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『不実のコード』ソースは嘘をつかない  作者: リコウ
第一章 聖域のデバッグ
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第十七話 沈黙の境界線

帝都中央銀行本店十六階、大会議室を支配しているのは、静まり返った空気の中に漂う、刺すような殺気だった。


アケボノビールの基幹システムが「Qilinチーリン」を名乗るランサムウェアに制圧されてから、すでに四十八時間が経過している。


正面に座る融資担当常務の加藤は、分厚い報告書を机に叩きつけた。


「久保田君。君の特別監査チームは、一体何を精査しているんだ。アケボノ側の出荷が完全に止まり、全国の工場で製品が滞留している。メインバンクとして、このまま手をこまねいていては、わが行の資産価値そのものが毀損しかねんぞ」


加藤の言葉には、失脚した遠藤派の残党たちの意向が色濃く反映されていた。彼らにとって、頭取直轄の特別監査チームは目の上のたんこぶだ。アケボノビールの未曾有の危機に乗じ、澪の無能を印象づけ、その権限を剥ぎ取ろうという意図が透けて見える。


「常務、アケボノビールは現在、単なるシステム停止ではなく、二重恐喝の渦中にあります」

澪は、乾いた喉を押し通るような低い声で答えた。

「二重恐喝だと?」


「はい。データの暗号化だけでなく、機密情報の窃取と公開の脅迫です。犯人側は、身代金を支払わなければ取引先リストと秘伝の醸造レシピをダークウェブに晒すと告げています。不用意な介入やシステムの強制再起動を行えば、それが引き金となり、すべてのデータが永久に抹消されるキルスイッチが仕掛けられている恐れがあります」


澪の脳裏には、実際の事件で起きた凄惨な光景が浮かんでいた。バックアップサーバーまでが同時に汚染され、復旧の術を失う絶望。


「だからこそ、今はアケボノ側が依頼している専門家の判断を待つべきです。彼らは今、デジタルの地雷原を歩いているのです」


「専門家だと? どこの誰とも分からん連中に、わが国の食のインフラを委ねろと言うのか」


加藤の背後に控える次長の山崎が、嘲笑を浮かべて追随する。


「久保田君、君は技術を盾に問題を複雑化させていないか? 再起動すれば済む話を、自分の手柄にするために引き延ばしているのではないか、という声も出ているぞ」


組織の論理は、時に専門性という真実を「独りよがりの理屈」へと歪めてしまう。


「……滅相もございません。私は、エンジニアとして最悪のシナリオを防ごうとしているだけです」


同じ頃、墨田区にあるサイバーアルケミストの事務所は、外界の喧騒が嘘のような静寂に包まれていた。

三台の大型モニターが放つ青白い光だけが、栗栖の鋭い横顔を照らしている。


コーヒーはとっくに冷め、香織も山田も、この二十四時間、椅子から立ち上がっていない。


「リコウ、これ……。想像以上に深いところまで喰われてるわ」


香織が掠れた声で呟いた。


ADアクティブディレクトリサーバーが完全に掌握されてる。犯人は正規の管理者権限を使って、社内ネットワークを横移動しながら、すべての拠点にあるバックアップデータまで一気に暗号化していった。……これ、ゼロトラストへの移行を急いでいたアケボノの、わずかな隙間をピンポイントで突いてるわ」



栗栖は無言で、画面に流れるログの奔流を追い続けていた。


彼のタイピングは、もはや思考の一部となっていた。モニターに映し出されるのは、アケボノビールの命とも言える、各工場の鮮度管理システムのステータスだ。


「……山田君。自動倉庫のシステム状況は」


「……全滅です、リコウさん。クレーンが停止し、入出荷の履歴データが上書きされています。このままでは、今工場にある何百万本のビールが、いつ造られ、いつ出荷されるべきものか、誰にも分からなくなる」


「ビールは生き物なんだよ」


栗栖が、吐き捨てるように言った。


「蛇谷の奴、一番残酷なやり方を選びやがった。金を奪うだけじゃない。職人たちが積み上げてきた鮮度という名の信頼を、工場の奥底で腐らせようとしている。……許せるか、こんなこと」


栗栖の瞳に、冷徹な理知の奥に隠された、激しい怒りが宿っていた。


解析を進めるうちに、攻撃者が使った「古い通信経路」の痕跡を見つけた。それは、通常のメンテナンスでは見落とされるような、十数年前の古いネットワーク機器を経由していた。


「リコウ、これ、内部の脆弱性を突かれたどころか……。裏口の鍵を預かっていた奴が、わざと開けっ放しにしていたレベルよ」


香織の言葉に、栗栖は眼鏡のブリッジを押し上げた。


「ああ。内部に手引きした人間がいる。それも、この古い経路を知り尽くしている人間だ」


栗栖は、手元のスマートフォンをちらりと見た。


澪からの着信はない。そして自分からも、かけるつもりはなかった。


今、自分が掴んでいる「内部犯行の疑い」を彼女に伝えれば、彼女は銀行員としての報告義務に晒される。もしそれが上層部に漏れれば、犯人は証拠を消して逃走し、アケボノビールは社会的な死を迎えることになるだろう。


「久保田さん……。今は、互いの境界線を守るのが、最善の共闘だ」


栗栖はそう独りごちると、再び迷宮のようなコードの森へ踏み込んでいった。


夜が更け、帝都中央銀行の会議室では、加藤常務が最後通牒を突きつけていた。


「明朝九時までにアケボノビールから明確な復旧の目処が得られなければ、特別監査チームの解散と、外部ITコンサルへの全面移管を決定する。久保田君、これは決定事項だ」


会議室を出た澪は、冷え切った廊下を一人歩いた。

窓の外には、隅田川を挟んで墨田区の夜景が広がっている。


あの中に、彼らがいる。

彼らが、自分と同じ怒りを抱えながら、デジタルの地雷を一つずつ取り除いている。


澪はスマートフォンを取り出し、栗栖の番号を表示せた。


だが、発信ボタンは押さない。


代わりに彼女は、監査チームの秘匿用サーバーに、一枚のメモをアップロードした。


それは、アケボノビールの過去の保守契約書の中から見つけ出した、特定のシステム会社の名前だった。その会社は、三年前の合併時に整理されたはずが、なぜか一部の保守費だけが遠藤派の管理口座から支払われ続けていた。


直接は言えない。だが、システムを共有する者同士であれば、いつかこの「点」に気づくはずだ。


「リコウさん……。私は私の場所で、組織の蛇を炙り出す」


深夜の静寂の中、二人の技術者は、見えない境界線を挟んで背中合わせに立っていた。


琥珀色の信頼を守るために。


そして、明日の一杯を最高の状態で味わうために。

彼らの孤独な共闘は、最も深い闇の夜へと突入した。

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