第九話 夜明けのデバッグ
午前五時三十分
墨田区の空が、夜の帳を脱ぎ捨てて薄紫色の朝靄に包まれ始めた。
『サイバー・アルケミスト』の事務所内は、三人の熱気とサーバーの排熱で、肌に張り付くような熱気が漂っている。
「……主要なインデックスの再構築、完了。でも、まだデータが繋がらない」
澪の声は、喉の奥から絞り出すような掠れ声だった。
保守用アカウントを奪還し、犯人の妨害プログラムを迷路に閉じ込めることには成功した。だが、残された時間は少ない。午前九時のオンラインサービス開始まで、あと三時間半。その間に、暗号化によって引き裂かれた数千万件の顧客データを、一分の狂いもなく元の形に修復しなければならない。
「久保田さん。インデックスが壊れているんじゃない。犯人は、データの『並び順』をデタラメに書き換えたんだ。図書館の棚から本を盗むのではなく、中身のページを全部バラバラにして、別の本に綴じ直したようなものだ」
栗栖は三枚のモニターを並列させ、滝のように流れるバイナリコード(二進数のデータ)を冷徹な目で見つめていた。
「そんな……。それじゃあ、バックアップから戻しても、どれが最新の取引データか判別できないじゃない」
「だから、ロールフォワード(復旧処理)のアルゴリズムを書き換える。……山田、昨夜のトランザクションログ(取引記録)のハッシュ照合はどうなっている」
「七割終わったっす! でも、最後の一割がどうしてもエラーになる。……これ、犯人がログの中に『ゴミデータ』を混ぜてますね。わざと整合性を崩して、復旧を遅らせるための罠だ」
山田が苛立ちを隠さずにキーボードを叩く。犯人グループ「ヘビヤ」の背後にいるブラックハッカーは、ただの金目当ての素人ではない。技術者の心理を熟知し、最も神経を削る場所に嫌がらせを仕掛けてきていた。
「……私にやらせて」
澪が、ふらつきながらも栗栖の隣の席に座り直した。
「帝都中央銀行のレガシーシステムには、古い仕様の『タイムスタンプの癖』があるの。一九九〇年代に組まれた基幹プログラムの仕様で、一ミリ秒以下の処理順序に独特の法則がある。……それを使えば、ゴミデータと本物のログを分離できるはずよ」
栗栖が手を止め、眼鏡越しに澪を見た。
「……そんな化石のような仕様を、まだ覚えているのか」
「感情論でシステムが動くなら、今ごろ私は神様になってるわ。……でも、このシステムが赤ん坊だった頃から面倒を見てきた人たちの『筆跡』なら、私には読み取れる」
澪の指が、再びキーボードの上を踊り始めた。
それは、エリートたちが「古臭い」と切り捨てようとしていた、泥臭い保守点検の歴史そのものだった。
画面上のエラーメッセージが、彼女のコードによって次々と「正常」へと書き換えられていく。
午前七時十五分
「……抽出完了。ゴミデータの全削除、成功よ!」
澪の叫びと同時に、モニターのプログレスバーが猛烈な勢いで右へ伸びていく。
バラバラだったデータの破片が、銀行員たちが三十年以上かけて積み上げてきた巨大なジグソーパズルのように、あるべき場所へと収まっていく。
「データベース、整合性チェック、オールグリーン(全正常)。……栗栖さん、いけるわ」
「ああ。……山田、最終起動シーケンスに入れ。ワイプ(消去)コマンドを完全に無効化しろ」
「了解! 蛇の呪いを解いてやりますよ……。実行!」
午前七時五十分。
画面の中央に、静かに、しかし力強く、緑色の文字が浮かび上がった。
『System Status: Online / Normal Operations』
陥落から四十七時間。タイムリミットまで一時間。
一人のホワイトハッカーと、一人の泥臭いシステムエンジニアが、日本経済の心臓を止める寸前で救い出した瞬間だった。
「……終わった。……本当に、間に合ったんだわ」
澪は、膝の力が抜けたように椅子に沈み込んだ。視界が涙で滲む。達成感よりも先に、守り抜けたことへの安堵が、津波のように押し寄せてきた。
「久保田さん。……お疲れ様。君の『祈り』が、この古い鉄の塊を動かしたんだな」
栗栖が、柄にもなく優しい声で言った。彼は立ち上がり、窓の外の朝日を仰いだ。
「だが、勝利の余韻に浸る時間は短そうだ。……香織さん、車を出してほしい。一時間で丸ノ内の本店へ向かう。……久保田さん、君の戦場は、ここから銀行の会議室に移る」
「ええ。……わかってるわ」
澪は乱れた髪を指で整え、カバンを掴んだ。
まだ汗の引かない肌を、墨田区の爽やかな朝風が撫でていく。
この時、彼女はまだ知らなかった。
自分が救ったはずの「組織」が、いかに冷酷な刃を用意して彼女を待っているかを。




