第十九話 鼠の網
帝都中央銀行本店、第十六会議室。澪が提示したタブレット画面には、三和システムという幽霊会社を隠れ蓑にした、醜悪な利権の構造が白日の下に晒されていた。
「加藤常務、この三和システムが管理していた古いサーバーこそが、今回のテロの入り口です」
澪の声が、静まり返った会議室に冷徹に響いた。
「遠藤常務の指示により、帳簿上は清算されながらも実態として維持され続けていた。銀行が守り続けていた裏口から、蛇谷はアケボノビールを食い破ったんです」
加藤は力なく椅子に沈み込んだ。もはや融資の引き上げなどと言っている場合ではない。銀行の不正がテロを招いたと露見すれば、組織そのものが崩壊する。
「……分かった。久保田君、この件の全権を君に委ねる。何としても蛇谷を捕まえ、証拠が表に出る前にシステムを完全に復旧させろ」
「承知いたしました」
(勝負はここからよ。リコウさん、あとは頼みます)
澪は一礼し、会議室を後にした。廊下に出た瞬間、彼女は一度だけ深く息を吐き、スマートフォンで短い合図を送った。
同じ頃、墨田区の事務所。栗栖は、三和システムのサーバーから逆探知したパケットの足跡を、地図データの上に静かに重ね合わせていた。
「リコウ、絞り込めたわよ」
香織がモニターの一点を指差す。
「ターゲットは都内。コマンドの応答速度から見て、半径一キロ圏内。……それも、この墨田区内よ」
栗栖は無言で、スマートフォンの非通知回線を開いた。彼の手元には、一般のハッカーは持ち得ない、警視庁サイバー犯罪対策課の現場捜査官と直通する番号があった。
(組織は腐っているが、現場にはまだ、信じられる奴がいる)
彼はかつて、その圧倒的な技術で対策課のエースとして鳴らしていた。志半ばで野に下った彼を、今も「先輩」と慕う男が一人だけいた。
「……もしもし、大河原か」
栗栖が低い声で告げると、受話器の向こうで息を呑む気配がした。
「栗栖先輩!?……お久しぶりです。ずっと、連絡をお待ちしていました」
「昔話は後だ。アケボノビールの件、蛇谷の潜伏先を特定した。正確な座標を送る。お前の班で動けるか」
「はい。ちょうど向島周辺で待機中でした。……本庁のキャリア連中には内緒で、現場の判断として突っ込めます」
「恩に着る。あいつは追い詰められると、アケボノのシステムを完全に破壊するキルスイッチを押すはずだ。突入のタイミングは、俺が画面越しに指示する。……いいな、大河原」
「了解です。先輩の合図、信じてますよ」
栗栖は受話器を置くと、三台のモニターすべてを攻撃的な赤い画面に切り替えた。蛇谷は今、自分たちが追い詰められていることを察知し、最後の破壊命令を実行しようとしているはずだ。
(破壊命令を、俺が用意した虚無へ誘い込む。一瞬のラグも許されない)
「山田君、ダミーの応答サーバーを三つ立ち上げろ。香織さんは蛇谷が使うプロキシを片っ端からポートスキャンして、奴の視界を塞いでくれっ」
「了解!」
モニター越しに、見えない火花が散る。蛇谷がキーを叩くたび、栗栖はその先を読み、論理の防壁を築き上げる。
かつて共に深夜までコードを追い、正義を語り合った後輩の大河原が、今、栗栖の送る信号一つで現場へと雪崩れ込もうとしている。
「……今だ」
栗栖がエンターキーを静かに、しかし力強く押し込んだ瞬間、蛇谷の端末から発信された破壊命令は、栗栖が用意した仮想の「迷宮」へと吸い込まれていった。
同時に、墨田区向島にある古びた雑居ビルの周囲に、サイレンを消した数台の覆面パトカーが滑り込む。
モニターの隅に、大河原からの短いメッセージが表示された。
「確保。キルスイッチの作動は阻止しました。さすがですよ、先輩」
栗栖は背もたれに深く体を預けた。眼鏡を外し、熱を持った目元を指で押さえる。
(終わったな……。これでようやく、美味いビールが飲める)
窓の外では、隅田川を挟んで対峙する二つの街に、夜明けの光が差し始めていた。
直接手を下す必要はない。法執行機関という巨大な重機を、正確な「知性」と「信頼」で動かすこと。それが、元警視庁のエースであり、今は野に下ったアルケミスト(錬金術師)としての、栗栖の戦い方だった。
銀行の会議室で一人戦い抜いた澪。そして、事務所の椅子から一歩も動かずに蛇を網にかけた栗栖。
琥珀色の信頼を守るための長い夜が、ようやく明けようとしていた。




