第十話 功労者の左遷
帝都中央銀行本店。吹き抜けのロビーには、朝日と共に静かな、しかし確かな活気が戻っていた。
墨田区から一時間、香織の運転する車で滑り込んだ澪は、正面玄関の自動ドアをくぐり、足を止めた。ロビーに設置された円柱型のモニターには、全サービスが正常に稼働中であることを示すグリーンのテロップが流れている。
三日間、地獄の底を這いずり回るような思いでコードと格闘し、ようやく辿り着いた平穏だった。
ロビーを行き交う行員たちの顔には、最悪の事態を免れた安堵が広がっている。だが、澪の姿を認めた途端、周囲の空気がさっと引いていくのを彼女は感じた。
「久保田主任。……戻ったか」
声をかけてきたのは、直属の上司であるシステム開発部次長の佐々木だった。労いの言葉を期待した澪に対し、佐々木の目は酷く冷めていた。
「佐々木次長、システムは完全に……」
「わかっている。だが、君はやりすぎた。……今すぐ第十五会議室へ行け。遠藤常務が君の『説明』を待っている」
佐々木は澪と目を合わせようともせず、足早に去っていった。その背中には、組織の荒波から身を守ろうとする保身の影が張り付いていた。
【六月十四日(日曜日) 午前十一時三十分】
第十五会議室。
部屋の上座では、頭取の奥田が深く椅子に背を預け、沈黙を守っている。その横には、リスク管理担当役員、そしてIT統括部長の佐藤が、まるで行き止まりの路地に追い詰められたかのような顔で並んでいた。
だが、その場の空気を支配していたのは、鋭い目つきで澪を睨みつける遠藤常務だった。
「久保田主任。今回の事案について、君の独断専行が目に余るとの報告を受けている。外部の素性も知れぬハッカーを、あろうことか重要拠点である丸菱精密や、行内のセキュリティエリアにまで関与させたというのは事実か?」
澪は乾いた喉を鳴らし、背筋を伸ばした。
「事実です。ですが、あの状況下でシステムの消去を止めるには、栗栖さんの技術が不可欠でした。それに、丸菱精密で見つかった物理デバイスを見れば、内部に手引きした者がいるのは明らかです!」
澪は、栗栖から預かった解析データの写しをテーブルに置いた。
しかし、遠藤はそれを一瞥もせず、鼻で笑った。
「内部不正だと? 証拠は、その『ハッカー』とやらが捏造したものではないという保証がどこにある。我が行の行員に裏切り者がいるなどという、組織の士気を下げるような妄言は許されん。今回の件は、あくまで外部からの高度なサイバー攻撃であり、それを我が行の既存システムが食い止めた。対外的にはそう発表する」
「そんな……。嘘をつくんですか? 真実を究明しなければ、また同じことが起きます!」
澪は佐藤部長に助けを求めるような視線を送った。しかし、佐藤は苦渋に満ちた表情で視線を伏せるだけだった。
「久保田君。君の勝手な行動は、セキュリティ・ポリシーに対する重大な反逆行為だ。……君には一週間後、関連会社の『帝都ビジネスサービス』への出向を命ずる。それまでは、事後処理のみを行い、余計な動きは一切慎むように」
更迭、そして事実上の口封じ。奥田頭取は、最後まで沈黙を破ることはなかった。
【六月十四日(日曜日) 午後七時〇〇分】
墨田区、向島。路地裏の古びた居酒屋。
仮眠をし、夕食がてらに栗栖と澪は居酒屋にやってきた。澪は、目の前に置かれた日本酒『澪』のグラスを一気に煽った。
「……信じられない。三日間、一睡もせずにサーバーにしがみついていた人間に対して、左遷だなんて。佐藤部長まで、遠藤常務に何も言い返せないなんて……」
愚痴をこぼす澪の正面で、栗栖は静かに酒を口に含んでいた。
「久保田さん。佐藤部長が黙っていたのは、彼が無能だからじゃない。……おそらく、遠藤とグルだ」
「え……?」
「佐藤部長の端末のログを確認した。彼は遠藤常務の指示で、不自然な裏取引のデータを消去させられている形跡がある」
栗栖は、店のおしぼりでテーブルの上の水滴を拭った。
「遠藤こそが、ハッカーを引き入れた真のバグだ。……辞令が出るまでの一週間。その間に、この汚れたシステムを根こそぎクリーンアップしてやる。……手伝うか?」
澪はグラスを置き、栗栖を真っ直ぐに見つめた。酔いは一瞬で吹き飛んでいた。
「当たり前でしょ。……私のシステムに泥を塗った奴を、そのままにしておけるわけないじゃない」
夜の向島に、二人の静かな、しかし熱い決意が溶けていった。




