第七話:技術者の戦場
「丸菱精密への立ち入り、認められました。ただし、専務の立ち合いが条件です」
帝都中央銀行の応接室に、澪の声が響いた。
本来、外部の人間を、それも警察でもない民間人を取引先のサーバー室に入れるなど、銀行のプロトコル(規定)ではあり得ない。しかし、澪は「取引先指導」という名目の緊急監査として、半ば強引に役員たちを説得した。
「よくやった。久保田さん。泥棒の格好をして忍び込むより、ずっとスマートだ」
栗栖は淡々と言いながら、商売道具のノートパソコンをカバンに詰め込んだ。その指先は、まるで外科医がメスを点検するかのように繊細で、一切の迷いがない。
「褒めてるの? 嫌味を言ってるの?」
「事実だ。君の銀行員としての『肩書き』が、今回は最強のパスワード(合言葉)になった」
大田区、下丸子。中小の工場がひしめくその一角に、丸菱精密はある。
到着した一行を待っていたのは、油の匂いと、憔悴しきった表情の専務・丸菱泰造だった。
「久保田さん、うちはどうなるんですか……。メインバンクのシステムが止まった原因がうちにあるなんて、そんなこと言われたら、もうどこも取引してくれませんよ……」
丸菱が震える声で訴える。彼らにとって、銀行は絶対的な存在だ。その基幹システムを止めた「加害者」の烙印を押されれば、倒産は免れない。
「丸菱専務。まずは原因を特定しましょう。この栗栖さんが、そのための専門家です」
澪は努めて冷静に、しかし力強く言った。彼女の胸も、不安で締め付けられそうだった。もし栗栖の推測が外れていれば、自分はこの善良な経営者を無実の罪で追い詰めることになる。
「ここが……サーバーラックですね」
栗栖は、事務所の隅にある、お世辞にも清潔とは言えないスチール製のラックを覗き込んだ。そこには、数台のサーバーと、乱雑に配線されたルーターが鎮座している。
栗栖はラックの裏側に回り込み、小型のライトを照らした。
「……セコムの防犯カメラ、稼働していますね。丸菱専務、一〇日前の午後二時前後の映像、後で見せていただけますか?」
「え、ええ。それは構いませんが……」
栗栖の視線が一箇所で止まった。
「見つけた。……久保田さん、これを見てみて」
栗栖が指差したのは、業務用ルーターの背面ポートに、場違いなほど真新しいLANケーブルで接続された、タバコの箱ほどの小さな黒いデバイスだった。
「これ……何? 会社の設定資料にはないはずだけど」
「小型のシングルボードコンピュータだ。Wi-Fiモジュールが内蔵されている。……犯人は、丸菱精密の守りが薄いのを承知で、何らかの方法でこれを物理的に設置した。これが『地下道』の入り口だ」
栗栖は手袋をはめ、そのデバイスを慎重に調査した。
「ここから『リバース・シェル(逆接続)』を確立している。外部からこの小さな箱を操作し、丸菱精密のネットワークを中継地点(踏み台)にして、帝都中央銀行の保守用回線へ侵入したんだ」
リバース・シェルとは、攻撃対象から攻撃者側へ接続を促す手法だ。これを使えば、通常のファイアウォール(防火壁)を内側から通り抜けることができる。
「そんな……。誰がこんなものを……」
丸菱専務が絶句する。
「ソースコードは嘘をつかない。そして、ログも嘘をつかない」
栗栖は、丸菱精密の入退室記録と、防犯カメラの映像を照らし合わせた。
一〇日前の午後一時四五分。
清掃業者の作業服を着た、帽子を深く被った若い男が、点検を装って事務所に入っていた。男は慣れた手つきでサーバーラックの裏側に回り、わずか三十秒で作業を終えて去っている。
「清掃業者……? でも、その日は清掃の予約なんて……」
「おそらくだが闇バイト系だろう」
栗栖の言葉に、場が凍り付いた。
「この男は、ハッキングの知識なんて持っていない。ただ、指示された通りに、指示された場所に、この『魔法の箱』を挿しただけだ。報酬は数万円というところだろう」
澪は、そのあまりにも身勝手な悪意に吐き気がした。
たった数万円のために、歴史ある町工場が潰されかけ、日本経済の動脈であるメガバンクが麻痺させられたのだ。
「……久保田さん。デバッグを一段階進めるぞ」
栗栖はデバイスから抜き取ったメモリカードを、自身の端末で解析し始めた。
「このデバイスの設定ファイルに、指令サーバー(C2サーバー)のアドレスが残っている。……『ヘビヤ・コンサルティング』。やはり、ここが糸を引いている」
栗栖は立ち上がり、澪の目をじっと見つめた。
「犯人は、デジタルの闇に隠れているつもりだろうが……。物理的なデバイスを残したことが、彼らの致命的なバグ(欠陥)になった。……久保田さん、次は君の番だ」
「私の……?」
「このデバイスが接続された、銀行側の『穴』。保守用回線のバックドアを、内側から特定してくれ。……犯人が銀行内部に植え付けた、本物の裏切り者の正体を暴くんだ」
澪は拳を握りしめた。
栗栖の瞳には、冷徹なまでの確信と、そして少しの、彼女への信頼が混じっているように見えた。
「わかったわ。……感情論でシステムが動かないなら、証拠で叩き潰すまでよ」
大田区の小さな工場で、反撃の狼煙が上がった。
日曜日の朝まで、残り一六時間。
迷宮のように入り組んだシステムの奥底で、一人の裏切り者が、まだ息を潜めている。
■侵入
ネットワーク内部へ、許可なく入り込むこと。
■バックドア
本来の認証を通らずにシステムへ出入りできるように、意図的に作られた「裏口」。
■タイムスタンプ
ある出来事が起きた日時を示すデータ。




