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『不実のコード』ソースは嘘をつかない  作者: リコウ
第一章 聖域のデバッグ
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第十五話 審判の議場

帝都中央銀行本店、最上階。厚い絨毯が足音を吸い込む長い廊下の突き当たりに、その扉はあった。重厚なオーク材で作られた頭取室の扉は、まるで巨大な墓標のように澪の前に立ちはだかっている。


隣を歩く佐藤部長の様子は無惨だった。先ほどまでの怒声はどこへやら、顔色は土気色つちけいろを通り越して白に近く、膝が笑っているのが横にいる澪にも伝わってくる。対照的に、澪の心は驚くほど静まり返っていた。昨日までの、組織の論理に押し潰されそうになっていた自分はもういない。


扉が開くと、部屋の主である奥田頭取が中央のデスクに座っていた。その傍らには、窓の外を見下ろしながら傲然と立つ遠藤常務の姿がある。


「失礼いたします」


澪は静かに一礼し、入室した。


「遅いぞ、佐藤。一体何をしていた」


遠藤が振り返り、鋭い視線を投げかける。その目は、獲物を狙う蛇のように冷酷だった。


「も、申し訳ございません。遠藤常務、あの……システムの方が少々……」


佐藤がしどろもどろに応じる。


「システムのことなら、すでに報告を受けている。久保田君」


奥田頭取が、重みのある声で澪の名前を呼んだ。


「昨夜、君が外部から本行の基幹システムに不正なアクセスを試み、重大なエラーを引き起こしたという報告が上がっている。これは立派なテロ行為だ。何か言い分はあるかね」


遠藤が勝ち誇ったように口角を上げた。


「君の仕業だということは、ログを見れば一目瞭然だ。銀行のサーバーに逆侵入し、データを攪乱した。この損害、単なる解雇では済まない。刑事告訴も含め、我々は厳正に対処するつもりだ。佐藤、お前からも言ってやれ。彼女の暴走を止められなかった責任は重いが、指示したのは彼女自身だと」


佐藤は震える手で顔を拭い、消え入るような声で応じた。


「は、はい……。久保田が、私の目を盗んで……昨夜の作業中に不審な操作を……。私は必死に止めたのですが……」


嘘だ。


その言葉が喉まで出かかったが、澪はそれを飲み込んだ。感情に任せて叫んでも、この密室では無意味だ。ここにあるのは真実ではなく、力の強い者が作る「正解」だけなのだから。


「……お言葉ですが、頭取」


澪は一歩前へ出た。


「私が昨夜行ったのは、テロではなくデバッグです。佐藤部長が実行された消去プログラムにより、システムの根幹が破壊されようとしていました。私はエンジニアとして、銀行の基幹を守るために、外部からそれを阻止したに過ぎません」


「黙れ!自分の罪を他人に擦り付けるのか!」


遠藤が激昂し、デスクを叩いた。


「お前が盗み出したデータはどこにある。特定の政治団体への融資記録だと? そんなものは最初から存在しない。お前が捏造したデータだ。そうだろう!」


遠藤の叫びは、焦りの裏返しだった。澪はバッグから、昨夜栗栖とともに抽出した最終的な解析ログの写しを取り出した。


「捏造かどうかは、今この瞬間も頭取の専用サーバーに転送されているログを見れば明らかです。佐藤部長が消去したつもりで放流したシャドウ・コピーには、遠藤常務、あなたが直接命じた迂回融資の承認履歴がすべて残っていました。それも、削除不可の管理者権限付きのログとしてです」


部屋の空気が、一瞬で凍りついた。


「管理者権限だと……?」


遠藤の顔から血の気が引いていく。


「佐藤部長はシステムの仕組みを理解していなかった。消去ボタンを押せばすべてが消えると思っていたのでしょう。しかし、銀行のシステムはそんなに単純ではありません。不正を隠そうとすればするほど、システムはその痕跡を『例外処理』として保存する。皮肉にも、佐藤部長の無知が、あなたが最も隠したかった証拠を、誰にも消せない形で復元してしまったのです」


「貴様……!」


遠藤が澪に掴みかかろうとしたその時。


「そこまでだ、遠藤常務」


奥田頭取の静かな、しかし抗いがたい威厳に満ちた声が響いた。


頭取は手元の端末に視線を落としていた。そこには、澪が予告した通り、転送されてきた膨大な不正の記録が、整然とリストアップされていた。


「佐藤部長。君は私に、久保田君がすべて仕組んだことだと言ったね」


奥田の視線が佐藤を射抜く。


「ひっ……あ、あの、それは……」


佐藤はその場に崩れ落ちた。もはや、何の弁明も出てこない。


「遠藤君。君がこれほどまでに組織を私物化していたとはな。特定の団体への迂回融資、そしてその事実を隠蔽するためのシステム改竄かいざん。これらはすべて、銀行法に抵触する重大な犯罪だ。君の言っていた『組織を守るための必要悪』など、どこにも存在しない。あったのは、君の独りよがりな権力欲だけだ」


「頭取!これは……これは銀行の将来を思ってのことで……!」


遠藤が必死に食い下がるが、奥田はもはや彼を見ようともしなかった。


「久保田君。君の取った行動は、確かに越権行為だ。行員としては、決して褒められたものではない」


奥田が、眼鏡を外して澪を見つめた。


「だが……システムエンジニアとしては、正しい判断だった。銀行員が守るべきは組織のメンツではなく、顧客からの信頼、そして預かっているデータの正当性だ。君は、自分のキャリアを懸けてそれを守った」


奥田は一度言葉を切ると、深い溜息をついた。


「遠藤常務、及び佐藤部長。両名は本日付で全ての職務を停止。追って懲罰委員会にて処分を決定する。……久保田君」


「はい」


「君の出向の内示だが、これを取り消すわけにはいかない」


澪は、耳を疑った。これだけの証拠を出し、不正を暴いても、やはり自分は追い出されるのか。


「……そうですか。承知いたしました」


失望を隠し、澪が頭を下げようとした時、頭取の言葉が続いた。


「しかし、出向先を変更する。君には、今回の事件で露呈したシステムの脆弱性を根本から修正し、新体制を構築するための『特別監査チーム』の責任者として動いてもらう。場所は本店直轄だ。事実上の昇進だと思ってくれていい」


澪は、顔を上げた。奥田頭取の瞳には、微かな微笑みが浮かんでいた。


「君のような人間が、これからのこの銀行には必要なのだ。……苦労をかけたな」


頭取室を出た時、廊下の空気は先ほどよりもずっと澄んでいるように感じられた。佐藤部長は、警備員に付き添われるようにして、力なく連れて行かれた。遠藤常務も、崩れ落ちたプライドとともに、二度とその権力の椅子に戻ることはないだろう。


その夜、浅草橋にある、知る人ぞ知る銘酒居酒屋の暖簾を四人でくぐった。使い込まれたテーブルに案内され座ると、まずは景気づけに全員で「とりあえず生」を注文した。


「お疲れ様。乾杯!」


四人のジョッキが小気味よくぶつかり合う。

黄金色の液体が喉を通る時の爽快感と苦味が、一日中張り詰めていた緊張、仕事の疲れを溶かしてくれるようであった。


「ぷはぁ……生き返る~!」

「本当に。まずは無事に終わって良かったわ」

「今回は疲れた~!」


澪、香織、山田はジョッキを置き、ふうと肩の力を抜いた。


皆のビールが三分の二ほど空いたころには澪は香織たちとすっかり打ち解けていた。

そして待ち兼ねたように本命の注文を入れた。


「すみません、久保田の萬寿を四つ、冷やでお願いします」


澪は運ばれてきた萬寿を一口含み、その凛とした香りに目を細める。


「やっぱり、これね。自分の名前と同じ酒を飲むのが、私にとっての一番の贅沢なの」


澪はご機嫌な様子で、透き通った液体が揺れるグラスを傾けた。


酒の肴が運ばれてくると、自然と話題は昨夜の事件の真相へと移っていった。


「そういえば、あの地下駐車場まで追ってきた連中のことだけど……」


栗栖が萬寿のグラスを揺らしながら、静かに切り出した。


「さっき警察の知人から連絡があった。現場にいた実行犯たちは全員確保されたそうだ。案の定、彼らはSNSで集められただけの闇バイトだったよ。指示役の顔も知らない、ただの使い捨てだ」


「じゃあ、ヘビヤ・コンサルティングの方は?」


澪が問いかけると、栗栖の表情がわずかに曇った。


「それが、蛇谷本人は間一髪で逃げたらしい。事務所はもぬけの殻で、サーバーも物理的に破壊されていたそうよ。闇バイトたちをトカゲの尻尾にして、自分だけは鮮やかに姿を消したわけ。あの蛇のような男、そう簡単に尻尾を掴ませるつもりはないらしいわ」


「逃げたのね、あの男……」


澪は萬寿を一口飲み、悔しさを飲み込んだ。遠藤常務の片腕として暗躍していた蛇谷という存在は、依然として不気味な火種として残っている。


「捕まったのは、末端の使い捨てに過ぎない闇バイトの実行犯たち。ヘビヤ・コンサルティングからSNSを通じて指示を受けていただけの、システムの仕組みすら知らない若者たちだったらしいわ。彼らにとっては、誰かの人生をデジタル上で殺すことも、単なる『高額案件』のひとつに過ぎなかった……。その無機質さが、何よりの闇かもしれないわね」


澪は萬寿をもう一口含み、深く頷いた。


「佐藤部長も、ある意味では彼らと同じだったのかもしれない。上からの指示を疑わず、自分が何を壊しているのかも理解しようとしなかった。技術を軽視した組織の末路ね」


「それより澪、頭取室での大逆転、本当におめでとう。辞令が変わったんですって?」


香織がフォローするように言い、話を明るい方向へ向けた。


「……変わったわ。出向は取り消し。代わりに、本店直轄の『特別監査チーム』の責任者に任命されたの。今回の件で露呈した不正の膿を、システム側からすべて出し切るのが私の仕事になるわ」


「実質の昇進じゃない。おめでとう!」


香織と栗栖がグラスを合わせ、澪の新しい門出を祝った。


「ありがとう。でも、栗栖さんのファラデーケージと、あの逆侵入のルート確保がなかったら、今ごろ私は警視庁の取調室にいたかもしれないわ」


澪は回想しながら、改めて背筋が寒くなるのを感じた。


「君のエンジニアとしての執念が、頭取を動かしたんだよ」


栗栖が珍しく素直に称賛の言葉を口にした。


酒が進み、二本目の萬寿が空く頃、澪はずっと胸に秘めていた疑問を投げかけた。


「ねえ、以前から気になっていたんだけど。香織さんたちは、どうして栗栖さんのことをリコウって呼ぶの?」


栗栖公理くりすきみのり本人が、萬寿のグラスを口に運んだまま、露骨に嫌そうな顔をして視線を逸らした。代わりに香織が楽しそうに身を乗り出す。


「ああ、それ? 彼の名前、公理きみのりでしょう? その漢字を逆から音読みして『リ・コウ』ってわけ。学生時代からのあだ名なんだけど、あまりに理屈っぽくて可愛げがないから、皮肉を込めて『理屈の塊のリコウ』って呼ぶのが定着しちゃったのよ」


「公理を逆さまにして、リコウ……」


澪が感心したように呟くと、香織がさらに追い打ちをかける。


「そうなの。本人も否定しないくらい、中身が理屈そのものだからね」


「香織さん、余計なことを言わないでくれ」


苦笑いするリコウ……いや、栗栖を見て、澪は今日一番の笑い声を上げた。


「リコウさん、ね。でも、今の私にとっては、世界で一番頼りになる『理屈の塊』だわ」


浅草橋の夜は、萬寿の柔らかな酔いとともに更けていく。


辞令まで、あと四日。


カウントダウンの数字は、もはや恐怖の対象ではなかった。それは、新しく生まれ変わる帝都中央銀行、そしてエンジニアとしての誇りを取り戻した自分への、輝かしいプロローグに変わっていた。

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