第六話:デジタルの踏み台
土曜日の朝、隅田川を渡る風は昨日よりもいくらか涼しく感じられた。
久保田澪は、寝不足と心労の重い体を奮い立たせ、墨田区の雑居ビルの階段を上がっていた。帝都中央銀行本店では、今も役員たちが隠蔽と保身のための会議を繰り返している。公式には「大規模なシステムメンテナンス」という嘘の看板が掲げられ、現場のエンジニアたちは原因も知らされぬまま、動かないサーバーの前で立ち往生させられていた。
鉄の扉を開けると、そこには昨日と同じ、青白い電子の光に満ちた「工房」があった。
「おはよう、久保田さん。顔色が悪いね。まずはこれを飲みなよ」
栗栖公理は、モニターから目を離さずに言った。経理兼ボディーガードの霧島香織が、透き通った琥珀色の紅茶を差し出す。
「……ありがとうございます。でも、ゆっくりお茶を飲んでいる時間なんて」
「焦りは思考を鈍らせる。……ソースコードを読み解くには、まず自分自身をデバッグ(調整)しなさい」
栗栖に促され、澪は一口紅茶を含んだ。驚くほど香りが高く、疲れ切った脳に熱が染み渡っていく。
「……リコウさん、準備はできてるよ。坂口君が残した例のログ、解析が終わった」
部屋の隅で端末を叩いていた山田俊介が、声を上げた。栗栖は椅子を回転させ、中央の巨大なモニターに一つの画面を表示した。
「久保田さん、見てごらん。坂口君がスマートフォンにコピーしたメールのヘッダ情報……つまり、デジタルの消印だ」
画面には、素人目には無意味な英数字の羅列が並んでいる。栗栖はその中の一行を指差した。
「送信元のIPアドレスだ。ロシアでも中国でもない。……東京都大田区。丸菱精密の社内サーバーから直接送られている」
「え……? そんなはずは」
澪は絶句した。丸菱精密は、帝都中央銀行の長年の優良な取引先だ。
「丸菱精密が、うちを攻撃したっていうの? そんな⋯⋯⋯ありえない!」
「落ち着きなさい。彼らが犯人だと言っているんじゃない。……彼らもまた、『踏み台』にされたんだ」
栗栖は眼鏡のブリッジを押し上げ、解説を始めた。
「犯人はまず、セキュリティの甘い中小企業である
丸菱精密のネットワークを乗っ取った。そして、そこを拠点にして、君たちの銀行へ偽装メールを送ったんだ。銀行側からすれば、信頼している取引先のアドレスからのメールだ。ファイアウォールもすり抜けやすいし、行員の警戒心も解ける」
「これを『踏み台攻撃』と呼ぶ。巨大な城壁(銀行)を正面から破るのではなく、隣接する小さな民家(中小企業)を占拠し、そこから密かに地下道を掘るような手口だ」
「さらに、この攻撃に使われたツールを解析した。……驚いたよ。これはプロのハッカーが使うような高度なものではない。機能を簡略化し、ボタン一つで誰でもハッキングができるようにパッケージ化された、『ハッキング・キット』だ」
「誰でも……?」
「ああ。最近の闇の世界では、『RaaS』というビジネスモデルが横行している。ブラックハッカーが開発したウイルスを、専門知識のない素人がレンタルして犯罪に及ぶんだ。……山田、募集ログを出せ」
山田が別のモニターに、匿名掲示板や特定のSNSのスクリーンショットを映し出した。
『高額報酬、即日払い。スマホ一つでできる簡単な事務作業です』 『指定の場所にメールを送るだけ。ノルマなし、身分証不要』
そこには、一見すれば怪しげな、しかし金に困った若者なら飛びついてしまいそうな「闇バイト」の募集が並んでいた。
「犯人は、自分たちの手を汚さない。ブラックハッカーが作った『武器』を、闇バイトで集めた『使い捨ての子供たち』に持たせ、指示を出すだけだ。今回、丸菱精密のサーバーに侵入し、坂口君にメールを送るボタンを押したのは……おそらく、サイバー犯罪の知識など何一つ持たない、どこにでもいる若者だろう」
澪は、震える手でカップを置いた。
「そんな……。そんな子供じみた悪意のために、私たちのシステムがあんなに必死に守ってきたデータが、壊されたっていうの?」
銀行という巨大な組織が、そして自分たちの技術者としての誇りが、名前も知らない若者の「クリック一つ」に屈した。その事実に、澪の心は激しく揺さぶられた。
「やりきれないわね……。感情論でシステムが動くなら、今ごろ私はその犯人を殴り倒しているわ」
自嘲気味に笑う澪。その肩が微かに震えているのを、栗栖は見逃さなかった。
栗栖は無言で立ち上がり、澪の隣まで歩み寄った。そして、彼女の視線が自分の瞳と重なるまで待ってから、不器用に口を開いた。
「久保田さん。……君が泣く必要はない。君は、その『ボタン一つ』で壊されるほど脆い場所で、誰よりも孤独に戦いを続けてきた。……君のコードは、その若者の悪意よりも、ずっと気高く、美しい」
突然の、どこか甘さを孕んだ言葉に、澪は顔を赤らめた。
「な……何を。急に、そんな……」
「事実を述べているだけだ。……君の目は、銀行の政治に曇らされている時より、ソースコードと向き合っている時の方が、ずっと輝いているよ」
栗栖はそう言い残すと、照れを隠すように再びモニターに向き直った。
「……さて。踏み台にされた丸菱精密を洗えば、指示を出している『元締め(アクター)』への通信経路が見えてくるはずだ。……香織さん、丸菱精密の周辺で不審な通信ログが出ていないか、広域監視を強めてくれ」
「了解、ボス。……久保田さん、リコウさんはああ見えて、結構あなたのこと買ってるんだから。デレないで頑張って」
香織がいたずらっぽく微笑む。
「だ、デレてなんていません! 私は、ただ……」
澪は言い返し、慌てて紅茶を飲み干した。頬の熱がなかなか引かない。しかし、栗栖の言葉は、組織の中で擦り減っていた彼女の心に、確かな「正義」の灯を再点火させていた。
「……ソースコードは嘘をつかない。……なら、私はその真実を、最後まで見届けます」
澪は、バッグから自分用のキーボードを取り出し、栗栖の隣のデスクに広げた。
帝都中央銀行、陥落から二十四時間。 闇バイトという仮面の裏側に潜む、本物の悪意――半グレ組織「蛇谷」の影が、デジタルな足跡の先に、その姿を現し始めていた。
踏み台攻撃: セキュリティの強固な標的を直接狙わず、まず管理の甘い関連先や取引先(中小企業など)を乗っ取り、そこを踏み台にして本来の標的に攻撃を仕掛ける手法。
RaaS: ランサムウェアを開発する技術者が、それをサービスとして提供し、攻撃を代行したり、ツールを貸し出したりする仕組み。犯罪の「分業化」が進んでいる現状を示す。




