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『不実のコード』ソースは嘘をつかない  作者: リコウ
第一章 聖域のデバッグ
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第十六話 琥珀色の宣戦布告

墨田区にある栗栖の事務所、サイバーアルケミストの午後は、いつも通りの静寂に包まれていた。


窓の外には隅田川が穏やかに流れ、対岸にはアケボノビール本社の特徴的な建築が夕日に輝いている。栗栖は、冷めかけたコーヒーを啜りながら、無機質なデバッグ作業に没頭していた。


その静寂を破ったのは、デスクの上で激しく震える固定電話のベルだった。


ディスプレイに表示されたのは、見覚えのない代表番号。登録されていないその数字に、栗栖は不審げに眉を寄せながら受話器を取った。


「はい、サイバーアルケミストです」

「……栗栖さんいらしゃいますか」


受話器の向こうから聞こえてきたのは、極限まで張り詰めた、男の掠れた声だった。


「失礼ですが、どちら様でしょうか」


「アケボノビール、情報システムの広瀬です。……突然の電話で申し訳ない。あなたの腕を見込んで、ある筋から連絡先を聞きました。今すぐ、助けていただきたい」


広瀬と名乗った男の背後からは、何かが崩壊していくような怒号と、鳴り止まない警報音が漏れ聞こえていた。


「広瀬さん。アケボノビールほどの企業が、なぜうちのような個人事務所に」


「警察にも、ましてやメインバンクの帝都中央銀行にも、まだ詳細は伏せています。彼らに知られれば、復旧よりも先に保身と責任追及が始まり、わが社は二度と立ち上がれなくなる」


栗栖は受話器を肩で支えながら、何気なく壁に掛けられたテレビのスイッチを入れた。


画面には、報道特別番組のテロップが躍っていた。

国内最大手・アケボノビール、基幹システム障害により全製品の出荷を停止。


アナウンサーが、沈痛な面持ちで速報を読み上げている。


「広瀬さん、今、テレビを観ました。……身代金の要求があったのですか」


栗栖が低い声で尋ねる。


「……はい、チーリン(Qilin)を名乗るグループによるランサムウェア攻撃です。全拠点のサーバーが暗号化され、工場のラインが物理的に停止した。犯人からは、身代金を払わなければ秘伝の醸造レシピと顧客情報をダークウェブに晒すというメールが届いています。暗号化されたデータが数時間おきにランダムに改竄されています。このままでは、今工場にある何百万本のビールの品質が保証できなくなる。アケボノの信頼が、デジタル攻撃に締め上げられているんです」


広瀬の必死の訴えを聞きながら、栗栖の瞳に、冷徹な理知な光が宿った。


「身代金を払えばデータが戻るかもしれませんよ。……それでも、我々に賭けますか」


「あなたしかいないと聞きました。それに、うちの上層部はすでに身代金は支払わないと決めました。どうか、助けていただきたい」


「分かりました。……引き受けましょう」


「助かります。……今すぐ、弊社の電算センターへ。専用の回線を用意させます」


栗栖が受話器を置くと、室内には不気味なほどの沈黙が戻った。


香織と山田が、食い入るようにテレビの速報を見つめている。


「リコウ、これ、本気なの? 相手は国家規模のサイバー犯罪グループよ」


香織が不安げに尋ねる。


「ああ。最高のコンディションで注がれた一杯を、あんなクズのくだらない復讐劇で台無しにされてたまるか。……山田君、機材を纏めろ。これよりサイバーアルケミストは、全面的な隠密作戦に入る」




同じ頃、帝都中央銀行本店八階、新設された特別監査チームの執務室を包むのは、耳に障るほど無機質なサーバーの冷却音だった。


澪は真新しいデスクに置かれた液晶モニターの光を浴びながら、終わりなきデータの海と対峙していた。


あの日、頭取室の重厚なオーク材の扉の向こうで繰り広げられた審判の劇から、時計の針は一度も止まることなく、組織の日常を刻み続けている。遠藤常務や佐藤部長が去った後の椅子には、すでに別の誰かが座り、何事もなかったかのように新しい決裁印が押されている。巨大な銀行という組織にとって、個人の失脚など、剥がれ落ちた一枚の鱗に過ぎない。


澪が静かにキーボードを叩く指を止めると、背後に気配があった。


「久保田さん。アケボノビールの件、上層部が色めき立っています」


部下として配属された若手行員、高木が、タブレット端末を手に血相を変えて飛び込んできた。


「ニュースを見たのね」


「それだけじゃありません。広報と融資部が、アケボノ側から緊急の状況説明を受けています。出荷管理システムが完全にロックされ、工場のラインが物理

的に停止。これ、単なる障害じゃなくて、外部からの攻撃ですよ」


澪はモニターの隅に表示されているニュース速報を睨んだ。


「国内最大手・アケボノビール、基幹システム障害により全製品の出荷を一時停止」


その文字が、重い鉛のように澪の胸に沈んだ。


アケボノビールは、帝都中央銀行にとって最優先の優良融資先だ。もしこれがサイバー攻撃による長期停止であれば、その損害額は天文学的数字に上り、メインバンクとしての責任、引いては融資判断の是非が問われることになる。


「久保田さん、今すぐ融資部との合同会議室へ向かってください。頭取直轄の監査チームとして、システムの被害実態をどう判断するか、意見を求められています」


「分かったわ」


澪は立ち上がり、紺のジャケットを羽織った。かつての左遷を待つ身とは違う。今は組織の「目」として、その真実を見極めなければならない。


帝都中央銀行の本店会議室。


澪は、融資部の役員たちと激しい応酬を繰り広げていた。


「久保田君、監査チームの判断を聞きたい。アケボノビールのシステム復旧に、どの程度の期間を要すると見る? それによっては、緊急融資の枠組みを根底から見直さなければならん」


融資部長の長谷川が、威圧的な視線を向けてくる。


「部長、正確な被害実態が把握できていない現段階での判断は危険です。アケボノ側が情報を精査している最中である以上、我々は静観しつつ、バックアップ体制の支援に回るべきです」


「静観だと? 株価は暴落し始めているんだぞ。我々メインバンクが『何も掴んでいません』で済むと思っているのか!」


長谷川の怒声が会議室に響く。


澪は冷静さを保ちながら、手元の資料を捲った。


「焦って介入すれば、相手を刺激し、データの完全破壊を招く恐れがあります。システムエンジニアの視点から言えば、今の最優先事項は情報の秘匿と、内部犯行の可能性も含めた精緻な調査です」


会議が平行線を辿る中、澪の脳裏に栗栖の顔が浮かんだ。


こんな時、彼ならどう動く。彼の知見があれば、この不透明な状況を打開できるのではないか。

だが、その時ふと、自分と彼との間にある「境界線」に気づいた。


彼は民間のスペシャリストであり、自分は銀行という巨大な組織の一員だ。アケボノビールが外部に調査を依頼しているとすれば、守秘義務という鉄のカーテンが、自分と彼らの間を隔てているはずだ。


会議が休憩に入った隙に、澪はスマートフォンを取り出し、栗栖の番号を表示させた。


しかし、発信ボタンを押す手は止まった。


もし彼がこの件に関わっているのなら、自分から連絡をすることは、彼のプロとしての矜持を傷つけることになるのではないか。


その頃、栗栖たちはすでにアケボノビールの専用サーバーに潜り込んでいた。


「リコウ、やっぱり。暗号化の層が二重になっているわ。外側を解いても、内側でデータの改竄が走る仕掛けになってる」


「巧妙だな。蛇谷は、我々が解除に乗り出すことすら計算に入れている」


栗栖の指が、ダンスを踊るようにキーボードの上を走る。


「山田君、トラフィックの逆探知は」


「……すみません、リコウさん。海外の踏み台サーバーが多すぎて、一筋縄ではいきません。でも、通信のタイミングが妙に規則的なんです。まるで、誰かの合図を待っているような……」


事務所の空気は、サーバーの熱気とともに温度を上げていく。


外では、アケボノビールの株価下落を報じるニュースが流れ、大手町の銀行内では、責任追及の刃が研がれている。


澪は会議室の窓から、夕闇に沈む東京の街を見下ろした。


対岸の墨田区。そこには、同じ琥珀色の液体を愛し、同じ敵を追っているはずの仲間たちがいる。

しかし今、彼女はその存在を頼ることも、その名前を呼ぶことも許されない。


「久保田さん、会議再開です」


部下の高木の声に、澪は静かに頷いた。


「分かったわ」


組織の論理と、技術者の矜持。


それぞれの場所で、見えない蛇との戦いが始まった。

辞令という名の鎖を断ち切った澪の前に現れたのは、組織という巨大な迷宮と、プロとしての孤独な境界線だった。


夜のとばりが降りる頃、帝都中央銀行の会議室には依然として明かりが灯り続け、墨田区の事務所では、青白いモニターの光が三人の技術者の顔を照らし続けていた。


それは、かつてないほどに静かで、そして冷徹な、知能戦の始まりだった。


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