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森の奥にその神殿はある。木漏れ日に光あふれる森の奥。その揺らめく光を受け、取り巻く清らかな泉の水面に照り返す陽光を受け、神殿は淡く輝いている。
そこは聖域。その森に住まう動物たちも、何もかもが聖別されたものと、そう考えられている。泉の水は常に澄み、美しく、口に含めば舌に柔らかく、甘い。木々を涼やかにざわめかせる風は穏やかで、心地よい。全てが満ち足りた調和の中にあるような、そんな場所。
石造りの神殿の中には聖堂だけがある。祀るものに形はない。光取りの窓から差し込む光で神殿の中は程良い明るさを保ち、風通しがよく空気が澱むこともない。常に新しい、華やかな可憐な花々が届けられ、飾られる。
この神殿は、表に開かれた扉。その奥へは決して、ここからはつながらない。
この神殿に、神殿の奥に大事におさめられたものが来ていることがある。けれど、それと気づかれることはない。何より、この聖域まで足を運ぶには最も近い人里も、かなりの時間を費やさねば到達できない。
神殿の奥には二つの建造物。その二つはまだ新しい。日巫女の聖殿と、月巫女の聖殿。
先代の巫女がいなくなった時、その二つの住居もまた消えた。今のものは、現在の巫女たちの家。
日巫女のものは華やか。見るからに豪華な装飾で飾られ、その外観自体が日巫女を現すように華やかになっている。そこに足を踏み入れるのにまず、少なからぬ圧力を感じるだろう。それは無言の圧力。一国の王女として生まれ、かつ日巫女の名を持った少女が与えるもの。
月巫女の聖殿は、安らぎの中にある。柔らかい印象を与える外観と、中は質素なものだ。調度も内装も、人の手のぬくもりを感じさせる穏やかさの中にあり、そして素朴でありながら品を損なわないもの。
二人の巫女の望みに添って建てられた二つの住居。
わずかに時を違えて生まれただけの双子の巫女は、互いの家を行き来する。
巫女の証を持って生まれたことで、三歳になる前にこの聖域に移ってきた二人。
生を司る日巫女、グレイスは明るくのびのびと育った。誰にも好かれ、誰にも愛される愛くるしい少女。明るく笑い、誰とでも打ち解ける人懐っこい娘。
死を司る月巫女、セフィは穏やかに育った。幼いうちはグレイスと同じように、笑い、駆け回った。けれど、セフィの手は生ある者に死をもたらす。人はセフィを敬いながら、遠巻きにした。少しずつ笑顔が消え、穏やかで物静かな少女になった。
その聖域にもう一人、住人がいる。それは、二人の巫女を育てた者たちとは別に、という意味で。
黒い髪、金の瞳のカイザー。ここにとどまったのは、それほど前のことではない。双子の巫女とそれほど年の変わらない、青年とも少年とも言える年頃の若者。
巫女に恋は許されない。それは力を失ってしまうから。カイザーがそこにとどまることを拒もうとした者は多い。けれど、結局聖域がカイザーを受け入れた。
「カイザー!」
木陰で仰向けに転がり、頭の下で腕を組んでいるカイザーをようやく見つけたグレイスは、勢い込んで呼びかけるとそのままの勢いで駆け寄った。カイザーは薄目を開けてグレイスの姿を認めると、関心なさげに目を閉じてしまう。
「カイザー!ねえ、泉の方に行きましょうよ。いいでしょ?」
グレイスに遠慮はない。言いながらぐいっとカイザーの腕をひいた。
誰にも愛されるグレイスにとってそれは当たり前の行動だった。頼めば皆、それを聞いてくれる。だからこそ、カイザーは珍しかった。そっけない態度を取られたのは、生まれて初めてだった。
カイザーはやれやれと腰を上げる。我が侭なお姫様のお守りは気が進まない。それでも、このまま騒がれるよりはましだった。疑いも抱いていないグレイス。それが確かに愛らしくも見えるが、カイザーは少し、他の者と感慨が違う。カイザーにとってグレイスは、一定の距離を保ってつきあいたい人物でしかなかった。
この二人だけが、聖域で彼女たちを守るもの以外で月巫女セフィを、月姫とは呼ばすにセフィと呼ぶ。カイザーの中の数少ない優しい気持ちはセフィに向けられていた。けれどそれを、グレイスが気づくはずもない。
「今度ね、お父様とお母様が来るの」
無邪気に話ながら、グレイスは踊るような足取りでカイザーの腕をひいていく。巫女たちの両親は一国の王と王妃。なかなか来れる立場でもない。
カイザーも一度だけ、その二人に会ったことがあった。巫女であるということが、そのために親と引き離されるということが、これほどに他人のような気持ちを持たせてしまうのかと驚いた。二人のグレイスとセフィへの接し方は、他の者とどこも変わりがなかった。ただ、親であるということと、一国の主であるということがそれを必死に押し隠そうと努力しているだけのことだ。
二人がグレイスに持ってきた土産は多い。それをグレイスは跳ねるようにして喜んだ。けれど、セフィが渡されたものを受け取って、そっと幸せそうな、明るい笑顔を浮かべたことにあの二人は気づいたろうか。
巫女たちの両親は、二人に向かって外出するか、と尋ねた。時折、それが許される。もちろん、グレイスは喜んでついていった。セフィは首を振る。出ていけば、誰かがいやな思いをすると、そう言っているようだった。
そのセフィがじれったく、苛立たしくて仕方がない。カイザーには放っておけなかった。
また、両親が来ると聞いてカイザーはじっとその時のことを考えてしまった。またきっと、同じことの繰り返しなのだろう。
「外出の許可が出てるの。カイザーもその時は一緒に行きましょうね」
グレイスの声は弾む。難しい顔で考え込んでいるカイザーを、怖いという人は多い。金の目がそもそも、異形だという人もいる。グレイスはけれど、そのようなことは思わなかった。グレイスにとって恐ろしい人などいないのだ。日巫女のグレイスにとって。誰かを恐れる気持ちもなければ、人を観察するようにも育たなかった。
「セフィが泉のところで待ってるの」
言って急かしたグレイスは、少し引っ張るカイザーが軽くなったのを感じた。その顔を振り返ってグレイスはくすくすと屈託なく笑う。
「セフィなら大丈夫よ。待たせたって怒らないもの」
そう言いながらも、グレイスの足も速くなっている。仲のいい姉妹なのだ。互いに互いが唯一のもののように。双子とは、そういうものなのだろうか。
木漏れ日の中を通り抜けると、一瞬カイザーは足を止めて目を細めた。柔らかい日差しも泉の水面に照り返すと少し鋭さを増す。それが目に痛かった。
泉のほとりに座り、手をその水に浸して揺らしていた少女が振り返った。日の光に透けるように光る銀の髪のセフィだ。その顔が優しげにほころび、立ち上がる。
「カイザー、眩しいの?」
涼やかな声は耳に心地いい。明るいグレイスの声と似ているはずなのに、その持っている響きは全く違う。セフィがそうやって身構えることなく話しかけるのはグレイスとカイザーだけだと言っていい。
「暑くないか?そんなに日に当たって大丈夫か?」
色素の薄いセフィは少し、日の光に弱い。そのくせひなたぼっこは好きなのだ。くすくすと笑ったセフィは大丈夫と頷く。歩み寄ってきた二人と一緒に、泉の上に葉の翳りを乗せている大きな木の方へ移動した。その太い枝にブランコがあるのは、二人の巫女が幼い頃の名残だ。
木陰に腰掛け、三人はとりとめもなく話す。いや、グレイスが話し、セフィが相づちをうち、時折言葉を重ね、そしてカイザーは黙って聞いている。
グレイスは親しげにセフィやカイザーの体に触れて話す。グレイスの手は生の明るさをもたらすものだ。その手に触れられることを誰もが望み、喜ぶ。
けれど、セフィはそうやって触れようとはしない。セフィがためらいなく触れられるのは、同じ巫女であるグレイスだけだ。グレイスは自分の力と相殺しあい、互いに影響を及ぼせないことが分かっているから。セフィが人に触れることを恐れるのは、触れた相手の反応を見るのが怖いから。
「ね、お父様とお母様が来る時、何を着る?」
うきうきと尋ねるグレイスにセフィは思わず笑みを浮かべた。何を着る、といっても、ここに住んでいるグレイスもセフィも、世の中の流行も知らなければ、そもそもそれほどの服を持っていない。少なくともセフィは。
「いつも通りでいいじゃない。それに最初はきちんと巫女としてお迎えして、成長を見てもらいなさいって言われてるでしょ」
「えぇぇ」
不満げにグレイスはふくれる。別に本気で不満なわけではない。ただ、少女らしく服を選ぶ楽しみを味わいたかっただけなのだろう。
日巫女の装束は、白。流れるような美しい線の、清楚な乙女のような装束。
そして月巫女は黒。同じデザインの、美しい黒い装束。
その装束は公式の場に出る時に二人が袖を通すもの。けれど、セフィは普段から黒や、あるいは暗い色のものを身につけていた。目立たぬようにと身を縮めるように。