第十一話 蛇の巣窟(そうくつ)
帝都中央銀行本店。
月曜日の朝礼が始まる時刻、久保田は自分のデスクではなく、墨田区にある『サイバー・アルケミスト』の事務所にいた。
昨日、遠藤常務から言い渡されたのは、一週間後の「帝都ビジネスサービス」への出向辞令だった。
実質的な追放だ。佐々木次長は、辞令が出るまでの間、行内での一切の端末操作を禁じ、有給休暇を消化して自宅待機するよう冷淡に告げた。
「……おはよう」
扉を開けると、栗栖は相変わらずモニターの青白い光に照らされていた。
「来たか。……随分と晴れやかな顔だな。銀行員をクビになって、ようやく肩の荷が下りたか?」
「皮肉はやめて。……今朝、佐藤IT統括部長に電話したけど、鼻で笑って切られたわ。『君のような不祥事の元凶が、どの面下げて連絡してくる。大人しく辞令に従え』って。……あの人は最初から、保身のことしか考えていない。救いようのない『あちら側』の人間よ」
澪はデスクに突っ伏した。佐藤は事件発生時から一貫して隠蔽を主張し、現場で戦う澪を「和を乱す存在」として敵視し続けてきた。その態度は、左遷が決まった今、さらに苛烈なものになっていた。
「久保田さん。佐藤部長が君を拒絶するのは、組織のシステムとしては正常な動作だ。……だが、彼が完璧に『あちら側』として、銀行内部の正規端末から証拠を消し去った。……その『あまりにも完璧な処理』が、逆に僕に答えをくれたよ」
「……どういうこと?」
「証拠隠滅のログは、それ自体が銀行の監査システムに引っかからないよう、正規の『メンテナンス用バッチ処理』に偽装されていた。だが、その処理スケジュールをねじ込んだ端末の物理アドレスを追った。……発信元は、佐藤部長の執務室にある専用端末だ。彼は昨夜、銀行に残り、自分自身の指で君への引導を渡したんだよ」
神田のガード下。澪と栗栖は、一台の目立たないセダンの車内にいた。
澪は、喫茶店から出てきた佐藤部長の姿を、遠くから見つめることしかできなかった。佐藤は、今回の件で便宜を図ったとされる取引先の役員と握手を交わし、満面の笑みを浮かべて黒塗りの車に乗り込んでいく。
「……あんなに楽しそうに。私や若手行員の人生を狂わせておいて、自分だけは安泰っていうわけね」
澪の声は怒りで震えていた。佐藤は澪の呼び出しに応じるどころか、彼女が送ったメールさえも「怪文書」として人事部に報告していた。
「見ていろ、久保田さん。佐藤のあの笑顔は、自分が『完璧に証拠を消した』という全能感から来ている。……だが、彼は一つだけ致命的な見落としをしている」
栗栖は車内でノートパソコンを開いた。画面には、佐藤が乗り込んだ車の付近から漏れ出ている無線信号の波形が映し出されている。
「彼は銀行内では慎重だが、一歩外へ出れば、自分のスマホが『どのネットワークに自動接続しようとしているか』までは気にしていない。……佐藤が今、車内から誰かに報告を入れた。……送信先は、丸の内の本店でも、彼の自宅でもない」
「……どこなの?」
「渋谷だ。有限会社ヘビヤ・コンサルティング。……佐藤は、自分が消したはずの『真のログ』のコピーを、保険として外部の協力者に預けたな。……それが、彼の命取りになる」
香織の運転する車で、渋谷・道玄坂へ向かう。
目的地は、佐藤のスマホが秘密裏に通信を行っていた先――闇バイトの供給源『ヘビヤ・コンサルティング』の入居ビルだ。
「……佐藤部長は、遠藤常務の指示でヘビヤに情報を流している。……自分の立場を守るために、反社会的な勢力とまで手を組んだのね」
「……だろうな。だが、その強固な結びつきこそが、彼らの脆弱性だ。……奥田頭取という巨大な影の向こうで、獲物を待つ遠藤の悪意を、デジタルの罠に引きずり出してやる」
車が渋谷に到着した。
栗栖がキーボードを叩くと、ヘビヤの通信網が赤い蜘蛛の巣のように浮かび上がった。
左遷辞令まで、あと六日。
徹底的に切り捨てられた澪の、本当の逆転劇が、渋谷の喧騒の中で静かに幕を開けた。




