第四話:聖域の汚染
午後六時三十分。定時を過ぎても、帝都中央銀行本店の窓からは、煌々(こうこう)とした明かりが漏れていた。しかし、その光は活気ではなく、出口のない絶望を象徴しているようだった。
正面玄関に停まった黒塗りのセダンから、久保田澪と、IT統括部長の佐藤が降り立った。二人の間に挟まれるようにして、リュックを背負った栗栖公理が、場違いなほど軽やかな足取りで歩を進める。
「部外者をこの時間に入れるなど、本来なら言語道断だぞ」
佐藤がIDカードをセキュリティゲートにかざしながら、不機嫌そうに吐き捨てた。栗栖は、金属探知機や顔認証システムが張り巡らされたロビーを、興味深そうに見渡している。
「物理的な警備は一流ですね。ですが、デジタルの裏門は、鍵を差したまま放置されていたようだ」
「……貴様」
佐藤の顔が怒りで引き攣るのを、澪は無言で制した。
三人はエレベーターで、銀行の心臓部とも言える「システムセンター」へと向かった。そこは、二十四時間体制で日本中の取引を監視する、文字通りの聖域だ。しかし、普段は規則正しいサーバーの動作音が響くそのフロアは、今やパニックの余韻を残したまま、不気味な静寂に包まれていた。
「ここが、問題のメインコンソールです」
澪が案内したのは、フロアの中央に位置する司令台だった。モニターの多くは依然として、あの髑髏のマークと身代金要求の英文を映し出している。
栗栖はリュックから、自前のコンパクトなキーボードを取り出した。澪が第一話で見守っていた、あの静電容量無接点方式のものだ。
「管理者権限のアカウントを入力してください」
栗栖に促され、佐藤が渋々、指先を動かした。だが、返ってきたのは、無慈悲な拒絶メッセージだった。
『Authentication Failed(認証失敗)』
「馬鹿な……。私のパスワードが書き換えられているのか?」
佐藤の指先が震える。栗栖は、眼鏡のブリッジを押し上げ、コンソールを横から奪い取った。
「書き換えられたんじゃない。アカウントそのものが、論理的に消去されている。……彼らは、あなたたちをこの『家』から追い出したんだ」
栗栖の指が、猛烈な速度でコマンドを打ち込んでいく。黒い画面に、白い文字が滝のように流れる。ログ解析。システムがいつ、どこで、誰によって操作されたかを記録する「足跡」を辿る作業だ。
澪は、栗栖の背中越しにその画面を見つめていた。彼女も技術者として、この数時間、死に物狂いで解析を試みた。だが、栗栖の手捌きは、彼女の知るどのエンジニアよりも速く、そして冷酷なまでに正確だった。
(これが、かつて警察庁を追われた天才の技術……)
澪の胸に、畏怖と、わずかな安堵が混ざり合う。同時に、自分の「子供」のようなシステムが、見知らぬ他者に解剖されているような、切ない痛みも感じていた。
「見つけた。発火点は、営業第一部の末端端末だ」
栗栖の言葉に、澪は息を呑んだ。
「営業第一部……」
「一人の行員が、不用意に開けたペイロード(攻撃用プログラム)が起点となり、ネットワーク内を横方向へ移動した。いわゆるラテラル・ムーブメントだ。彼らは正規の管理コマンドを悪用して、自分たちの権限を一段ずつ昇格させていった」
栗栖は手を止め、モニターを振り返った。
「久保田君、ラテラル・ムーブメントとは何だ?」
栗栖に聞かれたくないのか、小声で佐藤は聞いてくる。
(⋯IT統括部長なのに知らないとは)
「ラテラルムーブメントは侵入したネットワークの中で隣接システムへ次々と感染を広げていく行動で、水平移動、水平展開とも言われてます」
仕方なしに小声で教える澪。
「ソースコードは嘘をつかない。このランサムウェアは、既存のものを流用した安物じゃない。帝都中央銀行の、この古びたレガシーシステムの脆弱な構造を突くために、オーダーメイドで組まれている」
「そんなことが可能なのか? うちのシステム構成は、極秘中の極秘だぞ」
佐藤が声を荒らげる。栗栖は、冷ややかな瞳を佐藤に向けた。
「だから言ったでしょう。嘘をつくのは、いつも人間だ。内部設計図が流出しているか、あるいは……」
「あるいは?」
「あなたたちの身内に、手引きをした『協力者』がいる」
その一言が、冷気が漂うフロアを凍りつかせた。
「……ふざけるな! うちの行員が、犯罪組織と手を組んでいると言うのか!」
佐藤の怒鳴り声が響く。だが、栗栖は動じない。
「事実を述べているだけです。証拠はログの中に散らばっている。……久保田主任、坂口という行員の端末まで案内してください。死体を直接調べた方が早い」
「……わかりました。こちらです」
澪は、足の震えを抑えながら、先頭を歩いた。
二階、営業第一部。数時間前まで活気に溢れていたフロアは、今は静まり返り、モニターの赤い光だけが明滅している。
坂口のデスクは、書類が散乱したまま放置されていた。彼自身は今ごろ、別室で法務部とリスク管理部の厳しい聴取を受けているはずだ。
栗栖は、坂口のパソコンの裏側に手を回し、特殊な機器を接続した。
「……残酷ね」
澪が、ぽつりと呟いた。
「坂口さんは、ただ、数字に追われていただけなんです。誰よりも真面目で、誰よりも必死だった。その焦りが、こんな結果を招くなんて」
栗栖は、画面から目を離さずに言った。
「感情論でシステムが守れるなら、世界から犯罪はなくなる。……だが、久保田さん。彼を責めるのは筋違いだ。たった一人の操作ミスで、銀行全体が沈没するような脆弱なシステムを維持してきた組織の傲慢こそが、真のバグだ」
栗栖の言葉は、澪の心に深く突き刺さった。それは、彼女自身が日頃から感じていながら、組織の壁に阻まれて口にできなかった言葉だった。
「……見ろ。面白いものが見つかった」
栗栖が指差した画面には、不規則な文字列が並んでいた。
「ランサムウェアが発火する直前、特定の外部サーバーに向けて、大量のデータパケットが送信されている。……これは、データの暗号化だけが目的じゃない」
「どういうこと……?」
「データ・エクスフィルトレーション(機密情報の持ち出し)だ。彼らは身代金を要求する前に、銀行が最も外に出したくない情報を、すでに盗み出している」
澪の顔から、完全に血の気が引いた。
「預金者のデータ……?」
「いや、もっと重いものだ」
栗栖は眼鏡を直し、暗闇の中で瞳を光らせた。
「政治家の献金記録、不透明な融資のログ……。銀行という『金庫』の奥深くに隠されていた、人間の醜い欲望の記録だよ」
その時だった。フロアの入り口から、激しい足音が近づいてきた。
「そこまでだ! これ以上の調査は認められない!」
現れたのは、佐藤部長と、数人の屈強な警備員だった。佐藤の顔は、先ほどまでの怒りとは違う、何かに怯えるような、歪な表情に変わっていた。
「頭取からの指示だ。外部の人間による詳細な解析は、情報の二次漏洩を招く恐れがある。栗栖氏には、直ちに退出願う」
「佐藤部長! そんな、今は一刻を争う時なのに!」
澪が食ってかかるが、佐藤は冷たく目を逸らした。
「久保田主任、これは経営判断だ。……栗栖さん、帰りなさい。あとの復旧作業は、我々と契約しているベンダーで行う」
栗栖は、ゆっくりとキーボードをリュックに収めた。その動作は、驚くほど落ち着いていた。
「……いいですよ。ただし、僕が今見た『ログの断片』は、僕の頭の中に記録された。……ソースコードは嘘をつかない。だが、あなたたちは、その嘘を必死に守ろうとしているようだ」
栗栖は澪の横を通り過ぎる際、耳元で小さく囁いた。
「……久保田さん。この銀行には、ウイルスよりも
性質の悪い『バグ』が潜んでいる」
栗栖はそのまま、警備員に付き添われてフロアを去った。
暗転したフロアに、澪だけが一人、立ち尽くした。 背後で、坂口のパソコンが、最後の断末魔を上げるように小さくファンを鳴らした。
帝都中央銀行、陥落から六時間。 事件は、単なるハッキングの枠を越え、巨大な陰謀の深淵へと、その姿を変えようとしていた。




