第十二話 蛇の毒
渋谷、道玄坂。雑居ビルの合間に、香織の運転するセダンが静かに停車した。
澪は車窓から、目指す「有限会社ヘビヤ・コンサルティング」が入居するビルを見上げた。築四十年の煤けた外壁には、名前ばかりの看板が並んでいる。
「……あの中に、私の人生を狂わせたデータがあるのね」
「ああ。だが、あそこは銀行のサーバー室より厄介だぞ。法もルールも通用しない連中の巣窟だ」
栗栖は膝の上でノートパソコンを展開し、無機質なキーボード音を響かせる。画面には、ビルの内部を飛び交う無線パケットが可視化されていた。
「……佐藤部長のスマホが吐き出した通信先、四階のサーバーラックを捕捉した。……だが、妙だな。暗号化の強度が、さっきまでの比じゃない。これは半グレが使うようなツールじゃないぞ」
栗栖の眉間に皺が寄る。その時、澪のスマートフォンが震えた。
「……非通知?」
恐る恐る出ると、受話器の向こうから聞こえてきたのは、加工された低い男の声だった。
『――久保田澪さん。今、渋谷の道玄坂にいますね。……左後ろのグレーのワゴン車を見てください』
澪が息を呑んで振り返ると、そこにはスモークガラスのワゴンが停車していた。窓は開かない。ただ、じっとこちらを監視していることだけが伝わってくる。
「栗栖さん、見張られてる……!」
「……チッ、逆探知じゃない。最初から位置情報を掴まれていたか。……香織、出してくれ。ここはマズい」
香織が静かに車を発進させる。激しいチェイスが始まるわけではない。ただ、あのグレーのワゴンが、一定の距離を保って、どこまでも静かに、執拗に背後を走っている。
「……警察に駆け込めないかしら」
「無理だ。向こうは何も法に触れることはしていない。ただ同じ道を走っているだけだ。……だが、見てみろ」
栗栖が画面を指差す。澪のスマートフォンの画面が勝手に操作され、彼女の銀行口座の残高や、私的なメールの内容が次々と表示されていく。
「……私のスマホが、乗っ取られている?」
「……『蛇の毒』だ。ヘビヤのサーバーに近づきすぎたせいで、強制的にスパイウェアを流し込まれた。……久保田さん。彼らは君を殺そうとしているんじゃない。……君のデジタル上の人格を、一歩ずつ破壊しようとしているんだ」
信号待ちのたびに、背後のワゴン車がじりじりと車間を詰めてくる。運転席の男の顔は見えない。ただ、逃げ場のない閉塞感が、車内の空気を薄くしていく。
「分からない。だが、相手は君の『思考の先』を読んでいる。……佐藤部長が言っていた『聖域』の意味が、ようやく分かった気がするよ。……これは単なる銀行の不祥事じゃない。……もっと巨大な、触れてはならない『システム』だ」
不意に、澪のスマホに新しい通知が届いた。それは、彼女のSNSアカウントが「顧客情報の流出を自白する投稿」を勝手に発信し始めたという通知だった。
「……やめて! 私がやったんじゃない!」
叫ぶ澪の隣で、栗栖はかつてないほど険しい表情でキーボードを叩き続けていた。
暴力ではない。だが、確実に一人の人間の居場所を奪っていく、音のない攻撃。
辞令まで、あと六日。
姿の見えない蛇に足を噛まれたような絶望感の中、澪たちは渋谷の街を彷徨うことしかできなかった。




