れる馴染みの光景、しかしもうそれは記憶の中だけだ。

 彼女はいまどうしているのだろう。果たして拉致だったのか。それとも本人の意思だったのだろうか。何れにせよ悲惨な末路と彼女は何となく結びつかず、意外とどこかで元気にやっているような気がした。

 自己満足に過ぎないとは解っていても、飯崎は彼女の無事と幸福を祈る。そして空の缶を捨て、もう一仕事するために自分のデスクへと戻っていった。




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