はんぶんこ
「ねえ、お台場で海がみたい」
雪からの突然の電話に、うん。と答えて電話を切ろうとした僕に雪は
「今から」
という意味不明な言葉を、ちょっと醤油取って、とでも言うように簡単な口調で言った。
深夜一時過ぎに。
壊れているのは時計だと願ったが、机の上に置いてある二つの目覚まし時計は同じ時間を指し、一秒に一回の時を定期的に刻んでいる。むしろ壊れているのは雪の思考回路だろうか。
布団から出している手と顔がひりひりするほどに寒いのに、寝起きの頭は働かず上手く断る言葉は浮かんでこない。
「どうしても?」
「どうしても」
半ばあきらめながらストーブに手をかけた。
しばらくガス焜炉に火をともすような音が響くと一気に暖かい風が排出された。乾いた部屋がさらに乾いていく。咽が渇いたけれど、布団から出るにはまだ寒すぎる。
「でも」
「いきたい」
雪の我儘はめずらしいし、こんな突然な我儘は記憶に無い。
何となくいやな予感をしながらも、電話に出てしまった自分に後悔していた。
「わかった」
観念して、僕はぐずぐずと温もりの残る布団から出た。
電気をつけ、まだ睡眠不足を訴える頭を犬のように振って水を飲んだ。
顔を洗いながら何かの記念日だったか考えてみたけれど浮かばない。
誕生日でもないし、初めて付き合った日でも、初めてデートをした日でもない。
服を選びながら、こんな夜中に服を選んでいる自分があほらしく思えてきたけど、スウェットで行くわけには行かない。結局、ほとんどユニクロで統一された服にキャスケットを被り車のキーを手に取ると外に出た。外は一段と寒い。吐いた息は常にせつな的な白色を作り出して消える。
エンジンは一回でかからず三回目でやっとかかると雪にメールを入れた。
―あと十分で着きます―
途中の道路で、人は一人もいない。カーブにかかるたび、バックミラーにかかっている少し汚れたぷーさんのマスコットが揺れた。初めてドライブでゲームセンターへ行ったときに、雪に頼まれて取ったぷーさん。その帰り道、話につまってはぷーさん口調で、は、ち、みっつ。と心の中で繰り返したことを思い出す。
私、自分の名前が嫌い。
は、ち、みっつ。
冬は寒いからきらい。
は、ち、みっつ。
夏は暑いからきらい。
は、ち、みっつ。
春は花粉症になるから嫌い。
は、ち、みっつ。
ねえ、きいてる?
は、ち、みっつ。
秋は好き。
……。
秋の名前が良かった。
どんぐりとか?
わるくないわね。
雪が何かを嫌いというたび僕は心の中ではちみつを唱えた。
雪の家の近にある六台ほど停められる駐車場には、いつもとまっている赤のビッツは今日もとまっていた。地面に広がる少し大きめな石は、車を動かすたびにタイヤに踏まれ、じゃらじゃらと音を立てた。僕はこの音が好きで、いつもより多めにハンドルを切って駐車する。
サイドブレーキをかけると、携帯を手に持つ。
―つきました―
メールを打つと雪はすぐに姿を現した。
「ありがと」
助手席に座ると雪はまずそう謝った。
「いや」
なんだか呼ばれた理由をきくタイミングがはずされた気がして、二人黙ったまま車を走らせ始めた。のそりと動く車がなんだか僕と雪の空気に遠慮している気がした。
「さむい?」
「ううん、だいじょうぶ」
「さいきん」
「うん?」
「最近ラーメン食べにいってないね」
通り過ぎたラーメン屋を見て雪は言った。
雪と付き合い初めのころ、よくラーメンめぐりをした。
僕はとんこつが好きで、雪は味噌が好きだった。お互いそれぞれの有名店を探しては車で一緒に食べに行ったことを思い出す。
ラーメン屋に行く途中、通り過ぎる看板の文字を、雪がぽつぽつと言う度に僕はよそ見運転をした。たまに可笑しな看板を雪が笑うと、僕は気になってしばらく無口になった。
そんな僕を見て雪は更に笑った。
ラーメン屋では向かい合って座りながら、最初のスープ一口飲んで旨いといったら美味しい。何も言わず麺に箸をつけたら不味いという決まりを作った。最初の一口、次に言葉が出るのか箸が出るのか、店主でもないのにその緊張感は僕は好きだった。
時折とんこつと味噌がある店に行くこともあると
はんぶんこしよ。
と雪は言って、半分ずつ食べた。その行為が好きで、僕はときおりとんこつも味噌もある店を探した。
あの頃一年で体重はお互い二キロ増えた。
お互いギャグでそんなこと言ったと思っていたのに、夏までに雪はきっかり三キロ痩せたけれど、僕の体重はさらに一キロ増えていた。
そして、ラーメン屋には行かなくなっていった。
夜中の車は早い。
料金所に手を伸ばすと冷たい風が腕に絡んでは通り過ぎた。
「初めて一緒にお台場にいったのいつだっけ」
「もう二年前だよ」
そう答えて、何か大切なことを忘れているような気がした。
「ゆき、お台場すきじゃなかったよね」
そう言うと、雪は小さく笑った。そして、今の季節のように寒くて乾いた笑いだった。
「そうだね。今でもあんまり好きじゃないよ」
「じゃあ、何で急に」
「なんとなく」
何となくという言葉よりも本当のことを言ってくれないことに僕はちりちりとした怒りが込み上げてきた。そんな表情が雪に解ったのだろう。無口な時間がしばらく続くと、
「ごめんね、でもなんとなくなの」
雪がもう一度繰り返すと、怒りの矛先は方向を見失った。
お台場なんてカップルが多いから嫌いといっていた。
二年前はまだ淡い付き合いだった。僕はデートといったらお台場という単純な思考の元に行って、僕の浮かれたテンションに乗り切れない雪は初めて、ごめん、お台場好きじゃないんだ。と言ったから、お好み焼きだけ食べていそいそと地元まで戻った。
「きれい」
レインボーブリッジで雪は言った。
そこで僕は思い出した。
雪の友達が言ったこと。
三年間付き合った元彼と、お台場で海を見ながら別れたことを。
雪は、まだ外を見ている。
雪の髪が何だか切なかった。
このままお台場の海に着いたら、僕らの関係は終わってしまう。何となく解っていた。最近会うことも少なくなったし、だからこそ、今日の電話にも出てここに向かっていることを。なんとなくお台場に行きたいというのは、なんとなく別れる時期を感じたということ。そしてそのなんとなくは、今までの僕と雪の関係でもあるような気がした。
「やっぱり」
ぼくが言うと、雪は僕の目を見た。
「やっぱりお台場の海ははなしだ」
レインボーブリッジを過ぎて、僕は再びレインボーブリッジに向かった。
「そう」
雪はそう言って笑った。
久々に雪の本当の笑顔を見た気がした。
「どこいこっか」
僕が言うと
「どこでもいいよ」
雪は応えた。
「ちょっとお腹がすいたかな」
「らーめんでも食いに行くか」
僕等ははんぶんこが好きなことを思い出した。
スピードを上げて、外は寒いだろうけれど、車の中は暖房がきいている。
ラーメンを食べたら、次にどこへ行こうか二人で考えた。