第十三話 聖域の解体
夕闇が迫る都内。香織が運転するセダンは、執拗に背後を走るグレーのワゴン車を撒くため、複雑な路地を縫うように走っていた。車内の空気は、逃げ場のない緊張に凍りついている。
澪のスマートフォンが不気味に明滅し、SNSへのログイン試行通知が止まらない。
「あれ、何これ?携帯が……」
「久保田さん、その端末を貸して!」
栗栖は澪の手からスマホを奪い取ると、即座にそれをアルミ蒸着の防護ポーチへと放り込み、口を固く閉じた。
「え……? 栗栖さん、何してるの?」
「物理的な遮断だ。」
栗栖はポーチを座席に投げ出し、自身のノートPCに向き直る。
「どれほど高度なハッキングも、結局は外部との通信がなければ成立しない。アルミのような導電体で囲えば『ファラデーケージ』となり、電波を完全に遮蔽できる。Wi-Fiも、Bluetoothも、4Gも、これでもう手出しはできない。今の君のスマホは、文字通り世界から隔離された『ただの鉄屑』だ。……これで、なりすまし投稿のタイムリミットを止めた」
栗栖の簡潔な説明に、澪はハッとした。ネットワークのプロである彼が、あえて「通信を切る」という原始的で確実な手段を選んだ意味を理解したからだ。
「……たぶん、奴らの狙いは、君になりすまして『顧客情報を持ち出した』と偽の自白をさせることだろう。一度ネットに流されれば、後からハッキングだったと証明しても、世間にこびりついた悪評は消せない。君の銀行員としての生命は、そこで完全に終わっていただろうね」
澪は血の気が引くのを感じた。暴力ではなく、デジタル上の人格を殺すことで、自分を社会から抹殺しようとしている。
「……どうしてここまで。佐藤部長は、ただ組織を守りたいだけじゃなかったの?」
「佐藤部長……。あの人は、おそらくシステムの『シ』の字もわかっていない。人事と営業を渡り歩いてきた、ただの『出世の亡者』じゃないのか。昨夜、彼が自分の執務室から実行したログの消去作業。あれは、遠藤常務から渡された『実行ボタン』を、中身も理解せずに押しただけだ」
栗栖は、事前にコピーしていた銀行のシステムログの残滓を画面に表示させた。
「……見てみて。佐藤が実行した消去プログラムはあまりに杜撰だ。証拠を消すどころか、消去したという『操作ログそのもの』が未処理のままメモリに残っている。技術に疎い人間が、権限だけを使って無理やり操作した結果だ。……だが、そこに驚くべきものが混じっていた」
「驚くべきもの?」
「佐藤は、証拠を消去したつもりで、実は『銀行の基幹システムが自動的に作成しているシャドウ・コピー(隠しバックアップ)』まで一緒に外部へ放流してしまった。……彼は、自分が何を『ゴミ箱』に捨てたのかさえ分かっていない」
香織が車を滑り込ませたのは、千代田区にある古びた地下駐車場だった。周囲を分厚いコンクリートの壁に囲まれ、天然の電波遮断壁となっているこの場所で、栗栖はアルミポーチから澪のスマホを取り出した。
「……ここで決着をつけるわ」
澪は、栗栖が解析した「佐藤部長のミス」の全容を聞き、目を見開いた。
佐藤が「ゴミ」だと思って放流したデータの中には、遠藤常務が隠したがっていた、過去十年に及ぶ「特定の政治団体への迂回融資」の全記録が含まれていたのだ。
「……部長の無知が、皮肉にも最大の証拠を外に連れ出したのね」
「そうだ。だが、そのデータを受け取った『ヘビヤ・コンサルティング』も、これの本当の価値には気づいていない。彼らはただ、遠藤から『余計なゴミを始末しろ』と命じられただけだ」
栗栖の指がキーボードの上で踊る。彼は、佐藤が誤って開いた「裏口」を逆利用し、銀行の基幹システムへ「逆侵入」を仕掛けた。
「……久保田さん。今、銀行のシステム内で、ある『バグ』が動き出した」
「え?」
「佐藤部長が、消去作業の途中で『よく分からないから』と中断したプロセスが、無限ループを起こして基幹システムの特定のセグメントを麻痺させている。……これこそが、遠藤常務が最も恐れていた事態だ」
その時、地下駐車場の静寂を切り裂いて、グレーのワゴンから降りてきた数人の男たちがこちらへ近づいてくるのが見えた。
だが、同時に澪の端末に、思いもよらない相手から一本のメールが届いた。
差出人は、奥田頭取。
『久保田澪君。……君が今、何を見ているかは分かっている。……佐藤君が壊したシステムを、君のやり方で“デバッグ”しなさい。……責任は、私が取る』
澪は息を呑んだ。
頭取は、すべてを知っていたのだ。遠藤常務の暴走も、佐藤部長の無能な隠蔽工作も。そして、それらを一掃するために、あえて澪が「外側」からシステムを叩くのを待っていた。
「……フン、食えない狸だ。僕らを使って、行内の汚れを掃除させるつもりなのか」
栗栖は苦笑しながら、エンターキーを強く叩いた。
「……聖域の解体、開始だ。久保田さん、君の認証コードを入力しろ。……これで、銀行の嘘をすべて白日の下に晒す」
澪は、かつて自分が愛したシステムの深い闇へと、最後の一撃を打ち込んだ。
地下駐車場に、サーバーが悲鳴を上げるような電子音が響き渡る。
背後に迫っていた「蛇」たちの足が止まった。彼らが持っていたタブレット端末が、一斉にエラーコードを吐き出したからだ。
「……デバッグ、完了よ」
辞令まで、あと六日。
しかし、もはや左遷を恐れる必要はなかった。
崩壊を始めたのは澪のキャリアではなく、鉄の結束を誇っていた「帝都中央銀行」という名の、偽りの聖域だった。




