第三話:錬金術師の工房
丸の内の壮麗な石造りのビル群を抜け、墨田区の入り組んだ路地へと滑り込んだ黒塗りのセダンは、周囲の景観から完全に浮き上がっていた。
後部座席で窓の外を眺める久保田澪の隣には、IT統括部長の佐藤が、不機嫌を隠そうともせずに座っている。佐藤の履いている高級な革靴は、窓の外に広がる下町の雑踏を拒むかのように、鈍い光を放っていた。
「……本当に、こんな場所に『伝説』などと謳われるハッカーがいるのかね」
佐藤が忌まわしげに呟いた。セダンが停車したのは、外壁のタイルが剥落し、錆びついた手すりが剥き出しになった築四十年の雑居ビルの前だった。
澪は無言で車を降りた。一階の錆びた看板には、控えめなフォントで『サイバー・アルケミスト』と記されている。
(サイバーアルケミスト……電脳錬金術師⋯)
澪は手すりを掴み、階段を三階まで上がった。鉄の扉の前で一呼吸置き、重いインターホンを押し込む。
「はい」
無機質な女の声と共に扉が解錠された。中へ足を踏み入れた瞬間、澪は肌を刺すような冷気に身震いした。
そこは、昼間だというのに厚手のカーテンで閉ざされた、青白い電子の檻だった。室温は精密機器を保護するために極端に低く設定され、数十枚の大型モニターが放つ光だけが室内を照らしている。
「帝都中央銀行の久保田主任。それから、そちらは……IT統括部の佐藤部長ですか」
声をかけてきたのは、白シャツにベージュのボトムスの霧島香織。
経理兼ボディーガード。しなやかな肢体と、油断のない鋭い眼差し。澪は直感的に、彼女が単なる事務員ではないことを悟った。
「お待ちしていました。こちらへ」
香織に促され、部屋の奥へと進む。そこには、大量のケーブルがのたうつデスクの中央で、三枚の巨大な曲面モニターを凝視している男がいた。
栗栖公理
ハンドルネームは「リコウ」
彼こそが、警察庁から「爆発するほどの好奇心」と、自身が正しいと信じ込む「強烈な自己洗脳能力」を併せ持つと評されたホワイトハッカーだった。
「……栗栖さん」
澪が呼びかけると、栗栖はキーボードを叩く手を止め、ゆっくりと椅子を回転させた。
「丸の内から墨田区までは、黒塗りのセダンでも一時間弱はかかったでしょう」
栗栖は淡々と言い放った。彼の瞳は、縁のない眼鏡の奥で、まだモニターのログを追う余韻を残して動いている。
「……なぜ、私たちがセダンで来たことをご存知なのですか?」
佐藤が不審そうに尋ねた。
「下に不釣り合いな車が停まれば、監視カメラで嫌でも目に入りますよ。……それより、本題に入りましょう。あなたの銀行が現在、どのような『機能不全』に陥っているのか、客観的な事実だけを教えてください」
栗栖の声には、社交辞令も遠慮もない。
「公式ページ、および全てのオンラインサービスが停止。ATMネットワークも応答なし。……典型的なランサムウェア攻撃です」
澪は、自身の手元のタブレットに表示された被害状況の要旨を提示した。
「身代金を支払わなければ、窃取した機密データを公開する。典型的な『二重恐喝』だね。
犯人はおそらく、外部から不正アクセスを行い、時間をかけてバックアップを破壊してから発火させた」
栗栖はモニターを一枚、澪の方へ向けた。そこには、彼が外部から観測した、帝都中央銀行のネットワークトラフィックの異常値がグラフ化されていた。
「君に、帝都中央のシステムを復旧させる技術があるのか」
佐藤が、値踏みするような視線を栗栖に向けた。栗栖は佐藤の磨き抜かれた靴を一瞥し、鼻で笑った。
「技術はある。だが、ソースコードは嘘をつかないが、嘘をつくのはいつも人間だ。佐藤部長、あなたの銀行の汚染は、内部の綻びから始まったんですよ。……侵入経路はVPN機器の脆弱性か、あるいは従業員の不用意なクリックか」
澪は震える指先を隠すように、ジャケットの裾を強く握りしめた。栗栖の分析は、彼女が先ほど銀行のフロアで目撃した事態に、あまりにも正確に符合していた。
「リコウさん、あんまり脅かさないで、久保田主任のカバンを見てよ。静電容量無接点方式のキーボード。わざわざ私物を持ち歩くなんて、そっちの部長さんとは違って、彼女は『現場』の人間だよ」
後ろでサーバーを点検していた山田俊介が、抑えた調子で言った。
山田は元クラッカー。栗栖に心酔し、今はサイバー・アルケミストで働いている。
「……久保田さん。僕がこの案件を受けるための条件は、犯人の要求よりも高くつくかもしれないよ」
「金銭的な話であれば、弊行には十分な予算が……」
佐藤が言いかけるのを、栗栖は鋭い制止の手で遮った。
「金じゃない。僕が求めているのは、情報の完全な
開示だ。過去のシステムの
不備、役員の隠蔽工作、すべてを僕の
前にさらけ出すこと。ソースコードという『聖域』のデバッグ(解析)を僕に任せるなら、その中にある膿もすべて書き換える。その覚悟がありますか?」
澪は息を呑んだ。銀行という、信用と伝統を重んじる組織にとって、それは何よりも耐え難い屈辱に違いなかった。佐藤の顔が、怒りと困惑で赤黒く染まる。
だが、澪は栗栖の瞳を真正面から見据えた。
「……感情論でシステムが動くなら、今ごろ私は神様になってます」
澪は静かに、しかし力強く言った。
「でも、私は神様じゃない。一人のエンジニアとして、預金者の資産と、このシステムの矜持を守りたいだけです。……栗栖さん、あなたを、私たちのデバッガーとして迎えたいんです」
栗栖の口角が、一瞬だけ微かに上がった。
「……面白い。ソースコードに刻まれた嘘を、すべて洗い流してやる」
栗栖は再びデスクに向き直ると、猛烈な速度でキーボードを叩き始めた。
「香織さん、帝都中央の入口を確保する準備を。山田、国内の『闇バイト』の募集掲示板と、特定のSNSのログを洗え。犯人が使っている『使い捨ての子供たち』の尻尾を掴む」
「了解、ボス」
栗栖はモニターから目を離さずに、澪に向かって付け加えた。
「……久保田さん、一つだけ言っておく。ソースコードは嘘をつかない。……だが、真実に辿り着くためには、孤独という深い海へ潜る必要がある。ついて来られますか?」
「……潜水服の用意は、とっくに済んでいます」
澪の答えに、栗栖は短く鼻を鳴らした。
日本最大の金融機関を襲った、目に見えない悪意。 その深淵へと、二人の技術者は、今、静かに沈み始めていった。
■VPN
日本語で「仮想専用線」。「VPN接続」とは、仮想専用ネットワークを介してインターネットに接続すること。
VPNは物理的な専用回線を使用せずに仮想の専用回線を通じてインターネットにアクセスするため、セキュリティ対策として有効です。 フリーWi-Fiの盗聴防止や、外出先から社内ネットワークへのセキュアなアクセス、地理的制限の回避(国境を越えた通信)に利用されている。




