第五話:狙われた綻(ほころ)び
夜の帳が下りた丸の内。街灯に照らされた帝都中央銀行本店の重厚な石壁は、昼間の威容を失い、巨大な墓標のように沈黙していた。
警備員に促され、正面玄関から放り出された栗栖公理は、夜気を深く吸い込んだ。室内の冷え切ったサーバー室の空気とは対照的な、六月の湿り気を帯びた風が頬を撫でる。
栗栖が駅の方へ歩き出そうとした時、街路樹の影にうずくまる人影が目に入った。
泥を被ったような、薄汚れたワイシャツ。力なく項垂れた肩。それは、先ほどまで別室で厳しい追及を受けていたはずの若手行員、坂口だった。
「……坂口さん」
背後から声をかけたのは、栗栖を追ってロビーを飛び出してきた久保田澪だった。彼女の瞳には、同僚を思いやる色と、現状への焦燥が入り混じっている。
坂口は弾かれたように顔を上げた。その顔は幽霊のように青白く、目元には拭い去れない疲労が張り付いている。
「久保田……主任。……すみません。僕のせいです。僕があのメールを開けたせいで、銀行が……。僕は、もうクビですよね」
坂口の声は震え、途切れ途切れだった。二十億という身代金と、日本のインフラを支えるメガバンクの停止。その責任という巨大な鉄球が、彼の細い首を締め付けていた。
澪が言葉を失い、彼を支えようと手を伸ばしかけた時、栗栖が歩み寄り、冷徹な、しかし確信に満ちた声で告げた。
「安心しろ。君一人の不注意でクビが飛ぶような事態じゃない」
坂口が呆然として栗栖を見上げる。栗栖はリュックの紐を直し、無機質な瞳で坂口を射抜いた。
「ソースコードは嘘をつかない。……解析したログによれば、攻撃者が君たちのネットワークに侵入したのは、今朝じゃない。少なくとも一〇日前だ」
「一〇日前……?」
坂口の動きが止まった。
「そうだ。犯人は一〇日以上も前から、君たちのシステムの脆弱性を突き、バックアップの所在を突き止め、管理者権限を奪うための準備をすべて完了させていた。今朝のメールは、最後の仕上げに過ぎない。『ソーシャル・エンジニアリング』だ」
栗栖は街灯を見上げながら、淡々と解説を始めた。
「ハッキングは、なにも高度なプログラムだけで行われるわけじゃない。人間の心理的な隙や、組織の歪みを利用するのも立派な技術だ。犯人はSNSや社内のやり取り、あるいは君の行動ログを盗み見て、最も『刺さる』タイミングで、最も『開けたくなる』偽造メールを送った」
栗栖は淡々(たんたん)と、しかし一言ずつ噛み締めるように説明を続けた。
「君が狙われたのは、君が無能だったからじゃない。君が『真面目』だったからだ。
犯人は、君が数字に追われていることも、丸菱精密との取引を何としても成立させたいと願っていることも、すべて事前に把握していた。君の心の隙を、精密なプログラムのように解析していたんだよ」
栗栖は一歩、坂口に近づいた。
「つまり、真犯人は君ではない。君がクリックしようがしまいが、彼らは別のルートで今日、同じことを実行していただろう。君は、たまたま最後に用意された『引き金』に指をかけさせられたに過ぎない。君個人を責めるのは、論理的に見て見当違いだ」
「……本当、なんですか。僕が、直接の原因じゃ……」
「事実だ。ソースコードの記録は、上層部の感情論よりも遥かに雄弁だよ」
坂口の瞳に、微かな生気が戻った。絶望の淵で彼が求めていたのは、優しい慰めではなく、自分を許すための「正当な理由」だった。
「栗栖さん……」
澪が、安堵したように息を吐いた。栗栖の物言いは不器用だが、その冷徹な客観性こそが、今の坂口には何よりの救いとなっていた。
「……だが、坂口君。組織というものは、時として真実よりも生贄を欲しがる」
栗栖は再び声を冷たくした。
「君を救うためには、その一〇日前からの侵入経路を完全に特定し、犯人の尻尾を掴む必要がある」
栗栖は一歩、坂口に歩み寄った。
「坂口君。そのメール、何時何分に届いた? 添付ファイルの名前は、君の記憶と一文字も違わなかったか?」
坂口は必死に記憶を掘り起こそうと、充血した目を泳がせた。
「……ええと、たしか。午前八時四十五分。朝礼が終わって、すぐです。ファイル名は『融資計画書_詳細.zip』。丸菱精密の担当者、佐藤さんの名前も入っていました。でも……今思えば、佐藤さんのメールアドレスのドメインが、ほんの一文字だけ違っていた気がします」
「一文字……。『タイポスクワッティング』か。古典的だが、焦っている人間には効果絶大だ」
栗栖は手元のスマートフォンで、何らかの操作を始めた。
「坂口君、君に一つだけ協力してほしい。そのメール、君の個人用端末に転送したり、バックアップを取ったりはしていないか?」
「……あ。そうだ、一つだけ。あまりに焦っていて、下書きに保存しようとした時に操作を誤って……。自分のプライベートのスマホに、メールのヘッダ情報の一部をコピーして送ってしまったかもしれません。同期が切れる直前で」
「何ですって!?」
澪が驚きに声を上げた。本来なら重大なセキュリティポリシー違反だが、今の状況ではそれが唯一の希望の光に見えた。
「……その『ゴミ箱の中身』、僕が預かっても?」
栗栖の唇の端が、わずかに持ち上がった。坂口は震える手でスマートフォンを取り出し、栗栖に手渡した。
「ありがとうございます。……あの、僕、本当に助かるんでしょうか」
坂口の問いに、栗栖は答えなかった。代わりに澪が、彼の肩にそっと手を置いた。
「システムは直せるわ、坂口さん。……でも、あなたの心まで壊させない。それが技術者の、いいえ、私の意地よ」
澪の言葉は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
栗栖はスマートフォンをリュックに放り込むと、夜の丸の内へと背を向けた。
「久保田さん。明日、僕の事務所に来てください。銀行が必死に隠そうとしている、本当の『バグ』の正体を暴いてみせる」
「……わかったわ。佐藤部長には、私からうまく言っておく」
栗栖は一度も振り返ることなく、駅の雑踏へと消えていった。後に残されたのは、沈黙を守る巨大な銀行のビルと、組織という荒波に翻弄される二人の若者の、微かな吐息だけだった。
帝都中央銀行、陥落から八時間。 物語は、闇バイトの温床とされる、さらに深いデジタルな奈落へと、その足を踏み入れようとしていた。
ソーシャル・エンジニアリング: コンピュータの技術的な脆弱性を突くのではなく、人間の心理的な隙や、組織の行動パターンを利用して機密情報を入手する手法。今回のように「ノルマに追われている若手」を狙うのは、その典型的な例。
タイポスクワッティング: 正規のドメイン名と酷似した、綴り間違いのようなアドレスを作成して偽装する手口。




