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日月(たちもち)の巫女  作者:
第二章
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 静かにレイフォードに告げた場所に向かうセフィの後にカイザーは黙ってついていった。それに励まされているのを感じながら、セフィはある程度近づいたところでカイザーを振り返る。カイザーが一緒に入ることは望んでいないだろう。

「ここまでで」

「……分かった。ここにいるからな」

 頷きながら、セフィの細い、華奢な背中を見送る。見事な細い、絹糸のような銀髪が陽光にきらめいている。静かに広がると、白い翼のようだった。


 セフィは歩み寄ってくる気配に静かに立ち上がり、振り返った。痩せてはいるががっしりした男に背負われて老婆と、そしてその家族らしい一家が近づいてくる。セフィは静かに、彼らを待った。


 老婆とその一家は、見事な太く大きな樫の木の下に立ち上がった人影に目を奪われた。樫の木は真っ直ぐ、天に向かって伸びている。

 黒い、質素とも言える品の良いドレスを着た少女。絹のように流れる、長い銀の髪。そして、優しく迎え入れ包み込むような、淡いピンクの瞳。透けるような美しい肌。その容姿の全てに目を奪われながら、ほっと安堵のため息をついていた。

 これから自分の母の、祖母の命を奪い去るはずの少女は、話にだけ聞いていた時に想像した死神ではなく、天使のようにさえ見える。そう、そこにあるのは穏やかなやすらぎと優しさに満ちていた。それはこの、聖域と呼ばれる場所のものなのか、少女のものなのか。

 ゆっくりと歩み寄ると、少女は静かに微笑んだ。痛々しい微笑みだった。

「座りませんか?」

 セフィは進めながら、樫の木の根もとの、座りやすい場所を老婆に勧める。頷き、息子たちに助けられながら腰を下ろした老婆は、そこから見た光景にほう、と息を吐き出した。

 陽光に全てが輝いているようだ。木々の向こうに神殿がわずかに見える。わずかに見える泉はきらきらと輝き、森の中は生命に満ち満ちているようだった。まるで、体に力が漲ってくるようだ。今まで萎えていた体に最期の生気が満たされたようだった。なぜだろう。自分の前にいるのは日巫女ではなく、月巫女なのに。

「おばあちゃん、どうしたの?」

 孫が首を傾げて顔を覗き込む。妹もその仕種を真似た。なぜ、と首を傾げる老婆に、二人の孫の顔に笑みが浮かぶ。

「おばあちゃん、笑ってる。痛くないの?苦しくないの?」

 老婆は目を見開いた。自分が唸っている時、孫達が寄りつかなかったのは知っている。そして、何でもない時には側についていてくれる。それは、孫達なりの気の使い方だったのだろう。自分達は何も気づいていないのだと。祖母である自分が苦しんでいることも何も。元気で笑っている顔しか知らないと。そのおかげで、老婆は孫の前では常に祖母として見守っている立場でいられた。小さな手に守られて。

 老婆は細かい頷きを繰り返す。

「ああ、もう何ともない。月巫女様のおかげだよ」

「月姫様の?」

「だって月姫様は日巫女様じゃないよ?」

「そうだね。でも、月巫女様は優しいだろう?」

「うん」

 老婆は、自分が月巫女の手によって死に逝く瞬間を見ることが、家族にどのような気持ちを月巫女に対して抱かせるか、分かっていた。けれど、それを変えることができるかもしれないと思う。実際に月巫女であるセフィを前にしてそう思う。

「手をかしてくれるかい?」

 老婆が手を述べると、二人の孫はその手を片手ずつ取った。その手を握った老婆は、ゆっくりと立ち上がる。自らの足で。

 それを息子夫婦は驚きの目で見つめた。

「月巫女様……」

 息子は呟きをセフィに向ける。月巫女は、決して奪うものではないのではないかと。そのような力を持つ月巫女が誰よりも苦しんでいるのは、こうして近くにいれば痛いほどに伝わってくる。それでも、月巫女は家族の目の前で、望む者がいるからその奇跡を行わなくてはいけない。

 セフィは老婆に静かに目を向けた。立ち上がった老婆は、様々な感情の高ぶりに目を潤ませながら家族を振り返った。

「ありがとう」

 言った老婆の足が揺らぐ。セフィはその身体を体で受け止め、支えた。

 その、痩せ細った老婆の背中に立ち上がった息子が手を述べる。

「母さん……ずっと、ありがとう。今、母さんは……」

「幸せだよ。お前達といた時間もずっと幸せだった。そして最期も、こんなに穏やかな気持ちになれた」

「お義母さん……」


 老婆はセフィの顔を見つめた。諒解したセフィは老婆に触れている家族に目を向ける。

 気づいた彼らは、そっと二人から離れた。

 セフィの額に、三日月形の痣が浮かび上がる。周辺は明るいままであるのに、その額の一点だけに光が集中していくような錯覚さえ覚えた。

 セフィは老婆の顔に目を向ける。

「本当に、いいんですか?本当にこれを望むのですか?」

 老婆は微かに頷く。生活の苦しい家族のため、心苦しいからと言った。けれど、これ以上の病の苦しみから逃れたいというのも本心なのだ。老いた体は、一つの病を例え越えたとしてもまた、新たな苦しみが訪れるだろう。既に、疲れてもいた。それだけの理由で月巫女の力を請うたとしても許されないだろう。自分になぜそれが許されたのか、老婆には分からない。

 レイフォードがそれを許したのは、老婆の言い分に納得したからでもあるが、月巫女の力をただ利用しようとしたわけではないと思えたからだった。彼らならあの、月巫女であるセフィを理解してくれるだろうと思えたからだった。家族からセフィが責められることはないだろうと。巫女の奇跡を請う者に許可を与えるか否かの判断の基準は実の所ない。その礼として送られる金品の多寡ではない。それは現在必要とさえしていない。かつてはそうのようなこともあったらしいが、レイフォードはそれを基準にしていない。その時の気分、好悪と言われても仕方のないような判断基準しかないのだ。

 じっと家族の見つめる中、老婆はセフィに向かって小さく呟くような声でもう一度頷いた。

「月姫様、お願いします」

 セフィは頷きながら、その家族の方を見る。確かに家族は納得していた。それでも、今まさに死ぬ瞬間を前にしている。家族の前で命を奪う。それもいいだろう。感情のやり場に困った時、それが自分に向けられれば、少しは彼らがこの老婆の死から立ち直り、消化するのに役立てるかもしれない。

 セフィのほっそりとした手がゆっくりと上がっていく。細く長い指先が老婆の額の前で一瞬、逡巡するように止まった。しかし、それと気づかれる前に、老婆の額に触れる。


 老婆は触れられた瞬間、心が穏やかに、静かになっていくのを感じた。月巫女を実際に前にして様々な感動で高ぶり、ざわめいていたとさえ言える心に穏やかさが訪れた。さざ波のように静まり、そのうちに凪になっていく。

 穏やかな、月夜の海のように澄明な静けさだった。恐ろしさも、怯えも、後悔もない。苦しみもない。

 月巫女にそのようなものは全て流れ込んでいくようだった。体が軽くなっていく。額に触れた月巫女のほっそりとした手が自分の顔の表面を触れるか触れないかの微かな動きで降りて行く。


 老婆の体がぐらりと揺らいだ。セフィはしっかりとその細く痩せた、軽い体を抱き止めると、そっと、丁寧に横たえる。老婆の顔には穏やかな笑みさえ浮かんでいた。

 セフィはその顔を見つめてから、その目を家族の方に移す。家族はいつの間にか跪き、深々と額を地につけるようにして頭を下げていた。

「ありがとう……ございました。母はやっと、楽になれたのですね」

 頭を下げたまま息子は言う。嫁がそっと、微かに頭を上げた。

「見送りを……」

 葬儀に出てくれないかと言いかけ、言い澱んだ。それはこの聖域から出ると言うことだ。そのために許可が必要なことは知っている。許されることはないだろう。そして、月巫女が出席するとなれば、参列してくれる人が減るかもしれない。月巫女に対する認識は、そのようなものなのだ。

 セフィはそっと首を振ると、老婆の体から身を話した。

「連れて行って、安らかに眠らせてあげて下さい」

 ひざを突いたまま、家族は老婆のまわりに集まった。知らず、泣いている。

 それを見ながら、老婆は愛されていたのだ、と、セフィは思う。優しい家族。病の多い老婆が貧しい家にいれば、その命が終わった時にほっとしてしまうのを責めることはできない。実際、その様な事も多い。それでも、家族が優しければ後でその気持ちを自分で責めてしまうのだろう。この家族は、少なくともそれはないだろうと思いながら、セフィは息子がまた老婆を背負うのを見る。

 家族は、月巫女に頼りたいと老婆が言った時、既にそれを、安堵を感じていたかもしれない。けれど、月巫女の手で死をもたらされたことがそれを忘れさせるだろう。月巫女のもたらす死は天寿であるとされている。けれど、決してそう見えないような形で利用されることもあれば、実際に死をもたらされた者の家族は当然、そうは思えないのだろう。

 深々と頭を下げ、家族はその場を離れていく。樫の木の根もとで、セフィはじっと、その姿が見えなくなるまで見送った。



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