恋法師
12歳になるサトルは生きているのが辛くて仕方がありませんでした。
学校でいじめられているわけではありません。
両親から虐待を受けているわけでもありません。
それでも生きているのが辛くてなりませんでした。
サトルはいつも考えます。
どうして人間はこんなにも浅はかでさもしいのだろうか。
平気で嘘をついて、人を騙し、嘲り、
功績を残せば鬼の首を取ったかごとく吹聴し、
他人のちょっとした褒め言葉をご丁寧に額面通りに受け取っては、
増長し、慢心する。
学校ではいつも誰かがいじめられていて、
どうでもいいことを自慢し合っている同級生は
いかに自分が優れた人間かをアピールするのに必死です。
家に帰っても両親は毎晩のように喧嘩をして
唾を飛ばし合っています。
姉は自分と違って出来の悪いサトルを
自らの面汚しとばかりに煙たがります。
ああ、もう面倒くさいなあ。
本当に頭が悪いなあ。
人間を見ているとサトルは辟易して、
もうこんな世界で生きていきたくないと
いつも思っていました。
そんなサトルにも唯一楽しみがありました。
それは眠ることです。夢を見ることです。
夢の中ではみんな慈愛に満ちていて
くだらない争いは絶対に起こりませんでした。
常にいじめる対象を探している同級生のカズオとミノルも
夢の中ではいたずらっぽく笑いかけてきて
温もりのこもった手でゆっくりとサトルの肩を撫でてくれます。
家族はサトルに対して無償の愛を振りまき、
サトルはいつだって温かいゴハンを食べることができました。
しかし所詮夢は醒めてしまいます。
朝目が覚めてしまうたびにサトルは歯ぎしりしながら
自分の太ももを毛布越しに叩きます。
ああ、また一日を生きなくてはいけない。
早く夢に戻りたいなあ。
文学少年だったサトルは江戸川乱歩の
「現世は夢、夜の夢こそまこと」という言葉を常に胸に抱き
日々を生き抜いています。
この醜悪な世界を現実とする証拠はどこにもないし、
その逆も然り。
サトルにとっては夢の世界こそが現実だったのです。
ある日、学校で問題が起こり、
同級生から謂われもない謗りと教師の叱咤を受けたサトルは、
家に帰ると台所にある冷たいコンビニ弁当を流し込むように片付けて
流す程度にシャワーを浴び、早々に床に就きました。
嫌なことがあった日には特に夢の中で目一杯楽しむんだ。
階下から聴こえる両親の怒鳴り声は眠りの前のサトルにとっては
この上ない子守唄でした。
しかし、この日はどう頑張っても眠ることができませんでした。
早く夢の世界へ行こうとすればするほど気が急いで
ますます覚醒のどツボにはまってしまいます。
どんなに強く目をつぶっても睡魔という大天使は舞い降りることはなく、
何十回と寝返りを打ったところで空は白みだし
ついに朝刊配達のカブの音と雀のさえずる音が聞こえ始めました。
サトルは絶望しました。
僕がいつも夢の世界にばかり逃げ込むから神様が怒ったんだ。
きっと僕はもう二度と眠ることができないんだ。
夢があるから仕方なく僕は生きていたんだ。
もうこの世を生きる意味なんて何もない。
不眠による体調不良を抱えながらサトルは教室に入ります。
同級生は共通の話題を見つけては笑い合っています。
何がそんなに楽しいのだろう?
家に帰れば早く帰った父が母に罵声を浴びせ、母も負けじと悪罵を投げつけています。
何でそんなに怒っているのだろう?
階段を上がって自室に向かう際、姉がすれ違いざまに舌打ちをしてきました。
僕が何か悪いことをしたの?
打ちひしがれたような気持ちになって部屋に入ると
布団の上に見慣れない枕が一つ置いてありました。
薄い茶がかった色の枕は新品ではないものの清潔感があり
訝りながらも触ってみるとキメの細かい布と柔らかい綿の感触を感じるとともに
ゆっくりと手が沈み、包み込むように布が手の甲を撫でました。
もしかしてこれなら眠れるかもしれない。
そう思うとサトルは跳ねるようにベッドに飛び込み布団に包まりました。
期待した通り即座に眠りに落ちたサトルは
またいつものように夢の世界を堪能して、
精神の保養は達成されました。
そしてサトルは思います。
どうにかしてこの世界にとどまれないものか。
何とか目が覚めない方法はないものか。
そんなことを考えていると
目の前に一人のお坊さんが静かに佇んでいることに気が付きました。
黒の法衣に黄色の半袈裟、
ところどころほつれの見える草鞋に、ツバの狭めの茶人帽を浅めにかぶっています。
ぽってりとした輪郭に目鼻立ちは薄く、
貧相にも威厳があるようにも見えるお坊さんでした。
お坊さんは自分は恋法師だと肉付きのよい小さな口で言うと、
サトルに恋をしたことがあるかと聞きました。
好きな子ができたことのなかったサトルが首を大きく横に振ると、
恋法師はニコリと笑い、一人の少女を召喚しました。
少女の名前はカスミだと恋法師が紹介しました。
紹介を受けたカスミは花びらが湖面に落ちたような可憐な笑顔を浮かべると
サトルの手を取り走り出しました。
近くにいると空気と自然が絶妙に混じり合ったようなカスミの香りが直接鼻孔をくすぐり
今まで感じたことのない高揚した気分になりました。
髪の毛は一本一本が小筆で書かれたような美しい烏色で、
セミロングの毛先は肩の上で踊っているようにさえ見えました。
どこまでも続く草原で2人は、時間を忘れていつまでもいつまでも遊びました。
しかし、どんなに話しかけてもカスミは微笑むばかりで
一向に口をきいてくれません。
僕のことが嫌いなの?
サトルがそう聞くとカスミは怒ったような顔をして首を横に振ります。
すっかりカスミのことが好きになっていたサトルは
どうしても少女の声が聞きたくてたまりませんでした。
それじゃどうして?と言おうとしたところで
頭の中で先ほどの恋法師の声が響きました。
残念だけどカスミは夢の中では口をきくことはできないんだよ。
けれどもカスミは夢の中だけの存在ではなく
現世にしっかりといる現実の少女なのだ。
キミが夢の世界に逃げてばかりいないで
現実をしっかり生きていればカスミは必ずキミと再び巡り会い、
キミに愛をささやくだろう。
そう言うと恋法師の声は途絶え、
カスミは柔和な表情で手を振りながらゆっくりと消えていきました。
程なくサトルは自室で目を覚ましました。
再びカスミに会おうと二度寝をしようにも寝付けず、
またその後数日諦めきれずにカスミの事を強く念じながら眠っても
カスミも恋法師も現れませんでした。
カスミにまた会うためには恋法師が言うように
世の中に悲観ばかりしていないで強く生きることが必要なんだ。
ある日サトルはそう決意すると考えを改め、
前向きに生きることに決めました。
カスミに会うという理由以外の何物でもありませんでしたが
積極的に人間に歩み寄り、勉強もしっかりしました。
強く強く生きました。
そして月日が流れました。
結論から言ってしまうとサトルは70歳を迎える年に
古ビルの外付け階段から転落死をしてしまうその時まで
現実世界でも夢の世界でもカスミに再び会うことはかないませんでした。
それでも恋法師が嘘を言っていたとは思えません。
もちろんサトルの頑張りが足らなかったわけでもありません。
カスミは確かにどこかの道でサトルを待っていたのです。
しかし人間の人生は無限に近く枝分かれしていて、
些細なことをきっかけにその進路は切り替わります。
サトルはカスミの待つ道を辿れなかっただけなのです。
あの世に行ったら恋法師の野郎に小言の一つでも言ってやる。
一生懸命生きたって何もなかったじゃないか。
あんなに嫌いだった人間に歩み寄って、努力だってしたっていうのに。
サトルは鉄の段差に頭蓋骨を砕かれ、薄れゆく意識の中でそんなことを呟きました。
一方彼岸の地でサトルから抗議を受けるであろう恋法師は
下界を見下ろしながら静かに優しく満足そうに微笑んでいました。
その視線の先にはサトルの死を心から悲しみ、涙を流す妻と子と孫たちの姿がありました。